配信92回目 向こう側を設計したもの
前任記帳官《鬼灯なゆ》は、もうこの案件に関与していない。
そう言われただけなのに、街の温度まで一段下がった気がした。
今回は、壊れた怪談の奥にある“正しい構造”の話です。
昼休みの教室は、今日もとてもうるさかった。
パンの袋を開ける音。椅子を引く音。るなが「ねぇそれ一口ちょうだぁい」と他人の弁当へ自然に手を伸ばして、透羽が「るな、もうそれ才能だって」と笑い、幽々が静かに牛乳のストローを刺す。
たったそれだけの、普通の光景。
なのに私は、そこへちゃんと乗れなかった。
「ゆら、今日ほんとに顔しんどいじゃん」
透羽が机へ頬杖をついたまま、いつもの軽い調子で言う。
「――また、寝れてない?」
「寝た。寝たけど、起きてる感じしないだけ」
「それ寝れてないやつだよぉ〜笑」
るなが心配そうに眉を下げる。
私は曖昧に笑ってごまかした。説明しようがない。
昨日から、何を見ても、何を聞いても、頭のどこかであの無機質な文言が反復している。
――前任記帳官は、現在この案件に関与していません。
助けてくれる誰かがいなくなった、じゃない。
書類がシュレッダーにかけられるかのように、綺麗に外された。
それがいちばん嫌だった。
ふいに、幽々が窓の外を見たまま言う。
「……今日、帰り道ひとりにしないほうがいいかも」
「え、なんで」
「理由はまだない。でも、そういう日の空気がする」
透羽が冗談めかして肩をすくめた。
「わかる。その感じ。案内板とか、変な日に増えるし」
私は反射的に顔を上げた。
「増えるって、何が」
「いや、今のは言い方。気にしないで」
透羽は笑って流したけれど、その笑い方が半拍だけ遅れた気がした。
嫌な予感が、じわじわと広がる。
―――――
放課後。
るなと透羽に引き止められたけれど、私は今日はひとりで帰ると言い張った。
誰かと一緒にいる普通の帰り道が、今日は逆に怖かった。
壊れたら困るものほど、近くへ置きたくない。
高架下を抜け、地下街へ降りる。白すぎる照明が、磨かれた床を平たく照らしていた。人通りはあるのに、音がやけに遠い。広告、柱、案内板。全部がきっちり揃いすぎていて、むしろ息苦しい。
その時だった。
案内板のひとつに、見覚えのない文字が浮いた。
接続待機。
「……は?」
立ち止まる。
次の柱には、こうあった。
帰還保留。
飢餓沈静。
媒介導線。
心臓が嫌な跳ね方をした。
「なに、これ……」
周りの人たちは誰も見上げていない。スマホを見ているサラリーマンも、買い物袋を提げた女の人も、そこに何もないみたいに通り過ぎる。
私だけが見えている。
そう考えた瞬間。足元が、ふっと抜けた。
叫ぶより先に、視界の色が落ちる。地下街の白が剥がれて、その奥からもっと薄い、病院みたいな一面の白が出てきた。
気づけば、私は長い廊下の真ん中に立っていた。
壁は白。床も白。天井の光まで均一で、影だけが不自然に薄い。怖いのに、荒れていない。壊れていない。きちんと造られている。
廊下の左右には、番号の振られた扉が並んでいた。
一一二。接続待機。
一一三。帰還不可。
一一四。鎮静処理中。
「……やだ」
喉がひりつく。
怪異の巣なら、まだよかった。ぐちゃぐちゃで、間違ってて、壊れてるほうがまだ安心できた。
これは違う。
正しい施設みたいだった。
「来たんだ」
静かな声がして、私は振り向いた。
玻璃が立っていた。
いつもの通り、騒がず、驚かず、ただ最初からそこにいたみたいな顔で。
「ここ、どこ」
「向こう側の、奥へ行く前のところ」
「嘘。こんなの聞いてない。もっと、ぐちゃぐちゃしてると思ってた」
「前は、そういう場所ばかり見てたから」
玻璃はそう言って、私の横へ並ぶ。
「壊れたままのほうが、怖いと思う?」
「思うよ」
「わたしは、逆」
玻璃の視線は、廊下の先へ向いていた。
「きれいに作ってあるほうが、長く使えるから」
ぞわ、と背中が粟立つ。
「……使う?」
「うん」
「何を」
玻璃は少しだけ黙ってから、いちばん近いガラス窓を指さした。
覗いた先には、大きな暗がりがあった。
海みたいに広いのに、水じゃない。空洞みたいに深いのに、底だけが脈打っている。その縁へ、白い線が何本も何本も伸びていた。糸みたいに細い線の先には、扉、席、名前の欠片みたいなもの。
「足りないと、荒れるの」
玻璃が言う。
「向こうは、お腹が空くから。ひとつ繋ぐと、少し静かになる」
「……ひとつ、『何』を、繋ぐの」
聞かなくても分かった。
それでも、聞かずにいられなかった。
玻璃は私を見なかった。見ずに遠くを見たままこういった。
「生きてる側と、待ってる側。戻りたい側と、戻れない側。あいだに立てるもの」
接続材。
その言葉は、誰も口にしないまま、もうそこにあった。
「花嫁って……それのこと?」
「単なる生贄じゃないよ」
玻璃の返事は、ひどく静かだった。
「置けばいい、じゃもたないから。つないで、持たせて、鎮めるの。そういうふうに出来てる」
「出来てるって、誰が」
今度だけ、玻璃は少し困った顔をした。
「設計したもの」
「ものって何。神様? 怪異? 人間?」
「たぶん、どれでもない」
廊下の奥で、何かがゆっくり鳴った。チャイムみたいな、処理完了音みたいな、感情のない音。
私は思わず一歩下がる。
「こんなの、おかしいでしょ」
「うん」
「人を部品にして、正しいわけない」
「でも」
玻璃が初めて、まっすぐ私を見た。
「そうしないと、もっとたくさん落ちる夜があったんだと思う」
言葉が、すぐには返せなかった。
間違ってる。絶対に。
なのに、理屈だけは通ってしまう。
それがいちばん気持ち悪かった。
蒐集商会の値札も、査定も、充分ひどかった。けれどあれは、まだ“拾う側”だったのだ。
こっちは違う。
最初から、落ちる人数まで計算に入れて、穴の形を決めている。
ふと、廊下の一番奥に、真っ白な扉が見えた。
名前の札が半分だけ書かれていて、残りが空白だった。
私の足が、無意識にそっちへ向く。
「だめ」
玻璃が珍しく強い声を出した。
「そこはまだ見なくていい」
「まだって何」
「まだ、間に合うから」
その一言と同時に、白い廊下が大きく揺れた。
現実側から誰かに肩を掴まれたみたいに、身体が急に重くなる。
咳き込んだ。肺に冷たい空気が刺さる。
―――――
気づけば私は、地下街のベンチに座り込んでいた。
通行人が二、三人、変な目でこちらを見て通り過ぎていく。スマホの画面には、十五分前の時刻が出ていた。
たった十五分。
なのに、向こうではもっと長くいた気がする。
震える指で、朔夜の連絡先を開く。
文面を打って、消す。
――向こう側、設計されてる。
――花嫁って、接続材なんだって。
――玻璃が知ってた。
どれも送れなかった。
あいつに聞きたいことが多すぎる。
でも、今この瞬間に頼りたくない気持ちも、まだ消えていない。
頭上の案内板を見上げる。
そこには、もう普通の出口番号しかなかった。
それでも私は知ってしまった。
向こう側は、ただ飢えているんじゃない。
飢えるように、静まるように、誰かを繋ぐように――最初から、そう設計されている。
冬の街は、やけに明るかった。
なのに帰り道のどこにも、安心して立てる場所がなかった。
配信92回目でした。
今回は“怪異の奥にある構造”を前へ出す回です。壊れたものの怖さではなく、整いすぎているものの怖さへ、少しずつ寄せています。
今回の主な人物は、影森ゆら、玻璃、そして名前のまだつかない“設計したもの”です。
【帳面】
・金の借金:請求継続中。距離を置いても、理不尽だけは律義に残る。
・死の帳尻:正式記録へ落ち切る前の接触一回。処理未確定。
・なゆの状況:前任記帳官としての直接関与なし。案件除外継続。
・白い帳面側の変化:記録だけでなく、“接続の配置そのもの”を管理する上位構造の気配が増大。




