配信94回目 ぬいはどっちのものでもない
小さいからって、無害とは限らない。
かわいいからって、情があるとも限らない。
でも今回は、その両方が少しだけ揺れる回です。
事故のあと、私は結局そのまま夜見よろず相談事務所へ連れてこられた。
病院で軽く処置はされた。右肩は打撲、膝は擦過傷、首はむち打ち気味。ついでに「しばらく安静に」と言われたけれど、この職場で安静が成立したことなんて一度もない。
「で、なんで帰してくれないの」
ソファに座ったまま睨むと、朔夜は端末から目を上げずに答えた。
「観察が必要だからだ」
「人に言う台詞じゃなくない?」
「お前、今日一回薄くなっただろ」
「薄くなった、で済ますな」
「済ませてない。だから置いとく」
相変わらず言い方が終わっている。
でも今日は、その雑さの奥に少しだけ硬いものがあった。
机の向こうでは、真琴さんがノートPCを睨んでいる。モニターの青白い光が、そのまま顔色の悪さを増していた。
「昨日の接触以降、影森さんの周辺だけ、境界反応が妙に素直なんです」
「素直って何」
「向こう側に“見つけてもらいやすい”と言い換えてもいいです」
「最悪の言い換えじゃん。やめて」
真琴さんは気休めひとつ挟まず、さらに続けた。
「あと、小型寄生系の反応も増えてます。たぶん、本体側から見れば“空いた席の周りに群がる小物”みたいな扱いなんでしょうね」
その言葉に、ソファの背で丸くなっていたぬいの耳がぴくりと動いた。
灰白色の毛並み。片耳だけ少しへたれた、ぬいぐるみみたいな見た目。
普段ならそのまま「小物言うな」と噛みついてくるところなのに、今日は静かだった。
「……ぬい?」
呼んでも、返事が遅い。
「聞こえとる」
「じゃあ何か言えよ」
「言うことがない時もある」
「それはそれで怖いんだけど」
ぬいは、そこでようやく顔を上げた。
いつもなら生意気に細められている金色の目が、今日は妙に落ち着きがない。
朔夜がそちらを一瞥する。
「今夜、そいつを影森から離すな」
「本人の意思は?」
「ない」
「あるけど!?」
「お前が寝てる間に勝手に食われるほうが面倒だ」
「サラッとホラー言うな!」
でも、笑って返すには背中が冷えすぎていた。
―――――
夜。
事務所の照明は一つだけ落とされて、部屋の中はいつもより少し暗かった。
ソファに毛布をかけられて、私はそこで寝ろと言われた。帰らせてもらえない代わりに、今日は現場もない。珍しく“何もしなくていい”夜だった。
なのに、眠れる気がしない。
窓の外では、遅い時間の車が高架を流れていく音がする。机のほうでは、朔夜がまだ端末を叩いていた。仕事の音がしているだけなのに、それがないと逆に怖かった。
ぬいは私の腹の上に乗っている。
「重い」
「軽いじゃろ」
「気分の話」
「知らん」
口は返した。
でも、体温が変だった。ぬいの小さな身体が、普段よりぬるい。ぬいぐるみの中に何か別のものが詰まって、内側からじわじわ熱を持っているみたいな、嫌な温度。
「……ほんとに大丈夫?」
「何がじゃ」
「お前」
しばらく沈黙があって、それからぬいが低く言った。
「大丈夫なら、今日はよう喋っとる」
その返しに、私は笑えなかった。
いつの間にか、うとうとしていたらしい。
目を開けたとき、事務所の中はやけに白かった。
天井の照明じゃない。もっと薄くて、でも逃げ場のない白さ。窓の縁、ドアの隙間、棚の角、配信機材の輪郭。その全部が、白い線でなぞられている。
身体が重い。指先が動かない。
「……っ」
声も出しにくい。
腹の上にいたはずのぬいがいない。
代わりに、胸のあたりがぬるく蠢いていた。
何か、小さなものが、皮膚の下へ爪を立てるみたいに入り込もうとしている。
「や、め……」
喉の奥で掠れた音が漏れる。
毛布の上に、ぬいがいた。
でも、いつもの形じゃない。輪郭が煙みたいに崩れて、狐とも犬ともつかない小さな影がいくつも重なって見える。目だけが金色に光って、まっすぐ私を見ていた。
「ぬい」
呼ぶと、その影がびくりと震えた。
「……近づくな」
「近づいてんの、お前だろ……」
「うるさい」
声が、二重に聞こえた。
いつものぬいの声と、その奥から引っ張られてくる別のざらついた音。
白い線が、床を這う。
窓際から。ドアの下から。壁紙の継ぎ目から。細い細い糸みたいなものが、ぬいへ繋がっていた。
返却。
寄生再開。
補助端末。
そんな単語が、音じゃないのに頭へ直接流れ込んでくる。
「……本体側」
かろうじて呟くと、ぬいが歯を剥いた。
「呼ぶな」
「お前、引っ張られてる……」
「分かっとる!」
影が一度、大きく膨らんだ。
その瞬間、胸の上へ重いものが落ちてきた。息が止まる。ぬいの影が、まっすぐ私の鎖骨から喉元へ這い上がってきた。
「っ、やだ……!」
「消えたくない」
今度の声は、ちゃんとぬいの声だった。
震えていた。初めて聞くくらい、むき出しの音で。
「わしは、消えとうない」
爪が皮膚へ触れる。
喉の奥へ細い冷たさが差し込んでくる。寄生だ。最初にこいつが私へしようとして、し損ねて、そのまま居着いたあれ。
身体の芯が冷えていく。
視界の端が暗くなる。
「ぬい……それ、やったら……」
「分かっとる」
「分かってて、やるのかよ」
呼吸がうまく吸えない。
心臓が嫌な打ち方をして、そのあと一拍、空いた。
遠くで、椅子が倒れる音がした。
「影森!」
朔夜の声。
でも遠い。
白い線が、ぬいの背中へもっと深く食い込む。
選べ、とでも言うみたいに。
私を器にして残るか。
回収されて消えるか。
その時、ぬいの影がぴたりと止まった。
「……でも」
爪の先が震える。
「おぬしをおぬしのまま置いとく方が、まだましじゃ」
次の瞬間、ぬいは喉元から離れた。
離れた、というより、引き剥がすみたいに自分で後ろへ飛んだ。白い線が何本も一緒に引っ張られ、ぬいの小さな身体に食い込む。煙みたいな輪郭が、ばらばらに散りかける。
「ぬい!」
「来るな!」
私は動けない。
肺が痙攣して、息が吸えない。心臓の鼓動がどんどん遠くなる。
朔夜が一歩で間に入り、指先に札を挟んだ。
「”媒体遮断”!!」
低い声と同時に、札が白く裂ける。
部屋の白い線が一瞬だけ弾け飛び、ぬいへ食い込んでいた糸が何本か千切れた。
でも全部じゃない。
ぬいは床へ落ちながら、それでも私のほうを見た。
「見るな、朔夜」
「命令するな、小物」
「うるさい。今のわし、けっこうえらい」
その減らず口が、ひどく掠れている。
朔夜の目が細くなる。
次の札を切ろうとして、ほんの一瞬だけ迷った。強くやれば、糸ごとぬいも切れる。たぶん、そういう計算だ。
「切るなら切れ」
ぬいが先に言った。
「でも、わしはそっちの式神でも何でもないからの」
「知ってる」
「向こうの回収端末でもない」
「それも知ってる」
「じゃあ、分かるじゃろ」
ぬいの金色の目が、まっすぐ朔夜を見た。
「わしは、どっちのものでもない」
朔夜は短く息を吐いた。
「……面倒な小物だな」
「今さらじゃ」
最後の一本みたいに残っていた白い糸が、ぬいの首元へ絡みつく。
その瞬間、私は反射的に手を伸ばしていた。
動かないはずの身体が、床を引っ掻くみたいに少しだけ前へ出る。
「返すな」
声になっていたかも分からない。
でも、ぬいの耳がこっちを向いた。
「そいつ、うちのだから」
言ったあとで、自分でも何を言ってるんだと思った。
借金まみれの女子高生が、寄生霊獣を物みたいに言うな。そう思うのに、他に出てこなかった。
ぬいが、変な顔をした。
たぶん笑った。
「雑な所有権じゃのう」
「うるさい……」
「悪くない」
朔夜が、そこで最後の札を切った。
「”位相固定”」
白い糸が、今度こそ固まる。
動きを止めたところへ、朔夜がそれを踏み潰した。部屋の白さが、一気に薄れる。
同時に、私の視界も落ちた。
―――――
真っ暗だった。
何もない暗闇じゃない。
息が止まったあとに来る、底の浅い暗さ。
あ、これ、ちょっと死んでるな。
嫌な慣れ方をした自分に腹が立つ。
遠くで、何か小さいものが丸まっていた。
ぬいだ。
ぬいぐるみの形じゃない。もっと細くて、頼りなくて、寒そうな小動物みたいな影が、暗闇の隅で丸くなっている。背中に、白い傷跡みたいな線が何本か残っていた。
「……おい」
呼ぶと、ぬいがゆっくり顔を上げた。
「なんでおるんじゃ、おぬし」
「そっちが呼んだんだろ……」
「呼んどらん。逃がしただけじゃ」
「同じだよ、ばか」
ぬいは少し黙って、それからふいっと顔を逸らした。
「食えばよかった」
「食ってたらぶっ飛ばす」
「死んどるくせに威勢がいいのう」
「お前も半分死んでるじゃん」
そう言うと、ぬいはやっと、小さく鼻を鳴らした。
「……消えたくなかっただけじゃ」
「うん」
「でも、おぬしを着ぐるみにするほどでもなかった」
「最低な言い方だな」
「分かりやすいじゃろ」
そこで、暗闇の向こうから強引に引っ張られる感覚がした。
現実側だ。たぶん朔夜が、また高い金を使ってる。
ぬいが小さく言う。
「帰れ」
「お前は」
「帰る」
「ほんとかよ」
「今回はの」
その言い方が、妙にいつも通りで、私は少しだけ笑った。
―――――
目を開けると、喉が焼けるように痛かった。
「……げほっ」
「戻ったか」
朔夜の声。
床に寝かされていて、胸元には札の燃えかすが散っている。やっぱり蘇生されたらしい。高いやつだ。知ってる。
私は咳き込みながら顔を横へ向けた。
テーブルの上に、ぬいがいた。
ぬいぐるみの形代に、いつもより少し浅く収まっている。片耳はさらにへたれて、金色の目も半分しか開いていない。
「……生きてる?」
「怪異にその聞き方をするな。元気にしんどるわい」
声は細いけれど、返事は返ってきた。
私は息を吐く。
「よかった」
「よくはない。最悪じゃ。わしの尊厳がだいぶない」
「元からそんなないだろ毛玉」
「ある」
少し間があって、ぬいが低く付け足した。
「……でも、さっきのは覚えとる」
「何が」
「そいつ、うちのだから、のところ」
私は毛布を顔の下まで引き上げた。
「忘れろ」
「断る」
「まじで忘れろ」
「いやじゃ」
朔夜がそのやりとりを聞きながら、端末へ視線を戻す。
「落ち着いたら明細に書く」
「最悪!」
「蘇生一回、術式二回、結界補修、深夜対応」
「今その話する!?」
「今しかない」
怒鳴り返した私の声に、ぬいが小さくククク、と笑った。
その笑い方は、いつもの小悪党のそれに少し戻っていた。
窓の外では、もう朝が近い色になっている。
私はまだ喉が痛くて、肩も膝もひどいままだったけれど、それでもひとつだけ分かったことがある。
ぬいは、もう単なる便利なマスコットじゃない。
かといって、向こう側へ回収されるだけの端末でもない。
こいつは小さくて、ずるくて、情けなくて、でも最後の最後で、私を食わないほうを選んだ。
それはたぶん、すごく偉いことじゃない。
ただ、ちょっとだけ信じていい裏切り方だった。
ゆら「九十四回目。百に近づいてるだけなのに、妙に静かだ。」
――――
配信94回目でした。
今回はぬい回です。見た目はぬいぐるみ寄りでも、中身はちゃんと怪異で、しかも小悪党です。ただ、その小悪党が今回はぎりぎりで踏みとどまります。
今回の主な人物は、影森ゆら、ぬい、夜見朔夜、毒島真琴です。
【帳面】
・金の借金:蘇生一回、術式行使、深夜対応、結界補修で順調に悪化。
・死の帳尻:一時停止一回。正式記帳遅延の余白をさらに消費。
・なゆの状況:前任記帳官としての直接関与なし。案件除外継続。
・白い帳面/構造側の変化:本体側から小型寄生系への回収圧を確認。ぬいは回収端末化を拒否し、独立した怪異として踏みとどまった。




