第19話「冗談よ、と笑う人」
お茶会は成功した。
リゼットとリリアーナが中庭のテラスで紅茶を飲む姿は、翌日には学園中に広まっていた。「嫌がらせ」の噂は、二人が笑顔で談笑する現実の前にあっさり力を失っている。
ヴィクトリアは居心地悪そうに目を逸らしていたし、一年生の噂好きグループも「あれ、全然仲いいじゃん」と手のひらを返した。
人間というのは、噂より目の前の光景を信じる。それは前世のSNS時代も同じだ。テキストの告発より、笑い合う写真一枚の方が強い。
というわけで、ひとまず危機は去った。
——はずなのに。
今、私の心臓は全く別の理由でばくばくしている。
夜。リゼットの部屋。いつもの愚痴タイム。
リゼットは寝台に腰かけ、私を膝に乗せて、髪をほどいている。ブラシが銀色の髪を梳くたびに、薔薇の精油の香りが漂う。
ここまではいつも通り。
「ねえ、ミーシャ」
「にゃ?」
「今日、面白いことがあったの」
リゼットの声は穏やかだ。いつもの愚痴モードとも、甘えモードとも違う。静かで、どこか試すような響きがある。
「リリアーナさんが教えてくれたの。ミーシャが手紙を届けてくれたって」
うん、知ってる。私が届けたんだし。
「すごいわよね。猫が、手紙を咥えて、東棟の3階まで走ったなんて」
リゼットの指が私の背中を撫でる。ゆっくりと、丁寧に。
「偶然かしら。たまたまリリアーナさんの部屋の前に行ったのかしら」
……嫌な予感。
「でもね、ミーシャ。リリアーナさんの部屋は東棟307号室よ。あなたが一度も行ったことのない場所」
指が止まった。
「たまたま辿り着ける場所じゃないの」
静寂。窓の外で虫が鳴いている。規則的な、秋の虫の声。
リゼットが私を持ち上げ、目の高さに掲げた。
紫水晶みたいな瞳が、まっすぐ私を見ている。
「あなた、ただの猫じゃないでしょう」
——来た。
心臓が跳ね上がる。体が強張る。尻尾が意思に反してぶわっと膨らむ。
前世の記憶が走馬灯のように——いや走馬灯は大げさだけど、「バレた」ときの恐怖が全身を走っている。
どうする。どうすればいい。
否定する? 猫らしく「にゃあ」と鳴いてとぼける?
でもリゼットの目は笑っていない。あの「氷の薔薇」の目だ。嘘を見抜く、公爵令嬢の目。ナタリーと同じ種類の——いや、もっと鋭い光。
私は固まったまま、リゼットの顔を見つめ返すことしかできない。
1秒。
2秒。
3秒。
永遠みたいな3秒が過ぎた。
リゼットの口元が、ふっと緩んだ。
「……冗談よ」
軽い声。笑い声まじりの、いつもの甘い声。
「猫が手紙を届けるなんて、お利口さんね、ミーシャ」
私を胸に抱き寄せる。温かい。柔らかい。薔薇の匂い。
ほっとした——と思いたかった。
でも。
リゼットの顎の下に顔を押し付けられた状態で、私には見えない。彼女の表情が。
代わりに聞こえたのは、心音。
速い。
リゼットの心臓が、普段より明らかに速く打っている。
「冗談」と笑った人の心臓が、こんなに速く打つだろうか。
「さ、もう寝ましょう。ミーシャ、今日は一緒に寝てくれる?」
「……にゃあ」
リゼットは私を布団に入れ、明かりを消した。
暗闇の中、彼女の指が私の耳の後ろをくすぐっている。いつもの、眠る前の儀式。
「ミーシャ」
「にゃ」
「……何でもいいの。何者でもいいの。あなたがミーシャでいてくれるなら」
その声は震えていなかった。でも、指先が少しだけ冷たかった。
私は暗闇の中で、リゼットの手に額を押し付ける。
大丈夫。どこにも行かない。にゃあしか言えないけど。
——リゼットは気づいている。少なくとも、疑っている。
でも「冗談」と言った。問い詰めなかった。
それが優しさなのか、恐怖なのか、それとも——今の関係を壊したくないという祈りなのか。
わからない。猫の脳では、人間の心の機微を完全には読み取れない。
けれどひとつだけ。
あの目は、笑っていなかった。




