第18話「手紙を咥えて走る」
作戦を思いついたのは、深夜のことだった。
リゼットが眠った後、私は枕元でずっと考えていた。猫の脳は小さいはずなのに、前世の思考回路がフル稼働して眠れない。こういうとき「猫だから何も考えなくていい」特権を使いたいのに、使えない。元OLの業。
噂の出どころはマルグリット。それをリゼットに伝える手段はない。
でも——噂そのものを無効化する方法ならある。
「リゼットがリリアーナに嫌がらせをしている」。これがデマだと証明するには、リゼットとリリアーナが仲良くしている事実を衆目に晒せばいい。
問題は、リゼットのプライドが邪魔をすること。
リゼットは「氷の薔薇」として振る舞うことに全力を注いでいる。自分から「リリアーナさん、お茶しましょう」なんて誘えるタイプじゃない。公爵令嬢の体面。ヴァルモンド家の名。そういうものが、彼女の足を縛っている。
でもリリアーナはリゼットのことが好きだ。「リゼット様みたいになりたい」と言えるほどに。だからリゼットの方から一歩踏み出せば、きっとリリアーナは喜んで応じる。
手紙だ。
リゼットからリリアーナへの短い手紙。「お茶に招きたい」の一言でいい。誤解を解くのに演説はいらない。事実が物を言う。
問題は——どうやってリゼットに手紙を書かせるか、そしてそれをリリアーナに届けるか。
あの日のことを思い出す。
リゼットが暇つぶしに、私の首にリボンで小さなメモを結びつけて遊んでいた。「ミーシャは手紙屋さんね」と笑いながら。あのときは「宛先のない手紙」だったけど。
使える。あの遊びの延長線上に、本物の手紙を紛れ込ませられるかもしれない。
翌朝。
リゼットが朝食後に書き物机に向かった瞬間を、私は逃さなかった。
「にゃあ」
リゼットの足に体を擦りつける。ゴロゴロと喉を鳴らす。全力の甘え。
「ミーシャ、今忙しいの。あとでね」
「にゃあぁ」
もう一段階。机の上に飛び乗り、便箋の上に座る。
「こら、ミーシャ。そこはダメ」
リゼットが私を持ち上げようとした瞬間、私はペン立てに前足を伸ばし、一本を倒した。インクの匂いがふわりと広がる。コロコロと転がるペンを追いかけるふりをして、便箋の束を床に落とす。
「もう……あなたって子は」
リゼットが苦笑しながら便箋を拾い上げる。
ここだ。
私はリゼットの膝に飛び乗り、精一杯の甘え声を出す。「にゃーん」。リゼットの手が止まる。彼女がこの声に弱いことは知っている。
「……何? 手紙ごっこがしたいの?」
ビンゴ。
覚えていてくれた。あの遊びを。
リゼットが微笑んで、便箋を一枚手に取る。「じゃあ、誰に書こうかしら」
私は机の隅に置いてある教科書——リリアーナと同じ授業のテキスト——に前足を置いた。
「……リリアーナさん?」
頷くわけにはいかない。猫は頷かない。でも前足でテキストを2回叩く。
リゼットの表情が揺れる。楽しそうな笑みが、少しだけ翳った。
「リリアーナさんに……何を書けばいいの」
沈黙。リゼットの指がペンの上で止まっている。
「……噂のこと、あなたも知ってるの? ミーシャ」
知ってるも何も、昨日スパイ活動して出どころまで突き止めましたけど。
リゼットはしばらく黙っていた。窓の外で鳥が鳴いている。朝の光がインク壺の縁に反射して、小さな虹を作っていた。
やがて、ペンが動き出す。
「……変ね。猫に背中を押されるなんて」
リゼットの筆跡は流麗だった。短い文面。数行だけ。でも私の位置から読めた——「お茶にお招きしたい」「あなたとお話がしたい」。
十分だ。
手紙が折りたたまれ、小さな封筒に入れられる。リゼットは少し迷ってから、いつものように細いリボンで封筒を私の首輪に結んだ。
「届けられるわけないけど……ミーシャ、手紙屋さん、お願いね」
冗談のつもりだったのだろう。猫が手紙を届けるなんて、普通はありえない。
でも私は普通の猫じゃない。
「にゃあ」
私はリゼットの膝から飛び降り、部屋の扉の前に座った。出してくれ、という明確な意思表示。
「ミーシャ?」
扉に前足をかける。リゼットが怪訝な顔で近づき、扉を開けた瞬間——
走った。
全力で。
廊下を駆け抜ける。四本の足が絨毯を蹴り、首元でリボンがひらひら揺れる。後ろでリゼットが「ミーシャ!?」と叫ぶ声が聞こえたけど、止まらない。
リリアーナの部屋は東棟の3階。リゼットの部屋は西棟の2階。学園の廊下を横断しなければならない。
渡り廊下で風を切る。朝の空気が冷たくて、ひげが震える。足裏に木の床の継ぎ目を感じながら、角を曲がり、階段を駆け上がる。
途中、掃除中のメイドが「きゃっ」と声を上げた。すみません通りますよ。
東棟3階。息が上がっている。猫の心肺機能をもってしても、全力疾走はきつい。
リリアーナの部屋の前に着く。扉は閉まっている。
ドアの下の隙間は——猫が通るには狭い。
仕方ない。
「にゃあああ!」
全力で鳴いた。
数秒の沈黙。足音。扉が開く。
「え? ミーシャちゃん?」
寝起きのリリアーナが、寝間着のまま目を丸くしている。
私は座って、首元のリボンを見せた。手紙がぶら下がっている。
リリアーナが封筒を解くのに少し手間取る。指先がリボンの結び目をほどき、便箋を開いた瞬間——
「リゼット様から……?」
目が、潤んでいく。
「お茶に……来てほしいって……」
リリアーナは手紙を胸に抱きしめ、しゃがみ込んだ。
「ミーシャちゃん、届けてくれたの?」
「にゃあ」
次の瞬間、私は全力で抱きしめられた。苦しい。でも悪い気はしない。
リリアーナの寝間着はお日様の匂いがした。
——さて。ここからが本番だ。お茶会を成功させて、噂を叩き潰す。
でもその前に、息を整えさせてほしい。猫だって疲れるんですよ。




