第14話「あなたがいてよかった」
雨の夜だった。
窓ガラスを雨粒が叩く音が、リゼットの部屋に響いている。いつもなら万年筆の音がそこに重なるのだけど、今夜はそれがない。
リゼットはベッドの端に座っていた。髪を下ろして、寝間着姿。膝の上には私。いつもの配置だ。でも、いつもと違う。
彼女の指が、私の背中を撫でている。その動きがやけに遅い。力が入っていない。自動的に動いているだけ、という感じ。
前世の経験が教えてくれる。これは、疲れているときの手つきじゃない。何かを抱え込んでいるときの手つきだ。
OL時代、直属の上司がこの手つきで書類を整理していた翌日に異動届を出した。あの手の動き、人間でも猫でも見分けがつく。……猫の背中で検知する日が来るとは思わなかったけど。
「ミーシャ」
名前を呼ばれて、顔を上げた。
リゼットの瞳が、揺れていた。
あの鉄壁の「氷の薔薇」が、今にも溶けそうな顔をしている。何があったのか、まだわからない。でもこの表情を見たのは初めてだ。
「今日ね、社交の場で——」
リゼットが言いかけて、止まる。唇を引き結んで、天井を見上げた。涙を堪えようとする仕草。
私は黙って待つ。猫は「何があったの」と聞けない。でも、それでいい。聞かなくても、ここにいれば。
しばらくして、リゼットが再び口を開く。
「みんな、私のことが怖いみたい」
声が小さい。部屋の外には絶対に出さない音量。
「挨拶しても目を逸らされるの。話しかけると空気が変わるの。わかるでしょう、空気って変わるとき、すぐわかるの」
わかる。痛いほどわかる。前世で異動先の部署に挨拶に行ったら、全員がデスクに目を落とした日のことを思い出す。あの刺すような空気。リゼットは毎日それを浴びている。
しかも17歳で。私が17のときなんてプリクラの落書きで悩んでいたのに、この子は公爵令嬢として社交界の空気圧と戦っている。転職サイトがあれば星一つレビューをつけてやりたい職場環境だ。
「別にいいのよ。慣れてるもの」
嘘だ。慣れてなんかいない。慣れていたら、こんな顔しない。
雨が強くなる。窓ガラスを流れる水滴が、ランプの灯に照らされて壁に影を落としている。
「お父様は『ヴァルモンドの名に恥じぬよう』って。お兄様は優しいけど学園のことは相談できないし。ナタリーにだって、こんなこと言えない。あの子は心配しすぎるから」
相談窓口がゼロ。コンプライアンス担当不在。福利厚生は猫一匹。元OLとしてはこの組織体制に物申したいが、にゃあしか出ないのでハラスメント窓口にすら通報できない。
リゼットの指が止まった。
私の耳のすぐ横で、水滴の音が聞こえた。雨じゃない。リゼットの頬から落ちた雫が、私の毛に染みていく。
温かくて、しょっぱい匂いがする。白い毛が涙を吸ってぺたりと張りつく感触が気持ち悪い。猫の本能が「振り払え」と叫んでいる。でも動けない。動いたらこの子、もっと泣く。前世で泣いてる後輩の肩にコーヒーをこぼした先輩を見たことがある。あの空気は二度と作りたくない。
「——ごめんね。猫に愚痴っても仕方ないのに」
違う。仕方なくなんかない。
「あなただけだよ、ミーシャ」
リゼットが私を両手で持ち上げて、目の高さまで掲げた。涙で睫毛が濡れている。鼻先が少し赤い。それでも微笑もうとしている、この子は。
「怖がらないでいてくれるの、あなただけ」
——違うよ、リゼット。
私は怖がらないんじゃなくて、全部知ってるから怖くないの。外の顔も、中の顔も、夜中に焼き菓子を食べすぎて後悔する顔も、領地の報告書に赤ペンを入れる真剣な横顔も。
言いたかった。声にしたかった。「あなたは怖くないよ」「あなたを怖いと思う人は、あなたを知らないだけだよ」って。
でも出てくるのは。
「にゃあ」
——それだけ。
リゼットが笑った。涙を流しながら笑って、私を胸元に抱き寄せる。寝間着の生地が頬に触れる。柔らかくて、温かい。心臓の音が耳に直接伝わってくる。少しだけ速い鼓動。
「あなたがいてよかった」
その言葉が、猫の体にじわっと沁みた。
前世で、こんなふうに必要とされたことがあっただろうか。残業して、報連相して、締切を守って。でも「あなたがいてよかった」なんて言われた記憶がない。
猫になって初めて、誰かに必要とされている。
それが嬉しいのか、切ないのか、まだ整理がつかない。前世なら人事評価面談で「あなたの貢献は」って聞かれて黙り込む場面だ。猫に人事評価がなくてよかった。あったら「鳴き声のバリエーション不足」でC評価だと思う。
リゼットがそのまま横になる。私を抱いたまま。腕の力がちょうど「逃げられないけど潰されない」の境界線上で、猫としては絶妙に不自由。寝返りを打つ権利が欲しい。労基に相談案件だ。
雨音が子守唄みたいに続いている。
「明日はきっと、晴れるわ」
独り言のようにリゼットが呟いて、目を閉じた。
——うん。晴れなかったら、私が何とかするよ。
猫に何ができるかは知らないけど。
リゼットの寝息が規則的になるまで、私は目を開けたまま、雨の音を聞いていた。
窓の向こうで、雲の切れ間から月が一瞬だけ顔を出す。
明日は——もう少しだけ、この子の役に立つ猫になろう。




