配信99回目 ここにいろ、のその先――
帰れって言われたから帰るんじゃない。
助けられたから戻るんでもない。
今日は、ちゃんと自分自身で選び直す。
白い世界が裂けた。
紙を破るみたいな軽い音だったくせに、その向こうにあったのは、軽さといちばん遠いものだった。
ひび割れた白い通路。折れ曲がった待合椅子。誰も座っていないのに、誰かを座らせる前提だけが残っている空間。その奥へ、黒い裂け目が一本だけ通っている。
胸の奥の線が、そこで強く脈を打った。
「っ……」
私は白い紙片を握りしめたまま、前へつんのめる。足元の感覚はまだ薄い。自分の身体が半分だけこの場所に馴染んでしまっていて、走ろうとしても膝から下だけが少し遅れる。
「ゆら!」
玻璃の声が近い。
さっきまで向こう側の分岐にいたはずなのに、もう手が届く位置へ来ていた。白い空間の中で、この子だけが不思議なくらい輪郭を失わない。静かで、きれいで、でも今は前みたいに諦めた顔をしていなかった。
「こっち。今だけ、道がずれてる」
「ずれてるって、どういう意味!」
「なゆさんの貸しで、帳面が一瞬だけ追いついてないの。だから今なら、まだ“決まってない場所”を通れる」
「よくわかんない説明!」
「知ってる、でも急いで!」
玻璃が珍しく早口だ。
それだけで、こっちも変に腹が決まる。
私は差し出された玻璃の手を掴んだ。冷たくない。むしろ、ずっとここにいた子の手のくせに、少しだけ人間っぽい温度がある。
その瞬間、背後で白い椅子の群れが一斉に軋んだ。
来る。
振り向かなくても分かった。
「走れる?」
「走るしかないでしょ!」
玻璃に引かれるように、私は裂け目の中へ足を踏み入れる。
そこは通路というより、記録の隙間だった。
白い壁の途中に、事務所の棚が一瞬だけ見える。次の瞬間には学校の廊下へ変わり、その次には駅前のコンビニのガラス、その次には夜の商業ビルの非常灯。私がこの一年で死んで、戻って、触ってきた“こっち側”と“向こう側”の境目だけが、細く細く継ぎ接ぎに縫われている。
その足元を、ぬいが走っていた。
「おったおった、遅いぞおぬし!」
「なんでいるの!?」
「わしを誰だと思っとる! 半寄生相棒じゃぞ!」
「すっごく気持ち悪いアピールすな!」
などとツッコミを入れながらも、灰白色の毛を逆立てたまま、ぬいは先へ飛ぶ。
小さいくせに、その背中だけは妙に必死だった。
「左行くでない! そっちは“静かに残らせられる側”じゃ!」
「分かるかそんなの!」
「分からんでも行くな!」
「無茶言うな!」
でも、分からないなりに嫌な感じはした。左の通路はきれいすぎる。椅子も、床も、空気も、全部が静かすぎて、入ったらそのまま“ここでいい”と思わされそうな怖さがある。
私は玻璃の手を離さないよう、右へ曲がる。
背後で、白い存在の声が響いた。
「帰還経路を確認。封鎖を開始します」
「封鎖って言った!」
「言うと思った!」
玻璃が前を見たまま返す。
直後、空間の端から白い糸が何本も降ってきた。床へ刺さり、壁を縫い、私たちの通る裂け目そのものを閉じようとする。一本が肩先を掠め、そこだけ感覚がふっと消えた。
「っ、うわ」
「止まるな!」
今度は、別の声がそれを言った。
冥だ。
白い裂け目のもっと外側――つまり現世寄りの位置で、彼女が何かを閉じているのが分かる。姿は見えない。でも、道の後ろ側が音もなく落ちていく感覚だけは伝わった。
「夜見朔夜。三十秒です」
冷たい声が、きれいに通る。
「それ以上は、こちら側ごと崩れます」
「十分だ」
朔夜の声が返る。近い。けれど、まだ届かない。
胸の線がじりじり熱を増す。
朔夜は向こうから線を引いている。でも、今はまだ一本だけの”帰還接続”の延長に過ぎない。足りない。私がちゃんと“ここ”を掴まないと、あっちも引き戻しきれないのがわかった。
「ゆら」
玻璃が私を見る。
「探して」
「何を」
「戻る場所」
「難しいな!」
「分かるはずだよ。あなた、見えるから」
無茶振りにもほどがある。
でも、その言葉のあとで、不思議と息がひとつだけ整った。
探す。
戻る場所。
ただ出口を見つけるんじゃない。私が帰る“ここ”を。
白い継ぎ接ぎの通路の中へ、私は目を凝らした。
学校の教室。
るなの、間延びした「ゆらちゃ〜ん」。
幽々《ゆゆ》の、少し低い静かな声。
透羽の、雑で近い距離感。
事務所の散らかった机。
配信機材の熱。
安いコーヒー。
ぬいのうるさい鼻息。
母親からの短いレイン。
帰ったら入れる、ちょっとぬるい風呂。
雑に丸まれる、あったかい布団。
それだけじゃない。
借金もある。
まだ四千九百八十万円以上ある。私の高校生活、マジ終わってる。
るなにクレープ奢る約束もそのままだ。
幽々にも説明してないことだらけだし、透羽もやっと普通に接することができるようになってる途中だ。
ぬいは放っとけば絶対またろくでもないことをする。
それに。
それに、あいつに。
夜見朔夜に、まだきちんと説明させていない。
勝手に送り込んで、勝手に戻して、勝手に罪を抱えて、勝手に“戻す側”へ立ち直ったみたいな顔をしてる、あの最低男に。
まだ全然、言い足りて、怒り足りて、――ない。
その瞬間、通路の奥で、ひとつだけ色が定まった。
事務所のソファ。
見慣れた、へたった座面。
毛布。
散らかった机。
あの、終わってるくせに戻ると妙に息がしやすい場所。
「……ここ」
自分でも驚くくらい、声がはっきり出た。
「ここだ!!」
胸の奥の線が、一気に強くなる。
遠くで、朔夜が息を呑む気配がした。
「影森」
「ここ。まだ戻れる」
私は、白い通路の向こうではなく、自分で見つけたその一点を指さした。
玻璃が、少しだけ笑う。
今まででいちばん、人間っぽい笑い方だった。
「じゃあ、繋いで」
その言葉は、私に向けたものじゃない。
向こう側。
こちら側。
その狭間にいる誰かへ向けて、玻璃ははっきり言った。
「夜見朔夜。今なら通る」
直後、世界が止まる。
いや、止まったように見えただけだ。
冥が後ろの道を全部閉じたんだと、あとで分かる。
「固定します」
冥の声が落ちる。
「一度きりです。帰還経路以外、全部閉鎖」
白い糸が、そこで一斉に軋んだ。
私たちを追っていた椅子の群れが、冥の閉じた見えない壁へぶつかって止まる。
なゆの貸しが作った遅延。
冥が閉じた時間。
玻璃が示した道。
ぬいが隣に残る位置。
全部が、ほんの一瞬だけ噛み合った。
そして。
朔夜の声が、まっすぐ通る。
「……”接続回帰”」
派手な光はなかった。
その代わり、胸の奥の細い帰還線と、私が見つけた“ここ”が、一点で綺麗につながる感覚が来る。一本だった線が、今度は向こうとこっちの両側から編み直される。押し込むでも、引きずるでもない。私が掴んだ場所へ、朔夜がこちら側から帰路を確定させる。
それが、分かった。
「……っ!」
息が詰まる。
痛い。苦しい。けど、これは席へ押し込まれる痛みじゃない。戻る時の痛みだ。
白い存在の声が、初めて少しだけ揺れた。
「非合理接続を確認。遮断を――」
「遅い」
私は息を切らしながら、そっちを見た。
「もう、こっち選んだから」
白い紙片が、手の中でほどける。
なゆの最後の貸し。その残滓が、ふっと光って、帰還線の結び目へ吸い込まれた。
これで終わりだ。
猶予はもう、使い切る。
「玻璃!」
私が叫ぶと、玻璃はもう一度だけ、手を強く握った。
「行って」
「そっちは」
「わたしは、まだここにいなきゃ」
「それ、嫌なんだけど!」
「知ってる」
玻璃は笑う。
でも今度の笑いは、代わりになるための顔じゃなかった。
「だから、今度はちゃんと迎えに来て」
それは、諦めじゃない。
未来の約束として聞こえた。
ぬいが私の足元へ飛びつく。
「置いてくな!」
「お前、重くないくせに存在感だけ重いな!」
「褒めるでない!」
「褒めてない!」
次の瞬間、帰還線が一気に引かれた。
白が剥がれる。
通路が折れる。
椅子が遠のく。
玻璃の指先だけが最後まで見えて、それから全部、見慣れた薄暗い天井へ裏返った。
*****
喉が焼けるみたいに痛かった。
「……げほっ、げほっ!」
固い床。
散らばった札。
配信機材の熱。
燃えた紙のにおい。
事務所だ。
戻った。
ちゃんと、全部。
息を荒くしながら顔を上げると、最初に見えたのは冥だった。長い髪も、冷たい顔も、今日ばかりは少しだけ乱れている。
「帰還確認」
声はいつも通りだ。
でも、その一言のあとで小さく息を吐いたのを、私は聞き逃さなかった。
「……よかった、とは言いませんが、想定内、規定範囲内です」
「今の、かなり“よかった”寄りだったけど」
「気のせいです」
その横で、真琴さんが端末を抱えたまま座り込んでいる。
「帰還判定、更新。薄めじゃなく、安定へ戻りました。二度とやりたくないログです」
「言い方ぁ」
「本音と事実です」
ぬいが私の腹の上へどさっと落ちてきた。
「ぐえっ」
「娘。生きとるの」
「重いって!」
「心外じゃのう。わしは軽い」
「物理じゃなくて存在が!」
そのやり取りの向こうで、朔夜が立っていた。
額に汗が浮いている。顔色も悪い。いつもなら絶対に見せないくらい、露骨に消耗しているのに、それでも立っている。
私は、咳き込みながら笑った。
「……今回も、高そう」
「もちろん高い」
「お前、ほんとそういうとこだぞ?」
「知ってる」
そこで、朔夜が一歩だけ近づく。
前みたいに囲い込むためじゃない。
逃がさないためでもない。
私がちゃんと戻ったのを、自分の目で確認するみたいな距離だった。
「影森」
「なに」
少しだけ、沈黙が落ちる。
それから朔夜は、前よりずっと低く、でも前よりちゃんと人間の声で言った。
「……ここにいろ」
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
以前とは、意味が違う。
あの時は、閉じ込める言葉に近かった。逃がさないための、“俺の見える範囲にいろ”だった。
でも今は違う。
向こうへ落ちるのを知った上で、それでもこっちへ繋ぎ止めたい時の声だ。
私は息をひとつ吐く。
「それ、命令形じゃなければ、もうちょい良かったんだけど」
「善処する」
「しろよ」
「努力はする」
「信用はしてない」
「知ってる」
そこで、私はようやく笑った。
泣きそうなのをごまかすみたいな笑い方だったかもしれない。
でも、それでよかった。
帰る場所は、たぶん最初から完璧じゃない。
借金もある。怪異も終わらない。なゆさんはもう来ない。玻璃の静けさも残ったままだ。
それでも。
それでも私は、ちゃんと“こちら側の理由”で戻ってきた。
ゆら「九十九回。あと一回、って言葉がこんなに嫌なの初めてだ。」
―――――
ここまで読んでくださってありがとうございます。
99話は最終帰還回として、**玻璃が道を示す/冥が道を閉じる/なゆの最後の貸しが時間を作る/ぬいが隣に残る/朔夜がこちら側へ連れ戻す**を一本にまとめました。
また、60話の「ここにいろ」を、今回は囲い込みではなく“こちら側へ繋ぎ止める言葉”として更新しています。
### 今回の登場人物
**影森ゆら**
誰かに言われたからではなく、自分で“こちら側の理由”を選び直して帰ってきた主人公。借金も、友達も、布団も、まだ説明させたい相手も、全部まとめて帰還理由にした。
**夜見朔夜**
送り込む側ではなく、連れ戻す側として最後まで線を繋ぎ切った男。今回はじめて、完成形の帰還術を成立させた。彼女に、ここにいてほしいために。
**玻璃**
“代わりになる側”ではなく、“戻すために道を示す側”へ立ち位置を更新した子。今後へ続く約束も残した。
**白縫冥**
感情ではなく規定で動きながら、帰還経路以外を閉じることで実質的に最終帰還を成立させた監視者。
**鬼灯なゆ《ほおずき なゆ》**
本人は最後まで不在。
それでも最後の貸しだけが時間を作り、この帰還の土台になった。
**ぬい**
最後まで隣に残った、小うるさい半寄生相棒。こういう時だけ頼れる。
### 帳面
**金の借金**
四千九百八十万円+帰還線維持費+閉鎖コスト+たぶん冥に怒られる諸経費。
当然消えてません。たぶん増えてます。あわわ。
**死の帳尻**
正式記帳、帰還側で再確定。
ただし“不正の猶予”はこれで実質使い切り。
**なゆの状況**
不在。直接介入なし。
最後の貸しだけが、最終帰還の時間を作った。
**白い帳面/上位構造の変化**
影森ゆら、接続対象から離脱。
ただし上位構造そのものが消えたわけではなく、静かな圧だけは残存。
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