配信89回目 帳面の監査
今日は、なゆさんが怒られる回です。
しかも、ちゃんと業務の理屈で怒られます。
それが一番、笑えません。
次の相談室の予約表に、鬼灯なゆの名前がなかった。
「……休み?」
思わず口に出すと、保健室の先生が首を傾げた。
「今日は来てないよ。急に調整入ったみたいで」
「調整」
「うん。向こうの都合って言ってたけど」
向こうの都合。
普通の学校の会話に混ぜるには、妙に冷たい言い方だった。
私は相談室の前に立ったまま、少しだけ嫌な汗をかいた。
来ない。
来るはずの人が、急に来ない。
それだけで、この廊下はすぐに別の意味を持ち始める。
「影森?」
後ろから透羽の声がした。
「何してんの」
「……なゆさん、今日いないって」
「へえ。あの人休むんだ」
透羽は軽く言ったあと、私の顔を見て少しだけ表情を変えた。
「いや、待って。影森、それ、ただの欠勤って顔してない」
「してない?」
「してない。普通にやばい想像してる顔」
「……たぶん、してる」
授業中も落ち着かなかった。
ノートの端へ書いた字が、自分でも分かるくらい汚い。
るなが横から覗きこんで「今日のゆらちゃん、字までしんどそうだねぇ〜」と心配し、幽々《ゆゆ》は「連絡、来てないの?」と小さく聞いた。
来ていない。
それが逆に、嫌だった。
昼休みを過ぎたころ、スマホが短く震えた。
差出人表示はない。番号もない。白い画面に、たった一行だけ。
**来るなら今です。ひとりで。**
ぞっとした。
なのに、誰から来たのかは、すぐに分かった。
「……行ってくる」
「どこに」
透羽がすぐに聞く。
「ちょっと」
「ちょっと、の顔じゃないょ」
「大丈夫」
「その台詞、今日もう信用ないんだけど」
るなが不安そうに袖を引いた。
「ゆらちゃん、ひとりでいくのぉ……?」
「うん」
「やだよぉ〜」
「私もやだけど」
幽々が静かに言う。
「戻ってきて」
その短さが、いちばん効いた。
「……うん」
私は校舎の奥、使われていない旧相談室のほうへ向かった。
今は倉庫扱いのはずの場所だ。
でも今日は、引き戸が少しだけ開いていた。
中は暗い。
暗いのに、部屋の奥だけ白い。
その白さを見た瞬間、息が止まりかけた。
「……なゆさん」
部屋の中央に、白い机があった。
その向こうに、なゆが座っている。
ただし、いつもの相談室とは違う。
机の上には、白い帳面が三冊。
閉じた帳面が二冊。開いた帳面が一冊。
そして向かい側には、もうひとり、白い手袋の人物が座っていた。
顔は見えない。
いや、ある。あるのに、印象だけが残らない。
“監査官”という肩書きだけが先に分かる、そういう顔だった。
「あなたが――影森ゆらですね」
白い人物が言った。
声まできれいに温度がない。
「入って構いません。ただし、発言は求められた時だけ」
「……は?」
「監査中ですので」
言い方が役所っぽすぎ。
私は反射でなゆを見る。
なゆは少しだけ困った顔をした。でも、帰れとも黙れとも言わなかった。
「なゆさん」
「来ると思っていました」
「来るに決まってるでしょ」
白い監査官が帳面を一枚めくる。
「対象案件、影森ゆら」
背筋がひやりと冷えた。
「未記録差額、複数。仮保全記録との不一致、継続。猶予の過剰使用、明白」
淡々と、読み上げられる。
「説明を」
なゆは静かに答えた。
「判断の余地がありました」
「毎回ですか」
「結果としては」
「結果として、ではありません。継続して、です」
言葉が、一つずつ冷たい杭みたいに打ち込まれていく。
私は思わず一歩前へ出た。
「待って、それ私のせいじゃん」
「影森さん」
なゆが小さく制した。
「今は」
「今は、じゃないよ」
白い監査官が初めて、私をまっすぐ見た。
「あなたのせい、という表現は不正確です」
「じゃあ何」
「原因の一部です」
正確すぎて、逆に腹が立つ。
「帳面管理は記帳官の職務です」
監査官が続ける。
「個人的感情、対象への執着、保護欲、特別扱いによって記録が歪められた場合、それは業務違反に当たります」
「……」
「今回の鬼灯なゆは、その条件を複数回満たしています」
私は息を呑んだ。
執着。
保護欲。
特別扱い。
そういう単語になると、なゆさんから聞いた言葉が急に別の角度から刺さる。
好きなんです。困るくらいに。
「異議はありますか」
監査官がなゆへ問う。
「ありません」
なゆは静かに答えた。
「記録に齟齬があることも、私情が混ざったことも認めます」
「なゆさん」
思わず声が出る。
「なんで、そこで全部認めるの」
なゆは私を見る。
責める目ではなかった。
でも、庇う目でもない。
私まで巻き込まないように、線を引く時の目だった。
「事実だからです」
「でも、それ」
「言い逃れをしても、私のやったことは、減りません」
白い帳面が、ぱたんと一度だけ閉じる。
その音が、やけに大きく聞こえた。
「処分案を通達します」
監査官が言う。
「鬼灯なゆは、影森ゆら案件からの段階的除外対象となります」
「……え」
頭が、一瞬だけ追いつかなかった。
「直ちに消去ではありません」
監査官は事務的に続ける。
「ただし、直接接触、裁量猶予、未記録判断、単独対応の各権限を順次停止します」
「停止……」
「要するに」
透き通るみたいな声で、監査官は言い切った。
「外されます」
その一言が、いちばん痛かった。
消える、のほうがまだ物語っぽい。
いなくなる、のほうがまだ分かりやすい。
でも“外される”は違う。
業務の理屈で、そこにいられなくなる。
それは死よりずっと現実的で、ずっと冷たかった。
「待ってよ」
私はもう止められなかった。
「それ、私がいたからでしょ」
「因果関係はあります」
「じゃあ、なゆさんだけ切るのおかしいでしょ!」
「おかしくありません。管理責任の所在が明確ですので」
「影森さん」
なゆがまた、静かに呼ぶ。
「いいんです」
「よくない!」
「よくはありません」
なゆは少しだけ笑った。
「でも、順番としては妥当です」
そんな顔で言うな、と思った。
こんな時まで穏やかでいられるのが、ずるい。
その穏やかさのせいで、余計に現実味が増すから。
「白縫冥は?」
私は半ば怒鳴るように言った。
「知ってるんでしょ、これ」
「知っています」
監査官が代わりに答えた。
「ただし、白縫冥は別系統です。監視者であって、記帳官の裁量違反を庇う権限はありません」
どっちにしたって、庇わないよ。
その一言だけで、冥の顔が浮かぶ。
あの人はたぶん、ほんとうに庇わない。
嫌いとか好きとかじゃなく、構造として、庇わない。
「……最悪」
小さく漏れた。
「ええ」
なゆが言う。
「最悪です」
私は唇を噛んだ。
「私、どうしたらいいの」
気づけば、そんな情けない言葉が出ていた。
「何もしないでください」「あと、できれば死なないでください」
なゆが言う。
「それが一番、助かります」
「そんなの――」
「影森さん」
なゆは白い帳面へ手を置いたまま、まっすぐ私を見た。
「お前のせいで私が困る、という言い方は簡単です」
「……」
「でも、そうすると私が自分で選んだことまで、全部お前に押しつけることになります」
「それは」
「嫌なんです」
胸が痛かった。
助けたいのに、ここで動くほど悪くなる。
その理屈が分かってしまうのが、いちばん苦しい。
監査官が立ち上がる。
「本日の監査は以上です。正式通達は後日」
それだけ言って、白い帳面を閉じた。
「鬼灯なゆ。次回以降は裁量を控えてください」
「善処します」
「善処では足りません」
「でしょうね」
監査官はそのまま、印象のない白さだけを残して去っていった。
部屋の中に、やっと人間の沈黙が戻る。
「……ごめん」
私は先に言ってしまった。
「謝らないでください」
なゆはすぐに返した。
「今日それ言うの、二回目だよ」
「まだ足りませんか」
「足りないよ」
なゆは少しだけ目を伏せた。
「外されるほうが、消えるより怖いですね」
ぽつりと言う。
「でも、こういう仕事は、たぶんその怖さでできているので」
その言い方が、いやに記帳官らしかった。
私は何も返せなかった。
今日、初めて知った。
人がいなくなるより先に、役割から剥がされる怖さがあることを。
そして、その順番で失うことのほうが、きっと長く痛いことを。
部屋を出る前、なゆが私を呼んだ。
「影森さん」
「何」
「次も、たぶん会えます」
「たぶん、なんだ」
「保証は減りましたので」
「そういう言い方、今ほんとやめてほしい」
「すみません」
少しだけ笑ったその顔が、昨日までより遠いのを感じた。
その遠さが、いちばん堪えた。
■今回の登場人物
・影森ゆら
なゆの監査を目撃。自分のせいで“消えるより先に外される”怖さを初めて知った。助けたいのに動けないのがきつい。
・鬼灯なゆ
未記録差額、仮保全記録との不一致、猶予の過剰使用を正式に追及された。初めて業務上ほんとうに危ない立場へ入った。
・監査官
顔も声も印象が薄いのに、言うことだけは正確で冷たい。制度そのものの顔。
・白縫冥
今回は不在。ただし別ラインゆえに庇わないことだけが、逆にはっきりした。
■今回の帳面
・金の借金
直接の増減なし。請求より先に、別の帳尻のほうが痛かった回。
・死の帳尻
死亡追加なし。ただし未記録差額の追及が始まり、ゆら案件そのものが四課側で危険案件化した。
・なゆの状況
かなり悪い。ゆら案件からの段階的除外対象となり、直接接触・裁量猶予・未記録判断の権限停止が近い。
・白い帳面まわり
“書かない優しさ”は、制度上はただの不一致として処理される。優しさがそのまま処分理由になるのが、いちばんこの仕事らしい。
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