配信95回目 行く理由と戻る理由
今回は、私がちゃんと自分で決めるとき。
呼ばれたからじゃない。押されたからでもない。
戻る理由を持ったまま、あちら側へ行く話。
今回は、私がちゃんと自分で決めるとき。
呼ばれたからじゃない。押されたからでもない。
戻る理由を持ったまま、あちら側へ行く話。
――――
昼休みの教室は、信じられないくらいうるさかった。
パンの袋を開ける音。机を引きずる音。廊下から聞こえてくる笑い声。誰かがスマホで見せている短い動画に、別の誰かが「それ昨日のじゃん」と突っ込んでいる。
いつも通りの、どうでもよくて、だからこそ壊れたら嫌な音ばかりだ。
「ゆらちゃん、これ半分あげるぅ〜」
るなが、クリームパンをちぎってこっちへ差し出してくる。
私は反射的に受け取った。
「……ありがと」
「今日、素直だね」
透羽がすかさず笑う。
「いつもなら『いきなり糖質で懐柔するな』とか言いそうなのに」
「お前の私への理解、嫌な方向に深いわ」
「深いよぉ〜?」
るながえへへ、と笑う。
その隣で、幽々《ゆゆ》は牛乳パックのストローを指でくるくると、もてあそびながら、じっと私を見ていた。
「ゆら。今日、もう決めてる顔してる」
心臓がひとつ、変な打ち方をした。
「……何を」
「行くかどうか」
教室の音が、そこだけ少し遠くなる。
透羽が、冗談っぽい顔のまま言った。
「やっぱり? 私も思った。影森、今日ずっと“帰る前にどっか行く人”の顔してる」
「顔で分かるもんなの、それ」
「分かる時は分かるよ」
透羽は軽い口調のままだったけれど、その目だけは少し真面目だった。
私はパンを半分だけかじって、飲み込むまで少し時間がかかった。
「……まだ決めてない」
「嘘」
幽々が即答する。
「決めてない人は、そんな言い方しない」
るなが心配そうに、でもやわらかく私の袖を引いた。
「ゆらちゃん、どっかいくのぉ……?」
「放課後ちょっと」
「“ちょっと”で済む感じじゃないよぉ〜」
「そうだね」
そこを否定できなかった。
透羽が頬杖をつく。
「でも、行くならさ。呼ばれたから行くのと、自分で行くの、ぜんぜん違うよ」
私は顔を上げた。
「……何が違うの」
「向こうに理由を握られるか、こっちに残すか」
言い終わってから、透羽は「あー」と小さく息を吐く。
「ごめん。今の、ちょっと分かる人の言い方だった」
「いや、もう今さらだろ」
私は苦笑して返した。
「お前が普通の転校生じゃないの、とっくに知ってるし」
「ひど」
「ひどくない」
幽々が静かに口を挟む。
「でも、透羽の言うことはたぶん合ってる。呼ばれて行くと、向こうの理屈になる。自分で行くなら、まだ帰り道を持てる」
その一言で、昨日の玻璃の顔が浮かぶ。
――あなたはまだ、向こうで名前を固定されてない。
――だから戻れる。
戻る。
その言葉が、今日は昨日より重い。
―――――
放課後、私はすぐに教室を出なかった。
るなが鞄を抱えたまま、私の机の横に立っている。透羽は窓際に寄りかかって、幽々はいつもより少し近い位置にいた。
たぶん三人とも、私が先に何か言うのを待っている。
「……今日さ」
先に口を開いたのは、私だった。
「たぶん、行くよ。」
るなの目が丸くなる。
「やっぱりぃ……」
「うん」
「こわいやつぅ?」
「うん」
「しぬやつぅ?」
「……たぶん、《《そういう寄り》》」
るなの眉が、きゅっと下がった。
それを見た瞬間、胸の奥が少し痛くなる。
透羽がそこで笑わなかったのが、逆にありがたかった。
「戻る気はある?」
「ある」
「じゃあ、みんなに、『言っといたほうがいい』よ」
「何を」
「”戻る”って」
透羽は、視線を窓の外へ流したまま言う。
「向こうってさ。行く人の“行く理由”はすぐ太るけど、“戻る理由”は放っとくと痩せるから」
「その言い方、ほんと嫌なんだけど、妙に分かりやすいな……」
「でしょ」
幽々が私を見る。
「誰か一人に向けてじゃなくていい。戻る理由、ちゃんと自分で数えといたほうがいいよ」
るなが、そこで小さく手を挙げた。
「るな、ひとつ」
「……何」
「帰ってきたら、駅前のクレープいこぉ〜?」
あまりにも、るならしい。
拍子抜けするくらい、普通の約束だった。
「いま?」
「いま言っとかないとぉ、あとで『そういうの先に言え』って、ゆらちゃん絶対言うもん」
思わず笑ってしまった。
笑った瞬間、自分でも分かるくらい、少しだけ肩の力が抜けた。
「……行く。帰ってきたら」
「約束ぅ〜」
るなが小指を出してくる。
私は呆れながら、それでもちゃんと小指を絡めた。
幽々は、机の上に置いていたシャーペンを一本だけ私へ差し出した。
「それ、昨日貸したやつじゃない?」
「うん。返してもらってないから、今返す」
「持ち主、お前じゃん」
「そういう意味じゃなくて」
幽々は少しだけ目を細めた。
「こっちの手触り、忘れないように持ってって」
プラスチックの安っぽい軸が、指に馴染む。
学校でしか使わない、どうでもいい筆記具。
でも、それがやけに効いた。
透羽は最後に、私の肩を軽く叩いた。
「影森」
「ん?」
「向こうで誰かの代わりやろうとしたら、まじで怒るから」
「……何それ」
「私、その手の戻り方あんま好きじゃない」
透羽のその言い方には、冗談じゃない重さがあった。
私は少しだけ目を伏せて、それから頷く。
「分かった」
るなが最後に言う。
「ゆらちゃん」
「なに」
「ちゃんと、帰ってきてねぇ」
その一言が、いちばんまっすぐだった。
―――――
事務所へ戻ると、朔夜はすでに気づいていた。
ドアを開けた瞬間、顔を上げもしないまま言う。
「行く気か」
「話早いな」
「今日はお前の足音が軽いからな。何かを決めた時の音だ」
「足音で分かるの気持ち悪いんだけどマジで」
「こっちの台詞だ」
私は鞄を机の横へ置いた。
ぬいが窓枠から片目だけ開ける。真琴さんは端末を閉じる寸前の姿勢で止まっていた。部屋の空気そのものが、もう答え合わせみたいだった。
「止める?」
「止める。」
朔夜はそこで初めて視線を上げた。
「《《行くな》》」
即答だった。
命令口調で、でも前みたいな“使う側”の冷たさではない。そこが、逆に腹立たしい。
「それをお前に言われる筋合い、この期に及んでまだある?」
「ないかもしれん。だが止める」
「じゃあ私は行く」
「影森」
「呼ばれたからじゃない」
自分でも驚くくらい、声は揺れなかった。
「玻璃を置いていけない。なゆさんの最後の貸しを、何もしないまま潰したくない。お前に勝手に答え持たれたまま終わるのも嫌だし、るなも幽々も透羽も、こっちに戻ってくる理由は、もう、《《置いてある》》」
ひとつ息を吸う。
「だから行く。私自身で決めて」
部屋が静かになった。
ぬいが、そこでぽつりと言う。
「ふぅ。だいぶ、面倒見よくて損するタイプじゃの」
「今さらそれ言う?」
「もう、今しかないじゃろ」
真琴さんが小さく息を吐いた。
「……戻る理由、言語化できてるなら、前よりはマシですね」
「褒めてる?」
「状況としては最悪ですが」
朔夜だけが、何も言わなかった。
やがて、低い声で聞く。
「行き先は?」
「まだ細く繋がるところ。昨日と同じ手じゃない。なゆさんの貸し、たぶん一度だけ“遅らせる”ためのものだから」
私は制服の内ポケットから、白い紙片を出した。
紙というより、空白の切れ端みたいなもの。文字はない。罫線もない。ただ、持つと指先の温度だけが少し遅れる。
最後の貸し。
正式な記録へ落ちる前、一度だけ記帳を遅らせられる余白。
朔夜の目が、それを見てわずかに細くなる。
「それを今使うのか」
「今しかない」
「帰路は細いぞ」
「知ってる」
「向こうが歓迎してくる」
「知ってる」
「お前一人で行って、全部解けると思うな」
そこだけ、少し苛立ちが混ざっていた。
私は口元だけで笑う。
「別に解きに行くんじゃない」
「何しに行く」
「見に行く。聞きに行く。帰る理由を持ったまま、あっち側へ立つ」
朔夜はしばらく黙って、それからひどく不機嫌そうに言った。
「勝手にしろ」
「するよ」
「ただし」
そこで一拍置く。
「戻る線を、自分から切るな」
私はすぐには返事をしなかった。
それは命令みたいで、でも少し違った。
利用のための指示じゃない。たぶん、あいつなりにぎりぎり残した“こっち側”の言葉。
「……善処します」
「歯切れが悪いな」
「何も教えない、お前に言われたくない」
ぬいが窓枠から飛び降りる。
「わしも行くぞ」
「だめ」
「なんでじゃ」
「お前、昨日ギリギリだっただろ」
「昨日ギリギリだったから、今日もギリギリでついていくんじゃろうが」
「全然頼りにならんな毛玉」
「知っとる、だがいないよりマシじゃろ?」
ぬいはもう私の肩へ登ってきていた。
追い払う気にもなれない。小さくて、ずるくて、でも昨日こいつも自分で選んだのを知ってしまったから。
―――――
事務所の裏階段は、夜になると少しだけ古く見える。
錆びた手すり。蛍光灯のちらつき。二階と三階のあいだにだけ、妙に風の抜けない踊り場がある。
前に一度、ここで“階段が一段多い日”があった。薄い場所だ。たぶん今夜も。
私は白い紙片を胸元へ押し当てた。
ひやり、ともしない。
ただ、自分の輪郭だけが少し曖昧になる。
「影森」
背後で、朔夜が呼ぶ。
私は振り返らなかった。
「なに」
「今ここで引き返すなら、まだ間に合う」
「そうだね」
「……それでも行くのか」
その問いは、確認だった。命令じゃない。
だから私は、ちゃんと自分の声で答えた。
「行く」
白い紙片が、指先でふっと軽くなる。
踊り場の壁が、水みたいに薄く揺れた。向こう側が近い。
「呼ばれたからじゃないからね」
誰に向けて言ったのか、自分でも少し分からなかった。
玻璃か。なゆか。朔夜か。
あるいは、自分自身へか。
「帰る理由、置いてきたから」
るなのクレープ。
幽々のシャーペン。
透羽の釘みたいな忠告。
母の短いレイン。
ぬいの重さ。
まだ聞けてない答え。
まだ壊したくない普通。
全部、こっちにある。
「自分で決めたことだから」
朔夜に言うようで、自分に言い聞かせた。
一歩、踏み出す。
壁の向こうから、白い静けさが滲んでくる。
今度は落とされるんじゃない。自分で入る。
その境目で、私は一度だけ目を閉じた。
「じゃあ、行ってくるね!」
学校へ通学するかのような軽い気持ちでそう言った。
その時――誰かが何か言った気がした。
たぶん、朔夜だった。
でもその言葉を拾う前に、世界の手触りが反転した。
白い向こう側が、音もなく開く。
私は自分で、その奥へ足を踏み入れた。
配信95回目でした。
今回は、ゆらが「呼ばれる側」から「自分で行く側」へ踏み替える回です。派手な戦闘や大きな怪異処理ではなく、理由を言葉にすることで終盤へ入る位置の話として組んでいます。
今回の主な人物は、影森ゆら、夜宵るな、白澤幽々、夏目透羽、夜見朔夜、ぬい、毒島真琴です。
95話では、るな・幽々・透羽の三人を、それぞれ別の「こちら側」として置いています。
るなは“戻ったあとに食べるもの”という日常、幽々は“こっちの手触りを忘れないためのもの”、透羽は“向こうへ理由を握られないための釘”です。
朔夜とはまだ和解していません。ただ、それでも「戻る線を切るな」という言葉だけは重たいです。
【帳面】
・金の借金:継続。今夜の深夜対応と結界待機で、ろくでもない明細が増える未来しかない。
・死の帳尻:正式記帳遅延の白い余白を使用開始。処理保留状態で向こう側へ侵入。
・なゆの状況:前任記帳官としての直接関与なし。ただし最後の貸しだけが、今なお効力を残している。
・白い帳面/構造側の変化:ゆらは“召喚される側”ではなく、“戻る理由を持ったまま自分で入る側”へ移行。最終局面の条件が一段進行。
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