配信91回目 前任記帳官は、現在この案件に関与していません
今日は、なゆさんがいない回です。
いないだけなのに、思っていたよりずっと冷たいです。
優しさって、なくなってからやっと分かるものらしいです。
吐く息が白く染まる季節――。
次の日の昼休み、私は反射みたいに相談室の前まで来てしまっていた。
来る意味は、たぶんない。
昨日で終わったのだから。それを知っていたはずなのに。
でも、足だけは前と同じ動きをしたのだ。
私の足は、引き戸の前で止まる。
名札が変わっていた。
いつもの、やわらかい字で書かれた「鬼灯」の札はない。代わりに、白いプレートが一枚だけ差し込まれている。
**臨時記録対応**
「……うわ何これ」
声が出た瞬間、背後から透羽がのぞきこんだ。
「何それ」
「見れば分かるでしょ」
「分かるけど、分かりたくないタイプのやつ」
その言い方に、変な笑いが出そうになった。出なかったけど。
るなも少し遅れて来る。
「なゆさん、ほんとにいないんだぁ……」
「うん」
「なんか、ちゃんといないねぇ……」
「それ、分かる」
私は小さく答えた。
「消えたんじゃなくて、きっちり外された感じする」
幽々《ゆゆ》はプレートを見たまま、静かに言った。
「優しかった人がいなくなる時って、一瞬だね」
「やめて。朝から刺さる」
「もう昼休みだよ」
「そこじゃない、いや昼は合ってるわ」
軽いやり取りをしていたその時、引き戸が内側から開いた。
出てきたのは、知らない人だった。
白い服。白いファイル。顔はある。目も鼻も口もちゃんとある。なのに、一回見ただけでは印象が残らない。不思議なくらい“個人”の輪郭が薄い。
「影森ゆらさんですね」
その人は言った。
「午後の授業終了後、記録確認があります」
「……は?」
「確認事項は《《以上》》です」
それだけ言って、すっと引き戸が閉まる。
透羽が真顔になった。
「怖っ」
「うん」
「今の、人っぽかった?」
「そこ言うのやめて、引きずる」
るなが私の袖を引く。
「ゆらちゃん、行くのぉ……?」
「行かないと、たぶん後で余計ひどい」
「それ、もう職場の理屈だよね」
透羽が言う。
「学校の昼休みに言う理屈じゃないって」
ほんとうに、それだった。
――――
午後の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
――この一年、勉強に集中できた時間のほうが短い気がする。
それでも何とか赤点を免れたのは、周りの友達のおかげだった。
るなも、幽々も勉強は意外とできる。ノートを貸してもらったり、試験の時は出そうな問題をピックアップして私をサポートしてくれていた。持つべきものは友達だな。
――チャイムが鳴って、教室がほどける。
みんな部活だの寄り道だの帰宅だの、普通の放課後へ散っていく。
私はひとりで相談室の前に戻った。
引き戸を開ける。
部屋は前と同じ広さのはずなのに、少しだけ狭く見えた。
白い机。白いファイル。白い記録票。
お茶はない。マグカップもない。机の角にいつもあった、少しだけ生活感のあるものが何もない。
白い人が座っている。
「着席を」
言い方が、最初から最後まで業務だった。
「……失礼します」
座る。
向こうは名乗らない。こちらも聞く気が削がれる。
「対象名、影森ゆら」
白い人がファイルを開く。
「直近接触履歴、確認済み」
「確認って」
「四課側の正式記録へ移行しています」
「……」
「前任記帳官による裁量猶予は、現在無効です」
その一文だけで、喉が詰まった。
「待って」
私は思わず言った。
「なゆさんは」
白い人は目も上げずに答える。
「《《前任記帳官は、現在この案件に関与していません》》」
「……」
「繰り返します」
白い紙の上を指が滑る。
「前任記帳官は、現在この案件に関与していません」
腹が立つより先に、冷えた。
これだ。
なゆがいないって、こういうことだ。
悲しそうな顔も、困った顔も、言いにくそうな沈黙もない。ただ、関与していません、だけが残る。
「確認事項を続けます」
「待って」
「発言は簡潔に」
「……はい」
自分でも驚くくらい、素直に返事をしていた。
相手が怖いからじゃない。
相手の中に、こちらが怒る余白すらないのが分かるからだ。
「直近の浅層接触一件」
「一件」
「監査後の未記録加算、差し戻し処理済み」
「差し戻し……」
「記録済み。貸しなし。猶予なし」
その言い方があまりにも整っていて、逆に意味が頭へ刺さるまで少し時間がかかった。
記録済み。
貸しなし。
猶予なし。
なゆなら、そこで一拍止まった。
言いづらそうにした。
あるいは誤魔化した。
でもこの人は、綺麗に切って、綺麗に置く。
「何か質問は」
「……ある」
「簡潔に」
「その、全部いちいち冷たいの、仕様なの?」
「業務ですので」
「仕様なんだ……」
思わず力なく笑ってしまった。
笑ったところで、向こうは少しも揺れない。
「確認は以上です」
「終わり?」
「はい」
「それだけ?」
「それ以上の何を希望しますか」
私はすぐに答えられなかった。
たしかに、それだけだ。
こっちは対象。向こうは記録側。帳尻を合わせる。必要事項だけ伝える。終わり。
でも、終わりすぎている。
「……前は」
気づけば言っていた。
「もうちょっと、こう……あったんだけど」
「前任記帳官の運用は把握していません」
「把握してても、たぶん言わないよね」
「必要がありませんので」
言い切られて、逆に少しだけ息が抜けた。
ああ、本当に違うんだな、と思った。
なゆさんは、業務でいるふりをしながら、最後まで業務だけにはなりきれなかった。
この人は最初から最後まで、きっちり業務だ。
だからこそ、今になって分かる。
特別だったのは、私じゃない。
特別に歪んでいたのは、あの人のほうだった。
「以上です。退室を」
「はい」
立ち上がる。
引き戸の前で、一度だけ振り返った。
「……ほんとに、関与してないの?」
「はい」
「前任記帳官は、現在この案件に関与していません」
三回目。
三回目で、ようやく諦めがついた。
---
廊下へ出ると、夕方の空気が少しだけぬるかった。
窓際に、透羽と幽々とるながいた。待っていたらしい。
「どうだった」
透羽がすぐ聞く。
「最悪」
「それは知ってる。中身」
「ちゃんと最悪だった」
私は壁にもたれて、息を吐いた。
「なゆさんは、もう来ない」
「うわ」
透羽が顔をしかめる。
「それ、言われるとだいぶくるね」
「くる。ほんとにくる」
るなが不安そうに見上げる。
「なゆさん、いないのぉ?」
「うん」
「もう会えないのぉ?」
「……そこまでは、まだ分かんない」
幽々が静かに言う。
「でも、分かったでしょ」
「何が」
「なゆさん、ほんとに特別だったんだって」
私は返事をしなかった。
返事をしなかったけど、それがいちばん返事になっていたと思う。
チャイムが鳴る。
冬の入口みたいな風が、廊下の端を抜けていく。
帳尻処理は、今日からちゃんと冷たい。
貸しもない。猶予もない。
それが正しい運用なんだろう。
でも正しいからって、痛くないわけじゃない。
優しさって、なくなってからじゃないと、だいたい気づけない。
今日の私は、それを知るには少し遅かった。
ゆら「九十一回目。笑えない数字って、あるんだ。」
■今回の登場人物
・影森ゆら
臨時記録対応をまともに食らった。なゆ不在の冷たさを、ようやく実感した。
・夏目透羽
「怖」「仕様なんだ……」担当。外から見ても、ちゃんと冷たいものは冷たい。
・白澤幽々《ゆゆ》
最後にいちばん静かに本質を言った。
・夜宵るな
「もう会えないのぉ?」と、いちばん単純で痛いことを聞いた。
・臨時記録対応の人
人っぽいが、業務だけが前に出てくる存在。優しくないのではなく、優しさを挟まない。
【今回の帳尻】
・金銭帳尻:直接請求なし。こういう回ほど、お金の話がないぶん別の冷たさが立つ。
・死の帳尻:記録済み。貸しなし。猶予なし。
・構造帳尻:前任記帳官は、現在この案件に関与していません。
・そして、いなくなってからようやく、なゆがどれだけ例外だったか分かった。最悪です。
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