第16話「ただの猫じゃない」
ナタリー・ブランは、嘘が嫌いだ。
正確に言えば、嘘に気づいてしまう自分のことが、あまり好きではない。
お嬢様付きの侍女として10年。ヴァルモンド公爵家に仕えて以来、人の表情を読むのは習い性になっている。誰がお世辞を言い、誰が本心を隠し、誰がお嬢様に近づこうとしているのか。それを見抜くのがナタリーの仕事であり、誇りでもある。
だから、あの猫のことも——ずっと引っかかっていた。
ミーシャ。白い毛並みに片耳だけグレーが混じった、一見すれば愛らしいだけの猫。お嬢様が溺愛し、膝に乗せ、毎晩のように愚痴を聞かせている、あの子猫。
おかしいと思い始めたのは、半月ほど前のことだ。
お嬢様が領地経営の書類を広げていたとき、ミーシャは窓辺で丸くなっていた。いつもの光景。だがお嬢様が数字を読み上げた瞬間、あの猫の耳が動いている。
猫の耳は音に反応する。それは当然のこと。
でも——お嬢様が「税収が前年比で3割減」と呟いたとき、ミーシャは明らかに顔をしかめるような仕草を見せていなかったか。
気のせいだと思おうとした。
思おうとして、でも、ナタリーは嘘が嫌いなのだ。自分につく嘘も含めて。
それから意識して観察を始めると、異常は次々と浮かび上がってくる。
まず、文字への反応。お嬢様の部屋で茶菓子の発注書を確認していたときのこと。ミーシャがテーブルの上に飛び乗り、紙面に視線を落としていた。猫が紙の上に座りたがるのはよくある話。でもあの子は座らず、文字列の上を左から右へ、視線を動かしていた。
ナタリーは試しに発注書をひっくり返してみた。
ミーシャは一瞬固まり、それから何事もなかったようにあくびをして、テーブルから降りていった。
あのとき確信の6割を得た。
残りの4割は、この2週間で埋まっている。
お嬢様が悩んでいるとき、ミーシャは必ず膝に乗る。猫が飼い主の気分を察するという話は聞いたことがある。でもミーシャの場合、タイミングが正確すぎるのだ。お嬢様が溜息をつく「前に」動き出す。会話の流れから先を読んでいるとしか思えない。
レオン殿の前でわざと甘えて情報を引き出していた件に至っては、もはや「勘のいい猫」で片付けられる範囲を超えている。あの猫は、レオン殿が王子の話題になると口が軽くなることを理解した上で、計画的に喉を鳴らしに行っている。
ナタリーは侍女長室の椅子に座り、紅茶を一口含んで、天井を見上げた。
砂糖を入れすぎた。甘い。考え事をしていると手元が狂う。
さて。
問題は「あの猫がおかしい」ことではない。問題は「それをどうするか」だ。
お嬢様に報告する。それが侍女としての正しい行動だろう。得体の知れない存在が主人の至近距離にいるのだ。警戒するのは当然のこと。
でも、ナタリーは知っている。
あの猫が来てから、お嬢様が笑うようになった。
学園では「氷の薔薇」と呼ばれ、完璧な仮面を被り続けるお嬢様が、部屋に帰ればミーシャを抱き上げて頬ずりしている。「聞いてミーシャ」と愚痴を零し、涙を流し、お菓子を食べすぎて後悔している。
それはナタリーが10年間、お嬢様に見せてほしかった顔だ。
——私が引き出せなかった顔を、あの猫が引き出している。
その事実は少しだけ胸に刺さる。十年仕えて、ナタリーが見られなかったお嬢様の素顔を、猫一匹が数ヶ月で引きずり出したのだから。
悔しい、と言えばそうかもしれない。
でも。
ナタリーは紅茶を置き、窓の外に目を向けた。中庭の薔薇が、朝露に濡れて重たそうに俯いている。
あの猫が何者であれ、お嬢様を傷つける気配はない。むしろ守ろうとしている。レオン殿から情報を引き出していたのだって、おそらくお嬢様のためだ。
悪い噂が流れ始めていることは、ナタリーの耳にも入っている。「リゼット様がフォレスト嬢に嫌がらせをしている」という、根も葉もないデマ。
あの猫は、それに気づいているだろうか。
——気づいているだろう。あの観察力なら。
ナタリーは立ち上がり、エプロンの皺を伸ばした。
報告はしない。少なくとも、今は。
あの猫がお嬢様の味方である限り、ナタリーは黙って見ている。ただし、万が一にもお嬢様を傷つけるそぶりを見せたなら——そのときは侍女の私が、全力で排除する。
廊下を歩きながら、ナタリーは小さく息を吐く。
お嬢様の部屋の前に差しかかると、扉の隙間からミーシャの鳴き声が聞こえてきた。「にゃあ」。甘えるような、間延びした声。
直後、お嬢様の笑い声。
「もう、ミーシャったら。朝からそんなに甘えて」
——ああ。
この声を守れるなら、猫でも化け猫でも構わない。
ナタリーは口元を引き結んで、そのまま黙って通り過ぎた。
ただし足音だけは、いつもより少し強めに立てておく。
聞こえているでしょう、猫。私はあなたを見ていますよ、と。




