配信98回目 最後の『貸し』は、まだ切れていない
今日は、助けてくれる人が出てこない話だ。
でも、だから終わりってわけでもなかった。
書かれない一瞬だけが、たしかに私を留めていた。
あっ落ちた!、と思った。
でも、どこへ落ちたのかは、途中から分からなくなった。
ただただ白い。
ここは白いだけのはずなのに、深くなるほど色が増える。紙の白。病院の白。蛍光灯の白。モニターの白。記録用紙の白。骨みたいな白。そういう、ぜんぶ性質の違う白が何層にも重なって、下へ行くほど静かに色が濁っていく。
足場はない。
なのに、落ちきらない。不思議な感覚だ。
胸の奥で、細い線だけがじりじり...と焼けていた。朔夜が通した”帰還接続”の残り火みたいなやつだ。切れてはいない。けれど、強くもない。今にも指の間から抜けそうな、か細い糸一本を、心臓の裏の血管で無理やり引っ張っているような感じがする。
「……っ、あ……」
息を吸う。
空気がないわけじゃない。でも、この場所の空気は肺へ入るたび、自分の輪郭を少しずつ削るみたいで気持ち悪かった。
やがて、落下とも浮遊ともつかない感覚が、ふっと止まる。
私は白い床の上へ膝から落ちた。
「あいったた……」
自分の声がやけに小さい。吸われるみたいに、すぐ消える。
そこは広い部屋――いや、部屋というには境目が曖昧すぎる場所だった。壁らしきものはある。天井らしき高さもある。けれど全部がぼやけていて、きっちり四角く切られていない。白い紙の中へ、無理やり空間を折りたたんで作ったみたいな、気持ち悪い広さだった。
その中央に、机がひとつある。
白い机。
白い椅子。
白い帳面。
見た瞬間、背中の奥が冷えた。
「え……なゆさん?」
いない。
分かってた。ここで本人が待っていたら、それはそれで優しすぎるでしょ。
でも、机の上の帳面は、どう見てもあの人のものに似ていた。
頁だけが、ずっと多い。
人間一人分の記録じゃ足りないくらい、分厚くて、静かで、白い。
私は立ち上がろうとして、少しよろけた。膝の感覚が薄い。自分の身体がまだ私のものになりきってない。
「これ、ほんとに最悪……」
机へ近づく。
帳面は開いていた。
まっさらな頁が、ひらかれたまま置かれている。そこへ黒いインクみたいなものが、上から一文字ずつ落ちかけては、止まる。
止まっている。
でも、消えてはいない。
名前。
回数。
接触深度。
帰還不整合。
記帳保留。
自分のことだ、と分かった。
「……これ、私の?」
「お前だけのものではありません」
また、あの声だった。
振り向くと、白い空間の向こう側で、上位設計者が静かに立っている。顔のないまま、でも確実にこちらを見ていた。前の層で見た時より、今はもっと人に近くて、でもそのぶん逆に怖い。椅子や机や待合の残骸みたいなものが積み上がって、人の輪郭を真似しているだけだと分かるから。
「ここは、記録へ落ちる直前の層です」
「あ、そう。最悪だね」
「最悪、という評価は非合理です」
「うん、その返しもう飽きたし――」
そう言いながら、私は帳面から目を離さない。
頁の上へ落ちかけた黒い文字が、まだ書き込まれていない。
完全に私の名前になりきる前で、引っかかっている。
その引っかかりだけが、ここで唯一の違和感だった。
「……本来なら、もう書かれてるんだ」
「はい」
「じゃあなんで止まってんの」
白い存在は、少しだけ間を置いた。
「外部不整合です」
「日本語でOKなんだけど」
「猶予が残っています」
喉がひくついた。
猶予。
その言葉を、私は知っている。
帳面へ書く側が、書かないことで作る、たった一瞬のずれ。
なゆさんが何度もやってきた、不正。
もう次は止められないと言ったはずの、その最後の貸し。
「……あるんだ」
声が勝手に、小さくなる。
「まだ」
返事はない。
でも、白い帳面の頁が、風もないのにわずかに揺れた。
そこへ落ちるはずの黒い線が、あと少しのところで止まっている。
書かれていない。
消されてもいない。
ただ、遅れている。
その中途半端さが、逆に胸へ刺さった。
本人はいない。
助けに来ない。
声もかけてくれない。
なのに、ここでいちばん効いてるのが、もう顔を見せられない人の不正だなんて、ずるいだろと思った。
「……なゆさん――」
口に出した瞬間、目と喉が少し痛んだ。
泣きそうになったわけじゃない。
でも、こういう場所で名前を呼ぶと、その人が本当にいないことだけは、変にくっきり分かる。
「お前はまだ記録に落ちきっていません」
上位設計者が告げる。
「ですから、最終接続を優先します」
「それで?」
「帳面へ固定される前に、用途を確定します」
「なんだよ、その言い方!」
白い床の奥で、何かが軋んだ。
椅子だ。白い椅子がいくつも、いくつも生えてくる。待合用の椅子。病室の椅子。配信用のチェア。学校のパイプ椅子。事務所の安ソファに似たものまで混じっている。
それら全部が、中央へ向かって少しずつ角度を変え、私を囲む。
「やめろ」
「接続材は、自発的同意がなくとも機能します」
「マジでやめろ!」
後ずさる。けれど、床の感覚が薄いせいで足がうまくついてこない。
逃げるつもりなのに、身体が半分だけその場へ残ってる。
その時だった。
机の上の帳面が、ぱたりと閉じる。
勝手に。
誰も触っていないのに。
白い存在の動きが、一瞬だけ止まった。
「なに……記帳拒否?」
「拒否じゃないでしょ」
思わず言い返した。
胸の奥で、細い線がちり、と火花を散らす。
「私は、まだ書かれてないだけ。まだ、落ちきってないだけ」
「同義ではありません」
「人間側だとかなり違うんだよ」
自分でも驚くくらい、声が出た。
怖い。でも、その怖さの底で、妙に腹が立っていた。
勝手に書くな。
勝手に決めるな。
勝手に“もう遅い”にするな。
それを今ここで一番強く思わせているのが、いないはずのなゆさんの帳面なのも、ほんとうにずるい。
「私はまだこっちで終わってられないんだよ!」
白い空間へ言葉を打ちつけるみたいに、私は言う。
「朔夜に借金もあるし、るなにもまだクレープ奢ってないし、幽々《ゆゆ》にも透羽にも説明ついてないし、ぬいも放っとくと絶対ろくでもないことしでかすし、朔夜にもまだ全然怒り足りてない!」
そう矢継ぎ早に異形の存在へまくしたてる。自分で言ってて、最後のほうはかなりしょうもなかったなぁ。というのは後の感想。
でも、そういうしょうもないものの束が、私をこっち側へ引っ張っているのは本当だった。
「それらは未練とよばれるものです」
「そうだよ」
「接続後も代替可能です」
「は?」
「同等の感覚再現、記憶固定、執着代替――」
「できるかそんなもん!」
怒鳴った瞬間、胸の線がまた強く熱を持つ。
安いコーヒーのにおい。
臭いタバコににおい。
るなの間延びした声。
幽々の静かな目。
透羽の雑な距離感。
ぬいのうるさい鼻息。
無事でいてほしい”なゆ”さん。
玻璃。真琴さん、ミリア、銭原のオッサン、槙野刑事――。
それに――朔夜の、あの整った顔と、腹立つ行動すべて。
そういうのが、思い出とともに一気に体の内側へ戻ってくる。
再現じゃない。
本物の、こっち側の手触りだ。
「……代わりで済むなら、こんなにムカついてない」
息が震える。
「私は、私で帰るの。誰かの静かな部品になるために残るんじゃない」
白い存在は、しばらく沈黙した。
感情がないくせに、その沈黙だけは妙に重い。
「非合理です」
「知ってる」
「非効率です」
「言われんでも、知ってるって」
「それでも、そちらを選びますか」
その問いだけは、なぜか少しだけ人間っぽく聞こえた。
試しているんじゃない。
確認だ。
書かれる前の一瞬に、どっちへ傾くのかを。
私は帳面を見る。
閉じた表紙の下で、まだ黒い線が完全には定着していないのが分かる。
なゆさん。
あんた、ほんとに最後まで勝手だ。
でも、その勝手さに救われてるのも、たしかだった。
「選ぶよ」
私は、白い存在を見返した。
「だって、まだ切れてないんでしょ」
その瞬間、閉じた帳面の隙間から、細い白い紙片が一枚だけ滑り落ちる。
白すぎて、最初は見えなかった。
でもそれは、確かに紙だった。記帳前の余白を切り取ったみたいな、小さな短冊。
床へ落ちたそれを、私は反射的に掴む。
冷たくない。
むしろ、指先に触れた瞬間だけ、ほんの少しあたたかい。
「……これ」
「記載猶予の残滓」
白い存在が言う。
「不正により生成された、記録前の空白です」
「なゆさん、ほんとに怒られればいいのに……」
呟いた声は、少しだけ笑いに近かった。
泣きそうなのをごまかしただけかもしれない。
次の瞬間、空間が大きく軋む。
猶予が見えたせいか、今度は椅子の群れが一斉にこちらへ滑ってきた。白い糸も、床下から何本も伸びる。帳面に落ちる前に、用途だけでも確定させるつもりだ。
「っ、うわ、ほんと嫌!」
私は紙片を握りしめたまま走った。
走る、と言っても感覚は薄い。足が床を蹴っているはずなのに、半分は泳ぐみたいに浮いている。それでも、握った白い紙片だけが妙に重くて、こっち側の質量を思い出させる。
白い廊下が増える。
扉のない扉枠。
待合の列。
誰も座っていないのに、誰かが座る前提だけが整えられた空間。
その奥で、静かな声がした。
「こっち」
玻璃だ。
白の奥、細い通路の分岐に立って、今度ははっきりこっちを見ている。前みたいな諦めた顔じゃない。まだ消えないものを見たあとの、少しだけ強い顔だ。
「来れるの?」
「来るよ」
「危ない」
「知ってる!」
「じゃあ急いで!」
珍しく、玻璃が少しだけ強い口調で言った。
私は白い紙片を胸に押し当てたまま、そっちへ走る。
背後で、椅子の脚が床を擦る音がする。
白い糸が追ってくる。
帳面へ落ちる黒い線も、たぶんもう長くは止まらない。
でも、今だけはまだ切れていない。
その“まだ”のためだけに、私は前へ出る。
玻璃の手が伸びる。
私も手を伸ばす。
指先が触れる寸前、胸の奥の細い線が、向こうから強く引かれた。
朔夜だ。
生きてる側の、乱暴で、雑で、でもたしかにこっちへ戻す力。
私は息を呑む。
白い紙片。
玻璃の指先。
胸の奥の帰還線。
その三つが、同時に揃いかけたところで。
目の前の白が、大きく裂けた――。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
98話は、なゆ本人を出さずに、**“帳面に書かれない一瞬”だけが最大限効く**回として組みました。
助けに来るのではなく、最後に残した不正の猶予だけが、最深部でゆらを止めている――という、不在の効き方を前へ出しています。
### 今回の登場人物
**影森ゆら**
最深部で正式記録される寸前まで落ちた主人公。
それでも“代替できないこっち側”を理由に、まだ戻る側を選ぶ。
**上位設計者**
悪意よりも最適化の理屈で人を削る存在。
今回は“帳面へ固定する前に用途を確定させる”側として圧を強めた。
**鬼灯なゆ《ほおずき なゆ》**
本人は不在。登場もしない。
それでも、最後の貸し=記帳前の猶予だけが、ここで最も強く効いている。
**玻璃**
次回の帰還へ向けて、再び道を示す側へ立つ。
今度は“代わりになる”ではなく、“戻すために手を伸ばす”位置に近づいている。
**夜見朔夜**
この回では直接姿を見せないが、胸の奥の帰還線として、ずっとこちら側から引き続けている。
### 帳面
**金の借金**
白域侵入継続費+帰還線維持コスト。
たぶんまた増えています。本人は知る由もない。
**死の帳尻**
正式記帳、まだ未了。
本来ならここで固定されるはずだったが、最後の貸しで一度だけ遅延。
**なゆの状況**
不在。直接介入なし。
ただし“書けたはずの余白”だけが、最後の猶予として残っている。
**白い帳面/上位構造の変化**
影森ゆら、候補個体から接続対象へ移行直前。
記録前の空白が、戻るための鍵として可視化された。
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