第27話「ただの猫ですけど」
夜。
いつもの時間、いつもの部屋。ベッドの端に腰かけたリゼットが、私を膝に乗せている。愚痴タイム──もとい、報告タイムの時間である。
今日のリゼットはいつもと様子が違う。愚痴を言うでもなく、幸せを語るでもなく、じっと私を見つめている。
ランプの灯りが彼女の瞳を琥珀色に染めている。壁にかかったヴァルモンド家の紋章──翼を広げた鷹が、影の中で揺れていた。
「ミーシャ」
にゃ。
「あなた、ただの猫じゃないでしょう」
来た。
この質問は前にも一度されている。少し前に。あのときはうまく誤魔化した。が、今回のリゼットの目は本気だ。追及モードだ。上司に「この見積もり、本当に精査した?」と聞かれたときの圧に似ている。
「文字を読める猫なんて、いない。手紙を正しい相手に届けられる猫も。断罪の場にちょうど証拠を咥えて現れる猫も」
全部事実なので反論のしようがない。
にゃあ、と鳴いてみる。「何のことですか?」というニュアンスを込めたつもりだが、猫の鳴き声にそんな精度はない。
「お嬢様」
ナタリーが部屋の隅から声を発した。いたのか。気配を消すのがうまい。侍女スキルが高すぎる。
「私も──ずっとそう思っておりました」
ナタリーの声は穏やかだ。糾弾する響きがない。
「この子は、お嬢様の言葉を理解しています。最初は気のせいかと思いました。でもあの日、文字をじっと追っているのを見てから——試してみたんです」
試した?
「棚の上にお菓子を置いたとき、わざと『3段目の右端にありますよ』と独り言を言いました。普通の猫なら反応しません。でもミーシャは——」
……そっちを見た。思い出した。あのとき、反射的に棚を確認してしまった。
「紅茶を入れるとき、二つのカップのうち『左がお嬢様のです、熱いから気をつけて』と言ったら、左のカップだけ避けて歩きました」
あれもテストだったの。私はてっきり親切な情報共有だと思って素直に従っていた。社畜の条件反射で指示に即対応してしまう悲しい性。
「あと、お嬢様の日記を開いたまま机に置いておいたとき——」
「えっ、私の日記?」
「ミーシャが日記のページをめくろうとしたので、間違いないと」
リゼットの顔が赤くなっている。日記の中身が気になっているらしい。私も気になったから読もうとした。読もうとしただけだ。読めなかった。猫の手ではページがめくれない。
「何項目テストしたの」
「12項目です」
12項目。品質管理部もびっくりの検証回数だ。しかも全部バレていたということは、私のスパイ適性は限りなくゼロに近い。
ナタリーさん。あなた完全に最初から見抜いてましたよね。
リゼットの手が、私の頭をそっと包む。
「怖がらせるつもりはないの」
怖がってない。怖がってないが、心臓はバクバクしている。猫の心臓は人間より速いから、リゼットの掌にも伝わっているかもしれない。
「あなたが何者でも、私のミーシャでしょう?」
──ずるい。
その言い方は、ずるい。
ナタリーが私の隣にしゃがみ込んで、顎の下を撫でてくれる。彼女の指はいつも少しインクの匂いがする。事務仕事が多いのだ。元OLとして親近感がある。
「私もです。あなたが何であっても、お嬢様の一番の味方でいてくれた。それだけで十分です」
二人の視線が私に集まっている。
答えを求めているのか。でも私は猫だ。にゃあ以外の選択肢がない。
……ただの猫ですけど?
元OLだけど。
社畜時代は毎日終電で帰っていたけど。エクセルのVLOOKUPなら猫の手でも打てる自信があるけど。
でも今は──ただの猫だ。
この子たちの前では、猫でいい。
にゃあ。
リゼットが笑った。ナタリーも笑った。
「やっぱり、普通の猫じゃないわ」
「ですね」
いや、だから。
……まあ、いいか。
知られている。でも受け入れられている。正体を暴かれたのに、追い出されるどころか、二人の笑顔が向けられている。
前世では「本当の自分を見せたら嫌われるかも」なんて考えていた気がする。
猫になってから、そういう心配がなくなった。
猫ですけど、と心の中でもう一度呟く。
それで受け入れてもらえるなら、猫で結構。
リゼットが私をぎゅっと抱きしめる。苦しい。でも温かい。ナタリーの手が背中を撫でている。
……まあ、残業代は出ないが、福利厚生は前世より充実している。
「ところでミーシャ」
リゼットが急に真顔になる。
「あなた、もしかして人間の言葉を喋れたりする?」
にゃあ。
「……やっぱり猫ね」
「でもお嬢様、今の鳴き方、少し呆れた感じがしませんでした?」
「したわ。明らかに『何言ってるの』って顔してたわ」
してないしてない。猫の顔にそんな表情筋はない。……ないはずだ。たぶん。
「明日から、ミーシャが頷いたら『はい』、首を横に振ったら『いいえ』ということにしましょう」
ナタリーが提案する。
それ、コミュニケーション手段としては画期的だが、猫としてのアイデンティティが崩壊する。
にゃあ。
「今のは『はい』かしら」
「『いいえ』だと思います」
「根拠は?」
「尻尾が不機嫌に揺れてます」
勝手に猫語を翻訳するな。しかも当たっている。




