第10話「兄は夜に来る」
深夜一時。
リゼットの寝息が規則正しくなったのを確認して、私はベッドの端で丸くなっていた。今夜のリゼットは書類仕事が早めに片づいて、珍しく日付が変わる前に眠りについている。
平和な夜。このまま私も寝てしまおう——と思った、その時。
廊下から足音が聞こえた。
猫の耳は、人間の耳より遥かに高性能だ。ベッドの上からでも、扉の向こうの気配を拾える。
足音の主は、忍び足をしている。でも下手だ。革靴の踵が何歩かに一回、床板に当たって小さく鳴る。
誰?
こんな時間にリゼットの部屋の前をうろつく人物。使用人なら足音のリズムが違う。ナタリーならもっと静かに歩ける。
足音が扉の前で止まった。
数秒の沈黙。そしてノブがゆっくりと回る。
私は身構えた。毛が逆立つ。尻尾が太くなる。猫の本能が「警戒」のスイッチを入れている。
扉が細く開いて、隙間から人影が滑り込んでくる。月明かりの中に浮かぶシルエット。長身、広い肩幅、きっちり整えられた髪——
あ、知ってる顔だ。肖像画で見た。
エルネスト・ヴァルモンド。リゼットの兄。公爵家嫡男。22歳。
日中は厳格な長男として知られる人物が、真夜中に妹の部屋に忍び込んでいる。これだけ聞くと事件だけど——
「……リゼット、寝ているな。よし」
エルネストはベッドを確認すると、まっすぐ私のほうに近づいてきた。
え? 私?
大きな手が伸びてくる。そっと、起こさないように——
「よしよし。いい子だな」
撫でられた。
頭から背中にかけて、大きな掌がゆっくり滑る。力加減が絶妙。強すぎず弱すぎず、猫が一番気持ちいいラインを正確に突いてくる。
何この人。猫の撫で方、プロじゃない?
「ふわふわだ。白い毛並みも綺麗に手入れされている。ナタリーがよくやっている」
独り言が止まらない。昼間の厳格な兄とは完全に別人だ。声のトーンが2段階くらい柔らかくなっている。
「リゼットが毎日楽しそうなのは、お前のおかげだな。ありがとう」
猫にお礼を言っている。しかも声が、ちょっと湿っぽい。
……この家族、全員猫の前で別人になるの?
リゼットは部屋で猫に愚痴るし、今度は兄が深夜に忍んできて猫を撫でている。公爵家の威厳とは。
エルネストの指が耳の後ろに移動する。あ、そこ。そこ気持ちいい。猫の弱点をピンポイントで攻めてくる。喉がごろごろ鳴り始めて、止められない。
「おお、喉を鳴らしてくれるか。かわいいやつだ」
嬉しそう。22歳の公爵嫡男が、月明かりの中で猫に喉を鳴らされて嬉しそうにしている。
ところで——この人、猫を撫でに来ただけ?
前世の社畜センサーがかすかに反応する。深夜にわざわざ忍んでくる理由が「猫を撫でたい」だけなら、昼間に堂々と来ればいい。なのに夜中に、リゼットが寝たのを見計らって。
何か——リゼットに知られたくない理由があるのでは。
エルネストが私を撫でながら、リゼットの机に目をやった。一瞬だけ。でもその一瞬の視線に、兄としての感情以外の——なんというか——計算のようなものが混じっていた気がする。
気のせいかもしれない。暗いし、猫の目は色の判別が苦手だし。
でも引っかかる。
「——そろそろ戻るか。バレたら面目が潰れる」
エルネストが最後にもう一度私の頭を撫でて、来た時と同じように扉の隙間から出ていく。足音が廊下を遠ざかり、やがて消える。
私は暗闇の中で、今の出来事を整理していた。
エルネスト・ヴァルモンド。猫好き。撫で方プロ級。夜中に妹の部屋に忍び込む。でも目的が純粋に猫だけとは限らない。
なんだろう、この人。嫌な人じゃなさそうだけど、底が見えない。
リゼットの寝息が一瞬乱れて、すぐにまた穏やかなリズムに戻る。
「んん……ミーシャ……」
寝言で私の名前を呼んでいる。安心しきった顔。この子は知らないのだ。兄が夜中にこっそり忍んできていることを。
私は知ってしまった。
そしてこの情報を、猫は誰にも伝えられない。
——まあいい。今はまだ「兄が猫を撫でに来た」という事実だけ。それ以上の意味があるかどうかは、これから確かめればいいこと。
元OLの観察力、舐めないでほしい。……猫じゃらしには負けるけど。
リゼットの腕に収まりながら、私は目を閉じた。
王子の睨みの謎。リゼットの夜更かし。乙女ゲーム的イベントの発生。そして深夜の訪問者。
猫生活、思ったより忙しい。前世の残業より情報量が多いかもしれない。
明日も早い。リゼットの隣で日向ぼっこしながら——いや違う、観察しながら——
……猫じゃらしを見つけたら、たぶん全部忘れる。それが猫という生き物だ。




