配信97回目 上位設計者(ハイアーキテクト)
今夜は一人にするなって、真琴さんは言った。
その判断は、たぶん正しかった。
正しかったのに、向こう側のほうが一枚上手だった。
戻った直後の事務所は、妙に静かだった。
配信機材の熱。燃えた札の紙くさいにおい。安いコーヒーの残り香。いつもどおり――見慣れた散らかり方をしているはずなのに、どれも薄皮一枚ぶんだけ遠く感じる。胸の奥に通された細い線が、まだ熱を持ったまま、かすかに脈打っていた。
私はソファへ半分沈み込んだまま、毛布を肩まで引き上げる。
「……なんか、落ち着かない」
「落ち着く状況ではありません」
端末を見たまま、真琴さんが即答した。
「今の影森さん、帰還判定は出ていますけど、かなり薄|いんです。現世側の定着が甘い。寝たらそのまま引かれてもおかしくないです」
「サラッと怖いこと言わないで」
「ホントに怖いやつなので言ってます」
彼女は、そのへんのドライは一貫している。
ぬいが私の腹のあたりで丸くなったまま、低く唸った。
「昨日より近いのう」
「昨日も十分最悪だったけど」
「今日は“扉”がこちらを覚えとる」
「やめて、その言い方」
部屋の隅では、朔夜が新しい札を机いっぱいに並べていた。顔色はよくない。いつもみたいに気だるげな余裕で座っているくせに、指先だけが休みなく動いている。
一本通しただけだ。
強く引くな。まだ細い。
白い通路で聞いた言葉が、遅れて耳の奥で鳴った。
「影森」
朔夜が顔を上げずに言う。
「眠るな」
「言い方」
「今寝ると、向こうの夢を見る」
「もっと言い方なんとかならない?」
「事実だ」
そこで、ずっと壁際に立っていた冥が、白い指先で窓ガラスへ触れた。
「……来ますよ」
ぞく、と背中が粟立つ。
「来るって、何が」
答えは、すぐ目の前に出た。
消してあったモニターの黒い画面、その奥に。
半開きの白い扉が映っていた。
反射じゃない。事務所のどこにも、あんな扉はない。なのに画面の向こうでだけ、昨日の最後に見たあの扉が、音もなくこちらを覗いている。
「うわ」
喉が勝手に鳴った。
次の瞬間、胸の奥の線がじりっと熱を上げる。
「っ、あ」
「逆探知です」
冥の声は冷たい。
「夜見朔夜。あなたが通した帰還線を、向こう側が辿っています」
朔夜の手が止まった。
「……仕事が早いな」
「一本でも通せば、向こうから見れば“帰路”です。しかも今回は、対象が影森さんです」
「それ、最悪ってこと?」
「かなり」
真琴さんが端末を引き寄せる。画面いっぱいに、意味不明なログが流れ始めていた。
接続待機。
帰還保留。
媒介導線。
鎮静優先。
「ちょ、待って。なんで事務所の端末にそれ出るの」
「向こう側の表示が、こっちへ滲んでます」
「なにそれ。最悪じゃん!」
「そう言ってます」
ぬいが毛を逆立てた。
「閉じろ、朔夜! 早う!」
朔夜は札を二枚、指の間へ挟む。
「”逆探封鎖”...!」
低い声と同時に、札が白く燃えた。
モニターの扉がぶれる。けれど、消えない。むしろ、さっきより輪郭だけがはっきりしていく。
白い糸が、画面の向こうから這い出てきた。
一本。二本。三本。
細いのに、やけに迷いがない。机の脚を回り、床を舐め、まっすぐ私の足首へ向かってくる。
「いや、なんでこっち来るの!?」
「帰還線の終点がおぬしだからじゃ!」
「終わってるやん!」
朔夜が舌打ちした。
「影森、立つな」
「今の私に器用なこと要求しないで!」
立とうとして、ふらつく。
床の感覚が、一瞬だけ抜けた。現世の事務所にいるのに、半分だけ白い通路の上へ立ってるみたいな、最悪の浮遊感。
冥が一歩前へ出る。
「”媒体遮断”」
窓ガラスに白い亀裂のような模様が走り、扉の像が少し歪む。だが、それでも遅い。糸はもう私の足首へ触れていた。
冷たい、ではない。
温度がない。
あの場所の空気そのものが、こっちへ細く伸びてきている。
「影森!」
朔夜の声が、今度はほんとうに近かった。
けれど次の瞬間、視界が反転する。
事務所の天井。
モニターの黒。
真琴さんの端末の光。
ぬいの金色の目。
朔夜の黒い服。
それら全部が白く剥がれて、私は線の内側へ落ちた。
*****
――そこは白い。とにかく、白かった。
ただし今度は、さっきまで事務所にいた感覚がまだ皮膚に残っている。毛布の繊維。ソファの沈み。安いコーヒーの匂い。そういう“しょうもないこっち側”を引きずったまま、私はまたあの白い通路へ立たされていた。
「……最悪」
息を吐くと、声だけが遠く転がった。
「また、来ちゃったね」
前から、静かな声がする。
玻璃は昨日と同じ白い扉の前に立っていた。けれど昨日より疲れて見えたし、私を見た瞬間の顔も、あきらめたみたいにやわらかかった。
「来たくて来たんじゃない」
「うん。分かるよ」
「分かるなら止めて」
「止めてる」
「全然足りてないって」
私が返すと、玻璃は少しだけ笑った。笑ったというより、困って目元がやわらいだ、くらいの小ささだった。
「帰還線、見つかっちゃったんだ」
頭上の表示板が一斉に灯る。
接続待機。
帰還保留。
媒介導線。
個体照合開始。
最後の一行だけ、昨日はなかった。
「……何、それ」
玻璃は答えなかった。
代わりに、白い扉の向こうで、チャイムみたいな冷たい音が鳴る。
処理開始。
そんな言葉が、音のないはずの場所で勝手に浮かんだ。
「玻璃」
私は喉を鳴らす。
「昨日の続きじゃないよね、これ」
「続きだよ」
「嫌な意味で?」
「うん。嫌な意味で」
白い糸が、今度は扉の向こうからではなく、通路そのものの隙間から滲み出る。昨日みたいに“席”へ押し込むための圧じゃない。もっと広い。もっと深い。最初からこの層全体が、誰か一人を選ぶために組まれているみたいな静かな手つきだった。
「……ここ、迷ったものを呑むだけじゃないんだね」
「うん」
「最初から、置く場所なんだ」
玻璃は、白い床へ目を落とした。
「壊れないように、整えてある」
「誰が」
その問いへ返ってきたのは、玻璃の声じゃなかった。
「私です」
空気そのものが喋ったみたいな、均一で、感情のない声だった。
正面の空間がゆっくりと歪む。
待合椅子みたいな白いものが一脚、また一脚と押し出され、輪になり、塔になり、最後には人の形に近い何かを作っていく。
顔はない。
でも、顔があるはずの位置だけが、白く明るい。
「影森ゆら」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥の線が焼けた。
「帰還反復個体。照合を完了しました」
「完了してないけど!?」
「記憶の同意は不要です」
私の周囲に、白い表示が浮かぶ。
接触深度。
帰還率。
残留安定。
媒介適性。
損耗許容。
人の評価じゃない。
部品の査定だ。
「お前が」
喉がひりつく。
「花嫁とか接続材とか、そういうの作ってる側?」
「作る、は不正確です」
白い存在は淡々と訂正した。
「この層は飢えにより崩壊します。未帰還、未接続、未記録が蓄積すると、人間側の損耗も増える。維持のため、壊れにくい接続材が必要です」
意味は分かる。
でも、分かりたくなかった。
これは、悪意で笑いながら食う怪物じゃない。
壊れないために一人を部品へ変える、そのほうが効率的だから選ぶだけの理屈だ。
「……ふざけんな」
「先行個体・玻璃」
白い存在が告げる。
「接続途中で定着失敗。
ただし残留安定値が高いため、導線案内へ再配置」
胸が詰まった。
玻璃は否定しない。
それが、いちばんきつい。
「やめて」
私が言うと、玻璃は小さく首を振った。
「いいの。わたし、もう半分そういうものだから」
「よくない」
「ゆら」
「それ、もう言うなって」
声が震える。怖いし、痛いし、今すぐ逃げたい。でも、ここで玻璃まで“足りるほう”へ行くのだけは、絶対に許したくなかった。
「先とか後とか関係ない。案内だけして消えるみたいな顔すんな。あんたが勝手に静かになって終わるの、こっちはぜんぜん納得してないから」
白い通路が、しんと静まる。
「影森ゆらは、先行個体より高効率です」
白い存在が続けた。
「反復帰還における損耗が少ない。
人間側との執着も十分。
接続後の安定維持が見込める」
「人を家電みたいに言うな!!」
叫んだ瞬間、胸の奥の線が強く光る。
白の中へ、ひび割れみたいな黒い線が一本走った。
向こう側からじゃない。こちら側から、無理やり繋ぎ返してくる出力。
「……夜見」
冥の声が、少し遅れて響く。
「これ以上は焼き切れます」
「黙って見てろ」
次に届いたのは、朔夜の声だった。擦れているのに、昨日より迷いがない。
「そいつは渡さない」
白い存在が、わずかにそちらを向く気配を見せる。
「管理外個体・夜見朔夜。お前は対象を複数回往復させ、成熟を促進した」
喉の奥が熱くなる。
そうだ。
こいつが責めてるのは、私だけじゃない。朔夜だ。
送り込んだ。戻した。利用した。守ると言いながら、結果として近づけ続けた。
昨日、自分で認めた罪が、今度は上位側の理屈で突きつけられている。
「それでも」
朔夜の声が、はっきり通る。
「もう違う。俺は連れていかない。そいつは、戻す」
「非効率です」
「知ったことか」
「夜見。感情で大局を見誤ってはいけません」
冥の声は冷たい。
「あなたまで引かれたら、私が先に閉じますよ?」
「……好きにしろ」
「好きにはしません。規定通りやります」
こんな時でも冥は冥だ。
でも、その冷たさがかろうじて現実を残してくれる。
私は息を吸う。
「私、来たの、ただ順番守りに来たんじゃないから」
玻璃がこっちを見る。
「壊しに来たの。そういう“足りるほう”に勝手に置いて静かにする理屈ごと!」
右手の先が震える。怖い。ほんとは泣きそうだ。でも、ここで黙ったら本当に部品の査定表だけが残る気がした。
「るなも、幽々も、ぬいも、なゆさんの貸しも、朔夜の答えも、まだこっちで終わってない。だから勝手に処理落ちみたいに片づけんな」
白い存在が、ほんの少しだけ近づく。
「理解不能」
「そりゃどうも」
「最適化拒否の理由として、非合理です」
「人間そういうの、めっちゃやるから」
その瞬間だった。
白い床の奥、巨大な余白みたいな場所で、黒い文字が一行ぶんだけ落ちかけて――止まる。
未記帳。
白い存在の輪郭が、初めてわずかに揺れた。
なゆの最後の貸し。
まだ切れていない。
でも、止まったんじゃない。遅れてるだけだ。
「外部遅延を確認」
白い存在の声が、少しだけ深くなる。
「ならば先に接続を開始します」
床が、口を開いた。
手首の線が一気に引き絞られる。
玻璃が私の手を掴む。
どこか遠くで、朔夜が私の名前を呼んだ。冥が何かを閉じる音もする。
それでも深い。
「影森ゆら。適性個体。接続処理を開始します」
次の瞬間、私はさらに下へ落ちた。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
97話は、96話で通した”帰還接続”が、救助の線であると同時に、向こう側から見れば“帰路”にもなってしまった、という形で接続させました。
悪意の怪物というより、壊れないための最適化として人を削る“上位設計者”の気持ち悪さを前へ出した回です。
### 今回の登場人物
**影森ゆら**
戻った直後の薄い状態で、逆探知された帰還線ごと再度引かれた主人公。怖がりのまま、理屈の頂点に喧嘩を売った。
**夜見朔夜**
自分が通した救助の線を逆に利用されながらも、それでも戻す側に立ち続ける男。
**玻璃**
“先だった側”であり、“案内へ再配置された側”の輪郭がかなりはっきりした回。
**白縫冥**
感情ではなく構造と規定で動く監視者。今回は事務所側からの防壁役も担っている。
**上位設計者**
向こう側の飢えを鎮める構造そのものを設計した存在。悪意よりも最適化の理屈で人を削るタイプの怖さ。
### 帳面
**金の借金**
元ある借金+帰還線維持費+逆探遮断コスト。たぶんまた増えてます。そんなこと言ってる状況じゃありませんけど。
**死の帳尻**
正式記帳、まだ保留。
ただし保留は猶予であって、免除ではない。
**なゆの状況**
不在。直接関与なし。
それでも最後の貸しだけが、まだ細く効いている。
**白い帳面/上位構造の変化**
影森ゆら、候補個体として本格照合開始。
帰還線は、救助の線であると同時に侵入経路にもなりうると判明。




