配信90回目 最後の貸し
今日は、なゆさんが最後に貸してくれるお話です。
助ける話ではありません。助けたあとに、何が残るかのお話です。
冬は、こういう静かな別れ方で来ます。
その呼び出しは、授業が終わる五分前に来た。
スマホの画面に、短い一文だけが出る。
**終わったら、旧相談室へ。ひとりで。**
差出人表示はない。
でも、誰からかは分かった。前と同じだ。
私はその一行を見た瞬間から、残りの授業がほとんど頭に入らなかった。
チャイムが鳴る。椅子を引く音。廊下へ出る足音。いつもの学校の放課後。
「ゆらちゃん、今日いっしょに帰るぅ〜?」
るなが聞いた。
「ごめん、今日はちょっとだけ寄るとこある」
「またひとりで?」
透羽が眉を寄せる。
「うん」
「大丈夫、の顔じゃないんだけど」
「大丈夫ではないが」
「正直だねぇ!」
幽々が静かに私を見る。
「戻ってきて」
「うん」
その短い約束だけ残して、私は旧相談室へ向かった。
使われなくなった廊下は、放課後の学校の音から半歩だけ外れている。
明るいのに、人の気配が薄い。
冬の入口って、たぶんこういう空気だ。
引き戸は、少しだけ開いていた。
「……入ります」
中は白かった。
相談室というより、前に見た“監査の部屋”に近い。机はひとつ。椅子は二つ。白い帳面。白いペン。湯気のないマグカップ。余計なものだけが綺麗に削られた、冷たい部屋だ。
鬼灯なゆは、その向こうに座っていた。
「来ると思っていました」
「呼んだの、そっちでしょ」
「ええ」
「じゃあ、その言い方ちょっとずるい」
なゆは少しだけ目を細めた。笑ったわけじゃない。笑えない時の顔だ。
「座ってください」
「はい」
椅子に座る。
今日は、お茶は出ていない。
それだけで、もう前とは違う気がした。
「監査、終わったの」
私が先に聞く。
「一応は」
「一応」
「正式な処理は、このあとです」
なゆは帳面に手を置いたまま言った。
「私はもう、あなたの案件に直接は関われません」
「……」
「単独接触も、裁量猶予も、未記録判断も止められてしまいます」
「できない、じゃなくて」
「止められました、が近いですね」
分かっていた。
前回の時点で、もうそうなると分かっていた。
それでも、ちゃんと言われると痛い。
「じゃあ今日、なんで呼んだの」
「最後にひとつ、残せるからです」
なゆが白い帳面を開いた。
ページは、ほとんど何も書かれていない。
でも、何もないはずの一頁の真ん中にだけ、妙な余白があった。
最初から空いていたんじゃない。
本来は何かが入るはずだった場所を、誰かが意図して一個ぶんだけ空けた、そういう空白だった。
「これ」
私は息を呑んだ。
「……何」
「不正です」
「言い切るな」
「もう隠す段階ではありませんので」
なゆの声は、相変わらず静かだった。
「本来なら、ここは別案件の確定処理で埋まるはずでした」
「うん」
「でも、ひとつだけ空けました」
「私のために?」
「はい」
喉の奥がひりつく。
「これが、最後の貸しです」
なゆは帳面を見たまま続けた。
「次にゆらさんが正式な死の記録へ触れた時、一度だけ、記帳を遅らせられます」
「遅らせる……」
「消せません。なくせません。ただ、一瞬だけ遅らせる」
「それで、何か変わるの?」
「刹那の局面では、その一瞬が生きることがあります」
刹那の局面。
その言い方が、もう嫌だった。
「……そういうの、やめてよ」
私は小さく言った。
「そんな、先のことまで分かってるみたいな顔で」
なゆは首を振る。
「分かっているわけではありません」
「じゃあ何」
「起きた時に、間に合わないのが嫌なんです」
その返しは、ずるかった。
告白の時と同じだ。
綺麗なことを言わないくせに、誤魔化しもしない。
「これで、本当に、もう書けません」
なゆが言った。
「次からは、私ではない誰かが、普通に書きます」
「普通、って何」
「貸しも猶予もない、という意味です」
部屋の白さが、一段だけ冷えた気がした。
私は帳面を見る。
たった一個の空白。
それが、最後の不正。最後の余白。最後の猶予。
「……そんなの、使いたくない」
「知っています」
「そもそも、使う状況が嫌なんだよ」
「それも知っています」
なゆは、やっと私を見た。
「でも、持っていてください」
「持つって、どうやって」
「もう向こうへ渡しています」
「は?」
「ゆらさんが自覚しなくても使える形で、です」
またそういうことを言う。
分かりやすいようで、分かりやすすぎる説明はしない。
でも、意味だけはちゃんと届く。
私は聞いた。
「外されるんでしょ」
「ええ」
「じゃあ、もう会えないかもしれない」
「そうですね」
なゆは淡々と言う。
でも、その淡々さの下で、ちゃんと痛がっているのが分かる。
「……なのに、平気なんだ」
「平気ではありません」
「じゃあ何でそんな顔してるの」
「私が平気でないと、ゆらさんが余計困るからです」
私は黙った。
そういうところが、最後までずるい人。
「私、なゆさんのこと」
言いかけて、止まる。
好きだとか、嫌いじゃないとか、ありがとうとか。どれも少し違う気がした。
「……ちゃんと、いたんだなってこれからも思う」
やっと出たのは、そんな変な言葉だった。
なゆは目を細めた。
「それは良かった」
「良かった、で済むの」
「済みません」
「だよね」
少しだけ、笑ってしまった。
笑いたいわけじゃないのに、ここで泣くよりはましだった。
なゆが帳面を閉じる。
ぱたん、という小さな音。
それで終わった気がした。
「もう呼べません」
なゆが言う。
「前みたいには」
「うん」
「だから次からは、自分で戻ってきてください」
「注文が重い」
「言い方を重くしないと、ゆらさんは無理をします」
「否定できないのがやだ」
私は立ち上がる。
引き戸の前まで行って、振り返った。
白い机。白い帳面。白い部屋。
その真ん中に、なゆだけが座っている。
前は近かった。
今は、近いまま遠い。
「……ありがとう」
私は言った。
「困っちゃったけど、ありがとう」
なゆは一瞬だけ目を見開いて、それから、ほんの少しだけ笑った。
「それは、だいぶ困りますね」
その笑い方を見たのは、たぶん初めてだった。
引き戸を閉める。
廊下へ出る。
空気は冷えていた。
秋の終わりじゃない。ちゃんと冬の入口の冷たさだった。
私はコートの前を閉じて、歩き出す。
最後の貸しは、たぶんもう渡された。
目には見えない。触れもしない。
でも、それがあるせいで、これから先の死に方まで少し変わってしまう。
そういう貸しが、いちばん重い。
■今回の登場人物
・影森ゆら
なゆから最後の貸しを受け取った。使いたくないのに、使う状況だけは想像できてしまうのが最悪。
・鬼灯なゆ
最後の不正として、帳面に空白ひとつぶんの猶予を残した。「これで、もう書けません」と告げて、ゆら案件から実質離脱。
・白い帳面
今日の主役。書かないことも、貸しにすることも、制度の外へ踏み出した証拠になってしまう。
■今回の帳面
・金の借金
直接の増減なし。こういう大事な回ほど、お金の話が静かなのが逆に怖い。
・死の帳尻
本来なら正式処理しか残っていない段階で、空白ひとつぶんの不正が残された。最終局面で一度だけ、正式な死の記録を遅らせる猶予になる。
・なゆの状況
かなり悪い。ゆら案件から外され、直接関与・裁量判断・未記録処理はここで実質終了。完全消滅ではないが、もう前みたいには会えない。
・白い帳面まわり
優しさの痕跡が、制度上は最後の違反として残った。たぶん今日いちばん重いのは、この空白。
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