第15話「嫌な風の匂い」
異変に最初に気づいたのは、鼻だった。
猫になって一番変わったのは、嗅覚だ。人間だった頃には感じなかった空気の層が、今の私にはくっきり見える——いや、嗅げる。花の種類、人の感情、天気の変化。全部、匂いで届く。
今朝、学園の廊下を歩いていて、妙な匂いを嗅いだ。
酸っぱくて、湿っぽい。腐りかけの果実に似ている。でも果実じゃない。これは——人の悪意が混じった空気の匂い。前世でいうなら、職場で陰口が回っているときの、あの嫌な雰囲気を凝縮したような。
リゼットの教室の前を通りかかったとき、匂いが濃くなった。
ドアの隙間から、声が漏れている。
「ねえ、聞いた? リゼット様がフォレストさんをいじめてるって」
——は?
「リリアーナさんでしょ。可哀想に。男爵家だから逆らえないのよ」
「やっぱり氷の薔薇って怖いわ。花壇で転ばせたらしいじゃない」
足が止まった。四本とも。
花壇でリリアーナが転んだのは先日の話だ。あれはリリアーナが自分で足を引っかけて転んだだけで、リゼットは近くにもいなかった。クロードが助けたあの件。
なのに「リゼットが転ばせた」ことになっている?
「クロード殿下がリリアーナさんを助けたのも、リゼット様への当てつけなんじゃない?」
「ありえる。殿下、最近リゼット様と目も合わせないし」
尻尾の毛が逆立つ。
これ、噂だ。しかも悪意のある方向に捻じ曲げられた噂。花壇の転倒事件が、いつの間にか「リゼットによるいじめ」にすり替わっている。
誰が広めた?
廊下の匂いを辿る。猫の鼻はGPSより正確だ。匂いには軌跡がある。同じ話を複数の場所でしている人間がいれば、その匂いが廊下に点々と残っている。
甘ったるい香水の残り香。これは——知らない匂いだ。リゼットの周囲にいる人間の匂いは大体覚えているけど、これは嗅いだことがない。
中庭に出ると、リゼットがいた。一人で、ベンチに座っている。
いつもの「氷の薔薇」の表情。背筋をまっすぐ伸ばして、膝の上で手を組んで。完璧な令嬢の佇まい。
でも私にはわかる。
リゼットの匂いが、いつもと違う。緊張しているときの匂い。汗腺から微量に出る、酸味のある体臭の変化。人間には気づけないレベルの変化を、猫の鼻は拾ってしまう。
——知ってるんだ。噂のこと。
私はリゼットの足元に駆け寄った。「にゃあ」と一声鳴いて、足首に頭を擦りつける。
「ミーシャ。今日は学園をうろうろしてたの?」
リゼットが私を抱き上げる。その手が、いつもより少し冷たい。
「大丈夫よ。こんなこと、慣れてるもの」
——また、それ。「慣れてる」は嘘だって、昨日の夜に証明済みでしょう。
リゼットが立ち上がる。教室に戻るつもりだ。
その背中を見送りながら、考える。
乙女ゲームのシナリオでは、悪役令嬢の断罪は「ヒロインへのいじめ」が原因だ。ヒロインをいじめた罪で、王子に公衆の面前で糾弾される。
でもこの世界のリゼットは、リリアーナをいじめていない。断じていない。ハンカチを渡すような子だ。
なのに噂は「いじめた」と広がっている。
つまり——誰かが意図的にシナリオ通りの状況を作ろうとしている?
背筋の毛が総立ちになる。
風が変わった。中庭の植え込みを抜けてくる風に、さっきの甘い香水の匂いが混じっている。遠い。でも確かにある。
私はまだその匂いの主を知らない。顔も、名前も。
でも鼻は覚えた。この嫌な匂いを、絶対に忘れない。
リゼットが教室に消えていく。ドアが閉まる瞬間、廊下のおしゃべりがぴたりと止むのが聞こえた。彼女が入ると空気が変わる——リゼット自身が昨夜言っていたことだ。
四本の足に力を込める。
猫にできることは限られている。喋れない。字も書けない(いや本当は読めるけど書けない)。証拠を突きつけることもできない。
でも、嗅ぐことはできる。聞くことはできる。走ることはできる。
この噂がどこから来たのか、突き止めなきゃいけない。リゼットの破滅フラグが、今まさに立ち始めている。ゲームとは違う形で、でも同じ結末に向かって。
風が吹く。嫌な匂いを運んでくる、不穏な風。
——負けないからね。
猫一匹の決意なんて、誰にも聞こえない。でもそれでいい。
私はリゼットの教室の窓の下に腰を据えた。ここなら、中の会話が全部聞こえる。
張り込み開始だ。元OLの猫、本気出します。




