第26話「王子、頭を下げる」
断罪の場から一夜明けた。
私──ミーシャ、元OL、現・猫は、リゼットの膝の上で丸くなっている。昨日の全力疾走の代償が四肢に来ていて、肉球がじんじんする。
人間だったころの筋肉痛は翌日に来たが、猫になってからは当日に来る。代謝が速いのか。いやそういう問題か。
控えの間の扉が開いて、ナタリーが紅茶を運んでくる。湯気の向こうにカモミールの甘い香り。リゼットの好きな銘柄だ。
「リゼット様、クロード殿下がお見えです」
リゼットの指が、私の背中の上でぴたりと止まる。
撫でてたでしょ今。続けて。
「……通して」
リゼットの声がいつもの「氷の薔薇」モードに切り替わる。背筋が伸び、表情から温度が消えていく。膝の上の私ごと凍りそうな切り替え速度である。
扉が開いて、銀髪の王子が入ってくる。
クロード・ルクレールの顔色が悪い。普段は絵画みたいに整った顔をしているのに、今日は目の下に隈がある。寝てないな、これ。前世の上司を思い出す。決算期の課長もこんな顔だった。
「リゼット」
王子がリゼットの前に立つ。
そして──膝をついた。
え。
「すまなかった」
王子が、頭を下げている。
私は猫なので表情が動かないのだが、内心では口が開いたまま閉じない。王子が。あのプライドの塊みたいな王子が。膝を。
リゼットも固まっている。膝の上の私も固まっている。この部屋にいる全員が彫刻になっている。
「俺は──お前が苦しんでいたことに気づかなかった。いや」
クロードが言い直す。
「気づいていて、目を逸らしていた」
……ほう。
クロードの声が震えている。指先が拳を握ったり開いたりしている。レオンが口を噤んだときの、あの苦しそうな顔が重なる。あの騎士は、全部知っていたのだ。主の不器用さも、その裏にあるものも。
リゼットの指が、私の毛並みをぎゅっと掴む。痛くはない。でも震えている。
「殿下、頭をお上げください。床が冷たいでしょう」
リゼットの声は平坦だ。でも膝が震えているのを私は知っている。なにせ私はその膝の上にいるのだから。
「上げない。まだ言い終えていない」
王子が顔を上げた。碧い目がまっすぐリゼットを射抜く。
「お前のことが好きだ」
──はい?
「婚約者としてではなく。王族の義務でもなく。俺が、お前のことが好きだ」
私は前世でそれなりに恋愛ドラマを見てきた社畜OLだが、この距離で生の告白を聞くのは初めてだ。しかも猫として。膝の上で。
リゼットの心臓の音が、お腹に響いてくる。速い。すごく速い。外面は完璧に取り繕っているのに、心拍数は正直である。
「……殿下」
「クロードでいい。もう敬称はやめてくれ」
「では、クロード様」
「様もいらない」
「……クロード」
リゼットがその名前を呼んだ瞬間、王子の耳が赤くなった。
照れ屋め。
「私も」
リゼットの声が少し揺れる。
「私も、あなたのことを──ずっと」
続きを言う前にリゼットの目から涙がこぼれた。昨日の断罪の場でも泣いていたが、今日の涙は種類が違う。私の毛に落ちてくるそれが、じんわりと温かい。
こら。猫を濡らすな。毛が乾くのに時間かかるんだから。
泣きながら笑っているリゼットを見て、クロードが困った顔をしている。ハンカチを出そうとしたが、その前にリゼットが袖で拭ってしまう。令嬢としては最悪の所作だが、クロードは少し笑った。
「泣き顔も見せてくれるようになったのか」
「猫の前では、いつも泣いてます」
知ってるよ。毎晩だよ。
クロードの視線が私に向いた。
「……猫」
にゃあ。
「お前にも、礼を言わなければならない」
王子が──私に向かって頭を下げた。
猫に頭を下げる王子。
この国の歴史において前例のない光景が、今ここで生まれている。
「お前がいなければ、俺はリゼットの本当の顔を知らないままだった。──ありがとう」
いやいやいや。私はただ走っただけだし、毛玉を追いかけていただけの日もあるし、日向ぼっこで半日消えたこともあるし。そんな大層なものではないのだが。
でも。
まあ。
悪い気はしない。
元社畜として言わせてもらえば、「ありがとう」は最強の報酬だ。残業代より効くこともある。
にゃあ。
どういたしまして、の意味を込めて鳴いた。伝わっているかは知らない。
リゼットが私を抱き上げて、泣きながら頬ずりしてくる。濡れる。顔が濡れる。
クロードがその光景を見て、小さく息を吐いた。
「──やっぱり、その猫に嫉妬する」
知ってた。




