第17話「噂の足音」
嫌な予感というのは、大体当たる。前世でもそうだった。「今月残業多いかも」と思った月はだいたい地獄だったし、「この取引先ヤバそう」と感じた案件は必ず炎上する。
で、今。
廊下を歩く生徒たちの声が、ミーシャの耳にちくちく刺さっている。
「ねえ聞いた? リゼット様がリリアーナさんに——」
「嫌がらせしてるって? やっぱり氷の薔薇だもんね」
「怖いわよね。にこにこしてるリリアーナさんが気に入らないのかしら」
私は学園の窓枠の上に座って、尻尾をぱたぱた振っている。
苛立ちで。
違うでしょうが。リゼットはリリアーナに嫌がらせなんてしてない。むしろリリアーナの方が「リゼット様みたいになりたい」って目を輝かせてたじゃないの。あの二人の間に敵意なんか存在しないのだ。
なのに噂は広がっている。
この数日で、少なくとも7回は似たような会話を聞いている。最初は1年生の女子グループだった。次の日には2年生にも広がり、今日は3年生の廊下でも同じ話題が出ていた。
拡散速度が速すぎる。自然発生の噂にしては、あまりに均一に広がっている。
前世のSNS炎上を思い出す。あれも最初の投稿から拡散まで、妙に手際がいいときは大体「仕掛け人」がいた。
誰かが意図的にばら撒いているのだとしたら。
——よし。猫スパイ、出動。
私は窓枠から飛び降り、廊下の端を走り出す。猫の利点はこういうとき最大限に発揮される。誰も猫を警戒しない。壁際を歩いていれば「あら可愛い」で済む。会議室の隅にいても追い出されない。
まず向かったのは、噂の震源地と思われる1年生棟の談話室。
絨毯がふかふかで足音が出ない。嗅覚に甘ったるい花の香り——誰かが持ち込んだポプリだろう。談話室の入り口近くの棚の影に身を潜め、耳を立てる。
3人組の女子が、ソファに座ってお茶を飲んでいる。
「ヴィクトリアお姉様から聞いたんだけど」
ヴィクトリア。2年生の伯爵令嬢。名前は知っている。リゼットの取り巻き——というか、社交的な距離感でリゼットの周辺にいる子だ。
「リゼット様って、リリアーナさんが王子様と話してるのを見ると、すっごく怖い顔するんですって」
いやしないよ。リゼットはクロードに対してそもそも興味なさそうな顔してるでしょ。怖い顔じゃなくて無関心な顔。この二つは全然違う。
「ヴィクトリアお姉様が自分で見たの?」
「えーと、お姉様もお友達から聞いたみたい」
伝聞の伝聞。古典的な噂のロンダリング。「誰かから聞いた」が3回繰り返されると、もう原典なんか誰も気にしない。
私は棚の影からそっと離れ、次の目的地へ向かう。
2年生棟。ヴィクトリアの教室がある階。
途中の廊下で、足元に気配を感じて止まった。
靴音。革底の、軽い足音。
曲がり角から現れたのは——リリアーナだった。
「あっ、ミーシャちゃん!」
天然全開の笑顔で両手を広げる彼女。いやいや今はそれどころじゃないんだけど——
しまった。リリアーナは猫を見ると理性が消えるタイプだった。
「もふもふさせて——」
回避。柱の陰に滑り込む。
「あっ、待って——」
ごめんリリアーナ。今は任務中なの。後で好きなだけ撫でさせてあげるから。
柱の陰を伝って2年生棟の階段を駆け上がり、ヴィクトリアの教室の前に到着する。
ドアが半開きになっている。中から声が漏れていた。
「——だから、あの話を広めたの、私じゃないんだけど」
ヴィクトリアの声。少し焦っている。
「でもヴィクトリア、あなたが一年生に話したんでしょう?」
別の声。落ち着いたアルト。聞き覚えがない。
「それは、その……マルグリットに頼まれて」
マルグリット。
新しい名前が出てきた。私は耳をぴんと立てて、呼吸を止める。
「マルグリットが? どうして?」
「わからない。ただ、『リゼット様のこと、みんなに教えてあげて』って。別に嘘じゃないかもしれないし、って思って……」
嘘だよ。全部嘘。
マルグリット。名前だけは知っている。確か侯爵家の令嬢で、社交界ではリゼットのライバルとされている子。直接会ったことはないけど、リゼットが書類仕事をしながら「マルグリットさんったら、今度は何を——」と零していたのを覚えている。
尻尾が膨らんでいることに気づいて、慌てて深呼吸する。猫の体は感情に正直すぎる。
とにかく、出どころは掴んだ。マルグリットがヴィクトリアを使って噂を拡散させている。でも証拠がない。猫が聞いた廊下の会話なんて、証拠にならない。
リゼットにどう伝える?
「にゃあ」しか言えない猫が、噂の仕掛け人を報告する方法なんて——
あ。
ひとつだけ、思いついた。
でもそれは次の問題。今は情報を整理しないと。
教室の前から離れようとしたとき、足元に影が落ちた。
見上げると、ナタリーが立っていた。
「あら、ミーシャ。こんなところで何をしているの?」
その目が、静かに笑っている。笑っているけど、全然甘くない。
——この人、私がスパイ活動してること、気づいてるでしょ。
「にゃ、にゃあ」
「ふうん。お散歩ね。じゃあ一緒にお嬢様のところに戻りましょう」
有無を言わさず抱き上げられた。ナタリーの腕は温かくて、ラベンダーの匂いがする。
でもその力加減が「逃がさないわよ」と言っている。
——やっぱりこの侍女、怖い。




