配信86回目 好きなんです、困るくらいに
今日は、なゆさん回です。
でも甘い告白回ではありません。
優しい人が、業務でいられなくなる話です。
次の日の放課後、私は帰るタイミングを少しだけ遅らせていた。
昨日の封筒の中身が、まだ胸の奥でざらついている。
朔夜は全部知らなかった側じゃない。
それだけ分かってしまったのに、まだちゃんと怒るところまで行けていない自分も、少し嫌だった。
廊下はもう静かになっていた。部活へ行く足音も遠くなって、教室の扉がいくつか開いたままになっている。
私は鞄を肩に掛け直して、相談室の前で立ち止まった。
引き戸の向こうに、人の気配がしたからだ。軽くノックをする。
「……入っていいですか」
「どうぞ」
鬼灯なゆの声だった。
中へ入ると、部屋は昨日と同じように白くて静かだった。机の上には白い帳面。湯気の立つマグカップ。窓際に落ちる夕方の光まで、整いすぎていて少し怖い。
「また倒れに来たわけじゃありません」
「ええ。今日はその顔をしていませんね」
「どんな顔なんですか」
「何かを――聞きに来た顔です」
その言い方が、妙にまっすぐで困った。
私は椅子へ座る。なゆは向かい側へ腰を下ろしたまま、帳面に手を置いている。開かない。けれど、いつでも開ける位置だった。
「……昨日」
私が口を開く。
「なゆさん、私にだけちょっと甘いって言ったじゃないですか」
「言われましたね」
「否定しなかった」
「しませんでした」
「なんで」
なゆは少しだけ黙った。
考えている、というより、答えをどこまで人の言葉へ落とすか選んでいるみたいな沈黙だった。
「業務上、好ましくないからです」
「それ、理由になってるようでなってない」
「そうですね」
私は息を吐いた。
「ちゃんと聞きます」
「はい」
「なんで、そこまでしてくれるの――?」
言ってから、自分でも少しだけ喉が詰まった。
書かない。見逃す。戻す。待つ。
なゆはずっと、そういう“少しの逸脱”を私にだけ重ねてきた。
それが善意だけじゃないことは、もう分かる。
でも、じゃあ何なのかは、まだ分からなかった。
なゆは私を見た。
静かな目だった。逃げない代わりに、やさしくも誤魔化さない目。
「好きなんです」
なゆは言った。
「困るくらいに」
思わず、息が止まる。
「……えっ?」
「だから、書きたくなかったんです」
声は静かだった。
照れもない。甘さもない。
とんでもない告白なのに、嬉しいとか切ないとかの前に、駄目なんだ、と思わせる言い方だった。
「それ」
私はようやく声を出した。
「そういう……意味で?」
「どういう意味を想定しましたか」
「いや、え、待って。私も今うまく言えないけど」
なゆは少しだけ目を細めた。
「甘い恋愛の告白として受け取られると困ります」
「そこははっきり言うんだ」
「必要なことなので」
困った。ほんとうに困る。
「好きです」
なゆは、もう一度だけ言った。
「でもそれは、“特別だから助けたい”みたいな綺麗な話ではありません」
「……」
「何度も書くはずだった名前を、書かずに済ませてきた。そうしているうちに、私は貴女が無事なほうへ寄ってしまった」
「寄ってしまった、って」
「記帳官としては完全な敗北です」
その一言で、やっと腑に落ちる。
これはたしかに告白だ。
でも恋愛の勝負じゃない。
業務でいるべき人が、業務でいられなくなった告白だ。
「困るでしょ」
なゆが言う。
「だから最初から、言うつもりはありませんでした」
「……じゃあ、なんで今」
「貴女が、聞いたからです」
ずるい。
でも、ずるくない。
私が聞いた。真正面から。
だから返された。それだけだ。
私は膝の上で手を握る。
「私、返せないよ」
「知っています」
「こんなの、どう返したらいいかも分かんない」
「それも知っています」
「じゃあ言わないでよ、って今さら言うのも変だけど」
「変ですね」
「うるさいなぁ……」
なゆが少しだけ笑った。
今日初めて、人みたいに見える笑い方だった。
それが逆に、痛かった。
「返さなくていいんです」
「でも」
「返されたい告白ではありません」
「……なゆさん、それ、自分で言っててしんどくない?」
「しんどいですよ」
即答だった。
「だから困るくらいに、です」
「.......。」
「ここを外すと、ただの報告になってしまうので」
私は俯いた。なゆさんの事を考えると、何も言葉が浮かばなかった。
窓の外は、もう夕方を越えかけている。校庭の端が薄く暗い。教室の電気も、何個か消え始めていた。
「私」
少し迷ってから言う。
「なゆさんのこと、嫌いじゃない」
「ええ」
「でも、それとこれ、同じにできない」
「はい」
「ごめん」
「謝らないでください」
なゆは首を横に振った。
「返せないと言われることまで、含めて聞くべきでした」
「……それ、余計しんどい」
「でしょうね」
白い帳面が、机の上で静かに閉じたままだ。
今日は開かない。
開かないまま、この話だけがここに残る。
「一つだけ」
私が言う。
「これからも、書かないでいてくれるの」
なゆは、少しだけ長く黙った。
「約束はできません」
それから、静かに続ける。
「でも、最後まで迷います」
「それ、だいぶ危ない答えだよ」
「ええ。知っています」
私は立ち上がる。
もうこれ以上ここにいたら、部屋の白さまで胸の中へ入ってきそうだった。
「私、帰ります」
「はい」
「……今日は、ありがとう、でいいのかな」
「それで十分です」
引き戸へ手をかける。
そこで、なゆが後ろから小さく呼んだ。
「影森さん」
「何」
「今日は、ちゃんと帰ってください」
「……努力はする」
「努力ではなく、帰ってください」
「頑張ります!」
それでも、少しだけ笑ってしまった。
相談室を出る。
廊下の空気は、まだ学校のものだった。
でも、その静けさの中に、さっきの言葉だけが変に長く残っている。
好きなんです。困るくらいに。
だから、書きたくなかったんです。
優しい人が、優しいままで壊れる音を聞いた気がした。
それが今日いちばん、しんどかった。
■今回の登場人物
・影森ゆら
真正面から「なんでそこまでしてくれるの」と聞いた。返せないと分かっていても、聞かずにはいられなかった。
・鬼灯なゆ
ついに告白。ただし甘い恋ではなく、記帳官が業務でいられなくなった敗北としての告白。静かで、重い。
■今回の帳面
・金の借金
学校内で直接増減なし。けれど精神的にはだいぶ赤字。慰謝料は当然出ない。
・死の帳尻
今日は死亡追加なし。ただし“書くべき名前を書かない”歪みは、確実に積み上がっている。
・なゆの状況
かなり危険。ゆらへの特別扱いを本人が自覚し、言語化してしまった。
つまりもう、業務の顔だけでは立っていられない段階に入っている。
・白い帳面まわり
今日は帳面は開かれなかった。開かれなかったこと自体が、たぶんいちばん危うい。
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