第12話「文字、読めてます?」
その日、私は油断していた。
リゼットの書斎——といっても自室の一角に机を寄せただけの空間——で、いつものように書類の山の横に陣取っていた。猫の定位置。温かくて、インクの匂いがほんのり漂って、リゼットの万年筆が紙を走る音が心地いい。前世でいうオフィスのBGMみたいなものだ。
問題は、私がうっかり書類を覗き込んでしまったことだ。
領地からの報告書。収穫量の推移を示す数表が並んでいて、元事務職の血が騒ぐ。あ、この数字の並び方、前月比で見ると北部の麦がだいぶ落ちてる。天候不順かな。それとも——
「ミーシャ」
ナタリーの声に、耳がピンと立つ。
侍女のナタリーが、お茶のトレイを持って部屋に入ってきた。カモミールの柔らかい香りが鼻をかすめる。
「リゼット様、そろそろお休みになってください。もう鐘が3つ鳴りましたよ」
「もう少しだけ。この書類が——」
「明日にしてください」
ナタリーは有能だ。リゼットに「駄目です」と言える唯一の人間。前世でいう、上司に定時退社を勧告できる勇者みたいな存在だ。
リゼットが渋々ペンを置く。私もそろそろ移動するか、とベッドの方へ飛び降りようとした——その時。
「ミーシャ」
ナタリーがまた私の名を呼んだ。
振り返ると、彼女が書類の上に視線を落としている。そして、私を見る。その目が、いつもと違う。
観察している目だ。
「ミーシャ、あなた今、書類のどこを見ていたの?」
——は?
心臓が跳ねる。猫の心臓はもともと速いけど、今のは明らかに冷や汗案件だ。
「にゃあ」
とりあえず鳴いておく。私はただの猫です。書類なんて見てません。紙の上の虫でも追ってただけですが何か。
ナタリーが膝を折って、私と目線を合わせた。
「最近ね、気になっていることがあるの」
やめて。その真剣な顔やめて。
「あなた、リゼット様が手紙を書くとき、必ず文字の方を見るでしょう。窓の外じゃなくて、紙の上」
そりゃ見ますよ。内容が気になるから。って言えないのが猫のつらいところ。
「それから、ドアの開け閉め」
ナタリーが指を一本立てる。
「誰かがノックすると、あなたはドアの方を見る前に、リゼット様の表情を確認するのよ。まるで『来客に対するリゼット様の反応』を観察しているみたいに」
——この人、何者? 探偵? 前世で何やってた人?
「そして今」
ナタリーの声が、一段低くなる。
「あなたは収穫報告書の数表を、左上から右下に、人間と同じ順番で目を動かしていたわ」
全身の毛が逆立ちそうになるのを必死で抑えた。
落ち着け。猫だ。私は猫。普通の白猫。片耳がグレーなだけのかわいい猫。
「この猫、文字が読めてません?」
ナタリーがリゼットに向かって、さらりと言った。
リゼットがカモミールティーを吹き出しかけた。
「ナタリー、疲れてるのよ。あなたも寝なさい」
「真面目に言ってます」
「猫が文字を読むの? ナタリー、本気で言ってる?」
「猫は普通、紙の上の文字に興味を示しません。動くものには反応しますが、静止した印字を凝視する理由がないんです」
リゼットが私を見た。私は全力で「きょとん顔」を作る。猫の特技、無表情。目を大きく開いて、首をかしげて、何も考えてませんよアピール。
「ほら、普通の猫じゃない」
「普通の猫よ。ちょっと賢いだけ」
リゼットが私を抱き上げてくれた。胸元に抱え込まれると、彼女の鼓動が聞こえる。規則正しくて、温かい。
「ね、ミーシャ。あなたはただの猫よね」
「にゃあ」
——嘘です。ごめんなさい。元OLです。
ナタリーの目が細まる。諦めていない顔だ。
「リゼット様。私、しばらくこの子を観察させてもらってもいいですか」
「好きにすればいいけど、結論は変わらないわよ。この子はただの——」
リゼットが言いかけたところで、私の尻尾が勝手にリゼットの腕に巻きついた。猫の体は正直だ。不安なとき、信頼できる相手にくっつこうとする。
リゼットの声が、ふっと柔らかくなる。
「……ちょっと甘えん坊な、普通の猫」
ナタリーが溜息をついた。
「リゼット様、猫に甘すぎます」
「ナタリーにだけは言われたくないわ。先月、ミーシャ用の毛布を3枚も注文したの、誰だったかしら」
「あれは必要経費です」
二人のやり取りを聞きながら、私はリゼットの腕の中で丸くなった。
やばい。完全にやばい。ナタリーに気づかれたかもしれない。
今まで以上に「猫らしく」振る舞わないと。文字なんか見ない。書類なんか覗かない。虫を追いかけて、毛玉で遊んで、何も考えてないふりをする。
でもさ——元事務職の性なのか、数字が並んでると目が勝手に追うんだよ。前世の呪いだよこれ。
リゼットの腕の中で目を閉じる。カモミールの残り香と、インクの匂いが混ざっている。
明日から気をつけよう。書類を見ない。ドアの方を見るときはリゼットより先に反応しない。
……でも、北部の麦の収穫量、やっぱり気になるな。




