第1話「にゃあ、の練習から」
肉球だ。
ぷにぷにした、ピンク色の肉球が、視界いっぱいに広がっている。
……なんで?
寝ぼけた頭が、ゆっくりと起動する。体の下が柔らかい。ふかふかした何かの上に横たわっている。布団にしては毛足が長いし、病院のベッドにしては感触が贅沢すぎる。
それより肉球。この肉球。誰の。
自分の手を見ようとして、さっきの肉球がまた動いた。
自分のだ。
え、ちょっと待って。
パニックになりかけた脳が、順番に情報を処理しようとする。一、体が小さい。二、白い毛で覆われている。三、肉球がある。四、お尻のあたりに何か長いものが——尻尾!?
振り返ろうとして、体ごとぐるんと回ってしまう。四本足の制御が全然きかない。生まれたての子鹿みたいに、というか生まれたての子猫そのものだ。
猫になっている。
理解が追いつかない。どう見ても猫。白い毛並み。短い脚。自分の意思と無関係にぴくぴく動く耳。片方の耳だけ、視界の端にグレーの毛が見える。
なんで猫。なんで私が。
——あ。
記憶が、一拍遅れて戻ってくる。
残業27時間目のデスク。「佐藤さん、顔色やばいですよ」と後輩が言っていた。やばいのは知ってる。でも月末の経費精算を誰がやるのかという話で——そこから先が、ない。
つまり、倒れたのだ。佐藤美咲、28歳、事務職OL。経費精算の途中で。
それが、どうして猫に。
後輩が貸してくれた異世界転生小説を思い出す。あれは大体、イケメンに囲まれて前世の知識でチートする話だった。猫に転生する話はなかった気がする。いやあったかもしれないけど、少なくとも28歳の事務職OLが猫になるルートは想定外である。
ひとまず、鳴いてみよう。
人間の言葉が出るかもしれない。「すみません」と言おうとした。
「にゃ」
出なかった。
もう一回。「あの、ここはどちらでしょうか」と、丁寧に。
「にゃあぅ」
丁寧にしたところで猫語だった。
何度か試す。「助けてください」「にゃーん」。「人事部に連絡を」「みゃ」。「有給使ってないんですけど」「……にゃ」。
駄目だ。完全に猫。人間の言葉は一切出ない。
そうこうしているうちに、部屋の扉が開く。
甘いラベンダーの香りが先に届いて、次に足音。軽くて、でもしっかりした歩き方。カツ、カツと規則正しいヒールの音が近づいてくる。
「あら、起きたのね」
見上げた先に、とんでもない美少女がいた。
銀色がかった薄紫の髪。紫水晶みたいな瞳。背筋がぴんと伸びていて、まとっている空気が「私に話しかけるな」と言っている。だけど猫を見下ろす目だけが、ほんの少し柔らかい。
「捨て猫を拾うなんて、私らしくもないけれど」
彼女は膝を折って、こちらに手を伸ばす。指先からローズの香りがした。
「今日からあなたはミーシャよ。私の猫」
ミーシャ。今、名前をつけられた。佐藤美咲、28歳、改め、ミーシャ、生後不明。
抱き上げられる。ひょい、と。猫の体は本当に軽いらしく、彼女は片手で持ち上げた。胸元に抱かれると、ドレスの絹が頬に触れる。滑らかで冷たくて、でも体温だけが温かい。
「リゼットお嬢様、そちらの猫は……」
後ろから侍女らしき女性が声をかける。
「ミーシャよ。私のペット。文句は受け付けないわ、ナタリー」
リゼット。
その名前に、どこか引っかかるものがある。
リゼット・ヴァルモンド。公爵令嬢。氷の薔薇。
――ああ。
思い出してしまった。後輩に勧められて途中まで遊んだ乙女ゲーム。たしか『星降る庭園のプリンセス』とかいう、やたら長いタイトルのやつ。攻略対象の王子と結ばれるヒロインの前に立ちはだかる、噛ませ犬の悪役令嬢。
それがリゼット・ヴァルモンドだ。
最終的に婚約破棄されて、社交界から追放されるキャラ。
その悪役令嬢の、ペットに転生した。
「にゃあ……」
今度は練習じゃなく、本心からの鳴き声だった。
――私のOL人生、経費精算で終わったと思ったら、猫生は悪役令嬢のペットから始まるらしい。
せめて有給は消化したかった。




