第23話「走れ、全力で」
朝露が肉球に冷たい。
日の出前の学園は静まり返っている。鳥すらまだ眠っている時間。渡り廊下を走る猫の足音だけが、石の壁に反響して消えていく。
昨夜の成果は上々だった。
マルグリットの部屋に忍び込んだのは、深夜2時。窓の隙間から入り込み、机の上を探った。猫の手ではページをめくるのが限界だが、それで十分。
見つけたのは、革表紙の手帳だ。
中を開けるのに苦労したが、爪で表紙を引っ掛けて持ち上げた。月明かりで読んだ内容は——
日付入りの指示リスト。「ヴィクトリアに花壇の件を伝達」「一年生グループへの拡散」「嘆願書の署名、目標30名」。
全部書いてある。計画的な人間は、やはり記録を残す。進捗管理の鬼。前世の先輩にもこのタイプがいた。几帳面だからこそ記録を捨てられない。成果の証拠を手元に置いておきたくなるのだ。まさか猫に持ち出されるとは思うまい。
侵入経路は、窓脇の排水管と壁の隙間だ。人間には到底通れない幅。猫でも毛が引っかかるくらい狭い。マルグリットが施錠を怠ったのではなく、そもそもこの隙間から何かが入ってくるなど想定していなかったのだろう。人間の防犯に猫サイズの侵入者は計算に入っていない。
この手帳があれば、マルグリットが噂を捏造したことを証明できる——かもしれない。少なくとも、場を揺らすには十分なはずだ。
問題は——猫がどうやってこの手帳を持ち出すか。
答え:咥えて走る。
革表紙が口の中で苦い。手帳は思ったより重くて、顎が痛い。でも離すわけにはいかない。
集会は朝8時。講堂で行われる。今は6時。あと2時間。
リゼットの部屋に戻って手帳を見せる? いや、それだと猫がどこからどうやって手帳を持ってきたか説明がつかない。リゼット一人では動けない。
直接、講堂に持っていく。集会の場で、全員の前に証拠を突き出す。
猫一匹の法廷闘争。前世の裁判ドラマでも見たことがない展開。
でもやるしかない。
◆
朝7時半。講堂の前に生徒が集まり始めている。
私は講堂の裏手、通気口の近くに身を潜めていた。口の中に手帳を咥えたまま、呼吸が苦しい。革の味が喉に張り付いて、吐き出したい衝動を必死で堪えている。
リゼットの姿を探す。
——いた。
正門から歩いてくるリゼット。背筋を伸ばし、いつもの氷の薔薇の表情。だけど目の下に隈がある。昨夜、眠れなかったんだろう。
その横にナタリーがいる。リゼットの一歩後ろ、侍女の定位置。ナタリーの目が鋭い。戦闘モードだ。
リリアーナも来ている。不安そうな顔で、何度もリゼットの方を見ている。
クロードは——いた。講堂の入り口の柱に背をもたれている。無表情。でも来ている。
8時。鐘が鳴る。
生徒と教師が講堂に入っていく。私は通気口から建物の中に滑り込み、天井近くの梁を伝って講堂の上部に移動した。
壇上に学園長。その横にマルグリットが立っている。赤いバラの髪飾り。自信に満ちた表情。嘆願書を手に、リゼットの「罪状」を読み上げる準備を整えている。
客席の前方にリゼット。一人で、まっすぐ前を向いている。
学園長が開会を告げる。
「本日は、生徒間の問題について——」
マルグリットが一歩前に出た。
「学園長。リゼット・ヴァルモンド嬢によるリリアーナ・フォレスト嬢への継続的な嫌がらせについて、30名の署名による嘆願書を——」
今だ。
梁から飛び降りた。
猫の体は空中でくるりと回転し、四本足で着地する。衝撃が爪先に走る。肉球が床を叩く音が、静まり返った講堂に響いた。
全員の視線が、猫に集まる。
「ミーシャ!?」
リゼットの声。驚愕。
「猫が——どこから入った!?」
教師の声。
構わない。走る。
通路を全力で駆け抜け、壇上に向かって一直線。階段を3段飛ばしで駆け上がり——
マルグリットの足元に、手帳を落とした。
べっ、と口から吐き出す。革表紙に猫の歯形と唾液がついている。見栄えは最悪だが、中身は無事のはずだ。
講堂が静まり返る。
マルグリットの顔から、初めて血の気が引くのが見えた。
「それは——どうして——」
学園長が手帳を拾い上げ、ゆっくりとページをめくる。眉が寄り、指が止まる。
「……これは」
学園長の声が、低くなった。しかし次の瞬間、手帳を閉じて壇上の全員を見渡す。
「マルグリット嬢。これはあなたの手帳ですか」
「違います!」
マルグリットの声が講堂に跳ね返る。青ざめてはいるが、完全には崩れていない。
「猫が咥えてきた物を証拠として扱うのですか? どこで拾ったかもわからない——いえ、そもそも誰かが猫に持たせたのかもしれません。ヴァルモンド家の猫ですよ?」
客席がざわめく。「確かに」「猫って……」と囁き声が混じっている。
学園長が片手を上げて静粛を求めた。
「落ち着きなさい。この手帳の内容は確かに気になるものですが、マルグリット嬢の言い分にも一理ある。出所が不明な証拠を、この場で即座に採用することはできません」
——え。
嘘でしょう。
学園長が手帳を壇上の机に置く。
「この手帳は学園で預かります。筆跡の照合を含め、正式な調査を行ったうえで判断します。本日の集会は——」
「では、嘆願書の審議はそのまま進めていただけるのですね?」
マルグリットが食い下がる。声は震えているが、形勢を読む目はまだ死んでいない。前世の会議で、不利な議題を手続き論でひっくり返す管理職を何人も見てきた。あの目だ。
学園長が一拍、黙った。
「……嘆願書の審議も保留とします。双方の件について調査を行い、後日改めて——」
「保留って、それじゃ——」
リゼットの声が小さく漏れた。保留。白でも黒でもない。疑惑は投げ込まれたが、決着はついていない。
私は壇上の端に座って、息を整えていた。
全力疾走で爪が一本折れている。肉球が擦りむけて、じんじんする。口の中は革の味でいっぱいだ。
届いた。確かに届いた。
場の空気は変わった。マルグリットの完璧な筋書きに亀裂が入ったのは間違いない。嘆願書の審議も止まった。
でも——足りない。
手帳だけでは、ひっくり返せなかった。猫が持ってきた証拠という時点で、信用の土台が脆すぎる。考えてみれば当然だ。法廷に野良猫が証拠品を咥えてきたら、前世だって却下される。
もう一手、要る。
マルグリットが壇上から降りるとき、一瞬だけ私と目が合った。その瞳の奥に、安堵ではなく焦りが見える。完全に逃げ切れたとは思っていないのだ。
手帳は楔を打ち込んだ。でも、それを打ち抜く槌がまだない。




