第22話「明日で終わるかも」
朝から空気が重い。
猫の鼻はごまかせない。今日の空気には、湿った鉄のような匂いが混じっている。雨の前の匂いじゃない。もっと人工的な、意図を含んだ重さ。
学園の廊下で、生徒たちの視線がリゼットに集まっている。いつもとは違う種類の視線。好奇心。期待。そして——悪意。
昼休み。リゼットが中庭のベンチに座って、私を膝に乗せていた。弁当を広げる手が、微かに震えている。
「ミーシャ」
にゃ。
「明日の学園集会で、私が糾弾されるみたい」
箸が止まる。私の箸じゃない、私猫だし。リゼットの箸が。
「マルグリットさんが学園長に嘆願書を出したの。『リゼット・ヴァルモンドがリリアーナ・フォレストに嫌がらせを繰り返している』って」
嘘だ。全部嘘だ。
「署名が30人分。どうやって集めたのかしら」
リゼットの声は平坦だ。氷の薔薇モード。感情を凍らせて、何も感じないふりをしている。でも膝の上の私には分かる。脈が速い。
鴉が一羽、中庭の木の上で鳴いた。不吉な声が空気を裂いて消えていく。
「お茶会で噂は落ち着いたと思っていたけど、あれは表面だけだったみたいね。裏で着々と準備されていたの」
マルグリット。あの舞踏会で見た赤いドレスの令嬢。噂をばら撒くだけでなく、嘆願書まで用意していた。周到すぎる。計画的だ。
「明日の集会で弁明の機会はあるけど、証人がいないの。リリアーナさんが味方してくれても、『洗脳されている』と言われるでしょうし」
リゼットが空を見上げる。灰色の雲が低く垂れ込めている。
「ナタリーが『全力で戦いましょう』って言ってくれたわ。お兄様にも連絡を取ったけど、王都から明日までに戻れるかわからないって」
弁当に手をつけないまま、リゼットは私を膝から持ち上げた。
目の高さで見つめ合う。紫水晶の瞳に、私の白い顔が映っている。
「ミーシャ」
「にゃあ」
「明日で、全部終わるかもしれない」
その声には、諦めが混じっていた。氷の仮面の下に隠された、17歳の少女の本音。
「公爵令嬢の名前が傷つく。婚約も、社交界での立場も。お父様に迷惑をかけて——」
声が詰まった。
リゼットが私を胸元に引き寄せ、顔を埋める。ドレスの生地が冷たい。でもリゼットの涙は温かくて、塩の味がして、私の毛を濡らしていく。
「……ごめんね。猫にこんなこと言っても、どうしようもないのに」
どうしようもなくなんかない。
私は猫だけど、ただの猫じゃない。
にゃあしか言えないけど、走ることはできる。聞くことはできる。嗅ぐことはできる。
そして——一つだけ、思い出したことがある。
噂の出どころを探っていたとき。ヴィクトリアの教室の前で聞いた会話。「マルグリットに頼まれて」。
あのとき、教室の中にいたのはヴィクトリアだけじゃなかった。もう一人、声があった。落ち着いたアルトの声。あの人が何者なのか、まだ確認できていない。
でもそれより重要なのは——ヴィクトリアが「マルグリットに頼まれて」と証言していたこと。
あの会話を聞いていたのは猫だけだ。証拠にはならない。
しかし。
マルグリットが嘆願書を出すなら、その準備の過程で何か物証を残しているはず。指示書。メモ。手紙。前世の経験が教えてくれる——計画的な人間ほど、記録を残す。管理するために。
マルグリットの部屋に、何かがあるはずだ。
猫は小さい。猫は静かだ。猫は——建物のどこにでも入れる。
リゼットの腕の中で、私は決意を固めていた。
今夜。マルグリットの部屋に忍び込む。
「ミーシャ、どうしたの。急にそわそわして」
「にゃあ」
大丈夫。大丈夫だから。
明日、走る。全力で。




