配信85回目 知ってたの?
今日は、聞いてはいけないことの手前まで行きます。
まだ問い詰めません。問い詰めたら、もう戻れないからです。
でも、知らないふりも、たぶん今日で終わりです。
朝から、気分が悪かった。
体調が悪いとか、眠いとか、そういう一言で片づく感じじゃない。昨日、なゆさんに手首を掴まれて戻されたあの一瞬から、ずっと胸の奥に小さい棘が刺さったままだ。
なゆさんは、私にだけ少し甘い。
朔夜の事務所は、拠点であると同時に檻でもある。
急に知るには、どれも重すぎた。
「影森、今日また顔しんど」
透羽が朝一で言った。
「最近、顔合わすたび、それしか言わんなおぬし」
「だってほんとにそうだしぃー」
「ガチで寝れてないやつだよね」
幽々《ゆゆ》まで静かに追撃してくる。
るなだけが、パンをもぐもぐしながら首を傾げた。
「ゆらちゃん、今日あったかいの飲んだぁ〜?」
「飲んだ」
「じゃあ、ちょっとだけましだねぇ〜」
「その基準ゆるすぎるだろ……」
笑って返したけど、ちゃんと笑えていたかは分からない。
授業が終わって、放課後になる。るなと透羽は購買へ寄ると言って、幽々は図書室へ消えた。
私は一人で、校門の外へ出る。
そのタイミングを見計らったみたいに、自販機の横から声がした。
「お、今日もちゃんと死にそうな顔してるな」
反射で足が止まる。
「……最悪」
そこにいたのは、黒瀬 夜刀だった。
帰還者。恋愛相談のってやるよみたいなフレンドリー顔で近づいてきて、人の神経を逆なでしてくる最悪の朔夜の先輩。今日も片手に缶コーヒーを持って、やたらくつろいだ姿勢で立っている。
「挨拶が雑だわ」
「お前に丁寧にしたくなる日、たぶん一生来ない」
「つれな、で、何?」
「お前、そろそろ知りたい頃かなって」
嫌な言い方だった。
でも、否定できないのがもっと嫌だった。
「何を」
「夜見朔夜が、どこまで知ってたか」
喉がひやりと冷えた。
「……何それ」
「知りたいんだろ」
「その言い方やめろ」
「じゃあ、続けるわ――」
夜刀は薄い茶封筒を差し出してきた。
「これ、拾った」
「その“拾った”、全然信用できんし」
「大丈夫。盗んだでも奪った、どっちもだいたい似たようなもんだ」
「大丈夫じゃないでしょ」
受け取らないまま睨むと、夜刀は肩をすくめた。
「見なきゃそれでいい。でも、見なかったら今度は、知らなかったふりしてるのがお前になる」
「……」
「それもだいぶ”きつい”ぞ」
ずるい。
はらわたが煮えくりかえるほど、ずるい言い方だった。
悔しいけど、私は黙って封筒を受け取った。
「中、ここで見るなよ」
「なんで」
「お ま え、顔に出やすいんだって」
夜刀は缶コーヒーを振って、少しだけ真顔になった。
「あと一個だけ。俺は別に、あいつを悪人って決めたいわけじゃない」
「じゃあ何」
「守ると使うが、最初からきれいに分かれてたわけじゃねえって話だ」
その一言が、玻璃の声と重なった。
――似てる子はいたよ。
――同じじゃないけど。
胸の奥で、嫌な線が一本つながる。
「……帰る」
「そうしろ。んで、もっと顔色悪くなれ」
「最低」
「フ――、知ってる」
夜刀は手を振るでもなく、そのまま人混みに溶けていった。
---
事務所に着くまで、封筒は開けなかった。
開けたら、何かが戻れなくなる気がしたからだ。
夜見よろず相談事務所は今日も薄暗くて、今日も散らかっていて、今日も生活感と怪異対策が無理やり共存していた。
でも今は、その雑然さに少しだけ安心する自分がいる。
「遅い」
朔夜が机の向こうから言う。
「私は客じゃないけどさ――、せめて“おかえりゆら”くらい言えない?」
「言えるが、言いたくない」
「知ってたわ!」
ぬいがソファの背から顔だけ出した。
「ぬし、今日やたら重い匂いしとるぞ」
「それ今言う?」
「今しか言えん」
私は鞄を置いて、封筒を机の上へ出した。
その瞬間、朔夜の目が変わった。
ほんの少しだけ。
でも、見逃せないくらいにははっきり。
「……誰からだ」
「なんで」
「いいから答えろ」
「夜刀」
数秒、沈黙が落ちる。
「捨てろ」
朔夜が低く言った。
「即答なんだ」
「捨てろ」
「中身も見ずに?」
「見なくていい」
その言い方で、逆に全部分かってしまう。
「見せたくない、の間違いじゃないの」
「影森」
「見なくていい理由、言って」
朔夜は黙った。
私は封筒の口を開く。
「おい、やめろ」
「やだ」
中に入っていたのは、コピー用紙数枚と、古い写真、それから印字の薄い記録の切れ端だった。
最初は何の紙か分からなかった。
でも、二枚目で息が止まる。
そこに並んでいたのは、日付と、簡単な案件名と、短い所見。無機質な一覧。なのに、その中の単語だけが妙に生々しい。
浅層接触。
死後帰還補助。
再投入不可。
経過観察。
「……何、これ」
朔夜は答えない。
紙をめくる。
年齢欄は潰されている。名前も黒く塗られている。でも、対象の多くが若いことだけは分かる。女。未成年。学生。表記の揺れから、それくらいは読めてしまう。
写真もあった。
古いマンションの廊下。白い病室のカーテン。学校の階段。どれも、この街のどこかにありそうな場所だ。
その中の一枚へ視線が止まった。
裏側に、短い手書きがある。
**帰還補助、一度まで。以降は深度上昇につき不可。**
見覚えのある字だった。
請求書の字だ。
雑に早くて、妙なところだけ丁寧な、あの字。
「……これ」
私は紙を持つ手に力を入れた。
「これ、あんたの字」
朔夜は何も言わない。
否定もしない。
それが、何より答えだった。
「……知ってたの?」
小さく出た声は、自分でも驚くくらい乾いていた。
朔夜はようやく口を開く。
「全部じゃない」
「でも、何も知らなかったわけじゃない」
「……」
「ねえ」
私は次の紙をめくる。
そこには、赤線で消された記録があった。上から消しているのに、下の文字が透ける。
**候補性あり**
**帰還後も経過追跡**
**送り込み判断は慎重に**
候補。
その単語を見た瞬間、頭の奥で玻璃の声がした。
前にも、私みたいなの見たんでしょ。
見ていたんだ。
玻璃も。
こいつも。
「影森」
朔夜が低く言う。
「今日はそれ以上読むな」
「何で」
「今のお前には重い」
「今さら守る言い方するなよ」
声が、少し震えた。
「そういうの、もう一番だるい」
「……」
「助けたって言いながら、送ってたの!?」
「違う」
「じゃあ何!?」
朔夜は何も言わなかった。
違う。
たしかに、そうなのかもしれない。
でも今の私には、その違いを整理できるほどの余裕がなかった。
「今日はこれ以上聞かない」
私は紙を揃えながら言った。
「聞いたら、何か、壊れる気がするから」
「……そうしろ」
「でも、一個だけ分かった」
顔を上げる。
「お前、何も知らなかった側じゃないって」
「……ああ」
その短い肯定で、胸のどこかが静かに冷えていくのを感じた。
外はもう暗い。
事務所の蛍光灯は白い。
ぬいが珍しく黙っている。
いつもと同じ場所のはずなのに、机の向こうにいる男だけが、急に知らない顔になった気がした。
私はまだアイツを問い詰めない。
でも、お互いの知らないふりも、たぶん今日で終わった。
■今回の登場人物
・影森ゆら
ついに“知らなかったふり”ができなくなった。まだ問い詰めないが、不信ははっきり始まっている。
・夜見朔夜
全部は知らなかったとしても、何も知らなかったわけではない側。今回は否定しきれず、黙ることで余計に答えてしまった。
・夜刀
最悪のタイミングで最悪の封筒を持ってくる男。やり方は腹立つが、刺し方だけはうまい。
・ぬい
空気を読んで珍しく静か。こういう時だけ余計なことを言わないのはえらい。
■今回の帳面
・金の借金
直接の増減なし。ただし精神的ダメージに対する手当は当然ない。
・死の帳尻
今回は死亡追加なし。ただし“知ってしまった側”へ進んだことで、向こう側への傾きは別の意味で強くなった。
・なゆの状況
学校側の業務顔はまだ保てているが、ゆらに書かない不正を重ねた反動は確実に近い。余白はもう多くない。次以降、なゆ自身の立場も危うくなる。
・白い帳面まわり
前任記帳官の近さに続いて、今度は朔夜側の“知っていた履歴”が表へ滲み始めた。帳尻の崩れ方が、人ではなく関係そのものへ及び始めている。
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