配信96回目 こちら側へ連れ戻す者
呼ばれたからじゃない。
自分で行くと決めた、その次。
今回は、連れていく側じゃなく、連れ戻す側の話です。
向こう側へ踏み込んだ瞬間、白さが肺の奥まで入ってくる気がした。
冬の寒さのように、冷たいわけじゃない。むしろ温度はない。
ただ、空気の全部が「ここは最初からこういう場所です」と黙っているみたいで、私はその静けさがたまらなく嫌だった。
床も壁も白い。
扉も白い。
案内板だけが、病院の表示みたいに感情のない文字を浮かべている。
接続待機。
帰還保留。
鎮静優先。
「……その表記、ほんとに趣味が悪いわ」
独り言のはずなのに、声がやけに遠くまで響いた。
ぬいが肩の上で小さく唸る。
「今日は昨日より濃いのう」
「昨日も十分最悪だったけど」
「今日は“席”じゃない。“座らせる側”が近い」
「言い方がずっと嫌なカンジなんだよ」
でも、分かってしまう。
この場所は、迷い込んだものを呑むだけじゃない。最初から誰かを置くために、形が整えられている。
その通路の先に、玻璃はいた。
白い扉の前。
昨日と同じように静かで、でも昨日より少しだけ、こっちを見る目が疲れている。
「来たんだ」
「来たよ。自分の意志で」
「……そう」
玻璃はそこで少し目を伏せた。
「それ、いちばん来てほしくないやつだよ」
「じゃあ、昨日ちゃんと止めといてよ」
「止めたよ」
「足りてないって」
私が言うと、玻璃は困ったように小さく笑った。
こういう時だけ、この子は年相応に見える。静かで、綺麗で、諦めが先に馴染んでしまっただけの子に。
「まだ戻れるのに」
「だから来たんだよ」
「戻れるなら、見なくていいものもある」
「見ないまま終わるほうが嫌なの」
答えた瞬間、通路の奥で何かが鳴った。
チャイムみたいな、処理開始の合図みたいな、冷たい音。
白い糸が扉の隙間から溢れてくる。細く、何本も。床を這って、私の足首へ伸びてくる。
ぞっとして一歩下がろうとした、その瞬間だった。
糸が途中で止まった。
誰かが、切ったみたいに。
「……来るなって言ったのに」
思わず漏れた私の声へ、低い声が返る。
「お前が先に行ったからだ」
振り向かなくても分かった。
朔夜だ。
この白い場所に、あいつの黒い服はやけに馴染まない。
だからこそはっきり見える。いつもの気だるい怪異相談屋じゃない。もっと腹を決めた顔で、こちらを見ていた。
その斜め後ろには、冥もいる。
長い影みたいに綺麗で、冷たくて、でも一歩だけ引いた位置で朔夜ごと監視している。
「夜見朔夜」
冥の声が、白い通路を細く裂く。
「ここから先は逸脱行為ですよ。必要なら、あなたごと止めます」
「《《知ってる》》」
「今のあなたは、前より危うい。利用するためではなく、戻すために先へ踏み込もうとしている」
「それも知ってる」
朔夜は冥を見ない。
視線はまっすぐ私へ向いている。
「影森、戻るぞ」
「まだ大事なことを聞けてない」
「聞かなくていいものもある」
「お前が勝手に決めるな!」
言い返した瞬間、白い糸が一斉にこちらへ走った。
扉の向こうで何かが脈打つ。通路そのものが、私を“席”に押し込もうとするみたいに細く締まり始めた。
玻璃が、私の前へ半歩出る。
「待って」
「だめ」
私は即答した。
「それ、昨日も言われた」
「昨日より本気で言ってる」
「私も昨日より本気で来た」
玻璃の肩越しに、朔夜がひどく短く息を吐いた。
「……俺がやった」
その一言だけで、通路の空気が変わる。
私は顔を上げる。
「何を」
「送り込んだ。使った。戻せると思って、お前を何度も向こう側へ近づけた」
冥は何も言わない。
玻璃も、ただ静かに聞いている。
朔夜は続けた。
「助けたいのも本当だった。だが、それだけじゃない。お前なら確実に戻れると信じた。お前なら核まで見えると思った。そうやって都合よく使った」
胸の奥がじくりと痛む。
知っていたことだ。もう、とっくに。
でも今ここで、こいつが自分からそれを言うのは、少しだけ意味が違った。
「……最低」
「知ってる」
「今さらだなー」
叫ぶより先に、声が静かになる。
怒りが消えたわけじゃない。ただ、それより先に見たいものがあった。
朔夜が一歩近づく。
「それでも、今日は違う」
「何が」
「今日は、お前を向こうへ置くために来たわけじゃない」
白い糸が、今度は玻璃ごと私へ絡みつこうとした。
その瞬間、朔夜の指先で札がひとつだけ光った。
派手じゃない。眩しくもない。細い白い線が、暗い部屋へ針を通すみたいにすっと伸びる。
「……”帰還接続”...」
低い声と一緒に、その線が私の胸元へ刺さった。
痛みはない。
その代わり、現世の匂いがした。
事務所の安いコーヒー。配信機材の熱。るなと約束したクレープの甘ったるさ。幽々のシャーペンのプラスチック。そういう、しょうもないこっち側の手触りが、一気に肺から全身へと駆け巡るように入ってくる。
「……っ」
思わず息を呑む。
「一本だけだ」
朔夜の額に、じわりと汗が浮いていた。
「強く引くな。まだ《《細い》》」
「説明が雑!いつものことだけど」
「今はそれでいい」
白い糸と、朔夜の通した細い線が空中でぶつかる。
向こう側へ押し込む力と、こちら側へ戻す力。その綱引きの真ん中に、自分がいるのが分かった。
でも完全じゃない。
足元の感覚はまだ薄い。
玻璃の輪郭も半分は向こうへ残っている。
戻れる。けど、まだ全部じゃない。
冥がそこで初めて、小さく息を吐いた。
「……不完全ですね」
「最初から完全にする気はない」
朔夜が返す。
「今日は、戻る線を通すだけだ」
その言い方で、ようやく分かった。
これは告白じゃない。赦しを乞う回でもない。立場の選び直しだ。
使う側から、戻す側へ。
自分の罪を持ったまま、そっちへ立ち直るための一歩。
私は胸の奥の細い線を見失わないようにしながら、玻璃を見る。
「……まだ終わってないから」
「うん」
「次は、ちゃんとするから」
玻璃が少しだけ笑った。昨日より少し、人間っぽい笑い方だった。
「それなら、今は帰って」
通路が大きく軋む。
朔夜の通した線が、今にも切れそうに震える。
私は反射的に、その見えない線へ手を伸ばした。掴めるわけじゃない。ただ、見失わないために。
帰る。
今は、それでいい。
足元が抜ける。
白が剥がれる。
最後に見えたのは、玻璃の向こうで半開きの扉が、少しだけこちらを覗いていたことだった。
次に目を開けた時、喉が焼けるみたいに痛かった。
「……げほっ」
固い床。見慣れた事務所の天井。散らばった札の燃えかす。
戻ってきた。完全じゃないにしても、ちゃんと。
「戻ったか」
朔夜の声が落ちる。
その顔は、いつも通り嫌なほど整っていて、でも今日は少しだけ、ほんとうに疲れていた。
私は咳き込みながら起き上がる。
「今回も――高そう.....」
「もちろん《《高い》》」
「お前、そういうとこだぞ」
「知ってる」 朔夜の眉と、口角が少しだけ上がる。
ぬいが棚の上から偉そうに鼻を鳴らす。
「一本通しただけでその顔か。先は長いのう」
「うるさい。お前は昨日死にかけただろ」
「わしにその言い方をするな」
真琴さんが端末から顔を上げる。
「……一応、帰還判定です。ただし薄いです。今の影森さん、かなり“戻った直後”の状態なので、今夜は絶対に一人にしないでください」
「本人の意思は」
「聞いてません」
「なんで」
「聞かなくても分かるので」
最悪だ。
でも、否定する元気はなかった。
胸の奥に、まだ細い線の感触が残っている。
切れていない。かろうじて、こっちに繋がっている。
それだけで、今日は十分だった。
ゆら「九十六回目。ここまで来ると、次の数字だけがやけに重い。」
――――
配信96回目でした。
今回は、朔夜が「連れていく/使う側」ではなく、「連れ戻す側」へ立ち位置を選び直す前編です。告白ではなく、立場の反転を見せる回として組んでいます。
今回の主な登場人物は、影森ゆら、夜見朔夜、玻璃、白縫冥、ぬい、毒島真琴です。
今回初出の ”帰還接続” は、派手な必殺技ではなく「戻すための線を一本だけ通す」ためのとっておきの秘術です。普段送り込むだけの朔夜が、戻すほうに完全に舵を切りました。
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【今回の帳尻】
・金銭帳尻:術式行使一回、札消費、深夜対応。どう考えても赤字。
・死の帳尻:正式記帳遅延中の帰還成功。ただし帰還状態はまだ薄い。
・なゆの不在:本人は出てこないが、最後の貸しの余白がまだ効いている。




