配信82回目 玻璃が待っている場所
組織が消えても、呼び声だけは近くなる。
今回は、玻璃がいる側の静けさへ、少しだけ近づく回です。
助けるでも、連れていくでもない子が、そこに残っている理由の話。
朝の教室は、あんなことがあったとは思えないほど――、思っていたよりずっと普通だった。恐怖の夜の次は、その落差で激しく感じるのかもしれない。
窓際では誰かがプリントを回していて、後ろの席では小テストの答え合わせが始まっている。るなは机に突っ伏したまま「食べ過ぎたぁ、ねむいよぉ〜……」と溶けていて、透羽は朝から購買のパンを二つも抱えていた。
昨日、保健室で白く切れたことなんて、教室の空気は知らない顔で先へ進んでいく。
たぶん、それが普通だ。
置いていかれてるのは、私のほうだった。
「ゆらちゃん、今日ほんと顔しんどくない?」
透羽がパンの袋をぱきっと鳴らしながら、遠慮なく言った。
「朝一でそれ言う?」
「言う。だって普通に寝れてない顔してるし」
「寝れてないのは事実だけど、言われると腹立つな……」
るなが机に頬をつけたまま、のそのそ顔を上げる。
「ゆらちゃん、保健室いったほうがいいよぉ〜……?」
「そこまでじゃない」
「そこまでじゃない人は、そんな顔しないよ」
言ったのは幽々だった。
教科書を閉じて、こっちを見る。大きな声じゃないのに、その一言だけ妙にまっすぐ届いた。
「今日のゆらちゃん、ちゃんとここにいるんだけど、たまに“今そこじゃない”感じする」
「……やめて。そういう言い方されると余計こわい」
「ごめん。でも、ほんとにそう見える」
透羽も少しだけ真顔になる。
「分かる。返事はしてるのに、ちょこーっとずつ遅い時あるよ」
「二人して、人をラグい時のレインみたいに言うな」
「そこまでは言ってない」
「でも似たようなことは言ってるっしょ」
分かってる。分かってるから、余計に嫌だった。
私の中のどこかが、まだ昨日の白い切れ目に足を引っかけたままなんだろう。
授業中も、ノートを取っているつもりで何度かペン先が止まった。先生の声は聞こえている。黒板も見えている。なのに一瞬だけ、教室の音が薄くなる。
ざわざわした空気の真ん中に、自分だけ薄い膜を一枚かぶせられているみたいだった。
三回目にそれが来た時、私は机の端をぎゅっとつかんだ。
「影森、具合悪いのか?」
先生に言われて、慌てて顔を上げる。
「だ、大丈夫です」
「...無理そうなら保健室行けよ」
「はい」
大丈夫じゃない。
でも、何がどう大丈夫じゃないのか、自分でもうまく言えなかった。
―――――
放課後、るなと透羽はコンビニへ行く約束をして、幽々は図書室へ寄ると言って別れた。
「ゆらちゃんも来るぅ〜?」
「今日はやめとく。なんか、ちょっと一人で帰りたい」
「そっかぁ……じゃあ、ちゃんと帰ってねぇ?」
「子ども扱いすんな」
「今日のゆらちゃん、ちょっと目が離せないもん」
るなのその言い方が、変に胸に残った。
駅前は夕方の人波でごった返していた。信号待ちの列。ガラスに映る空。コンビニ袋を下げた会社員。どこにでもある街の帰り道。
なのに、横断歩道の向こうのビルのガラスへ目をやった瞬間、背筋が冷えた。
映っている人の流れの中に、一人だけ動いていない髪があった。
白い、長い髪。
「……っ」
振り返る。誰もいない。
もう一度ガラスを見る。今度は普通の通行人しか映っていなかった。
「やだな……」
口に出した、その時だった。
人の声が遠のいた。
信号機の電子音も、車の走る音も、一瞬だけ水の底へ沈んだみたいに薄くなる。
代わりに、ひどく近い場所で、誰かが息をした気がした。
呼ばれた、と思った。
名前じゃない。声でもない。
でも、確実にこっちを見つけられた感じだけがあった。
胸の奥がすっと冷える。足元が一歩ぶん遅れる。心臓が落ちるみたいに沈んだ。
「う、そ……」
そこで景色が傾いた。
―――――
気づいた時、私は白い椅子の並ぶ場所に立っていた。
いや、立っていたというより、立たされていたに近い。
蛍光灯みたいに明るいのに、病院とも役所とも違う。静かなくせに、静かすぎて耳が痛い。床も壁も白いのに、清潔という感じじゃない。ただ、長く色を失ったものだけが残っている場所。
知っている。
ここは、何度か来たことがある。
戻れる線と、戻れない奥の、ちょうど境目みたいな場所。
「……また、ここ」
「うん」
前を向く。
そこには――玻璃がいた。
今日も彼女はとても白くて、静かで、そこに立っているだけなのに、こっちが声を荒げるのをためらいたくなるみたいな顔をしている。
でも今日は、その静けさが少し違って見えた。
待っていたというより、ずっとここから動いていないものの静けさだった。
「来るの、少し早かったね」
「来たくて来てるわけじゃない」
「知ってる」
「知ってるなら、もうちょっと嫌そうにしてよ」
「難しいこと言うね」
私は舌打ちしたいのを我慢して、周囲を見た。
白い椅子。呼び出しを待つみたいに並んだ番号札。途中で書くのをやめたみたいな紙束。仕切り板の向こうの、見えそうで見えない奥。
今までは、ただの“待合”みたいに見えていた。
でも今日は違う。
ここに置かれたまま、順番が来なかったものが、そのまま積み上がっている場所にも見えた。
「……ねえ」
「うん」
「前にも、私みたいなの見たんでしょ」
玻璃は黙らなかった。
でも、すぐにも答えなかった。
その間が、逆に嘘じゃない感じを強くした。
「似てる子はいたよ」
「いた、で済ますんだ」
「同じじゃないから」
「どう違うの」
「戻りたがる理由が、少しずつ違う」
その答え方が腹立たしかった。
でも、怒鳴るほど間違っているわけでもないのが、もっと腹が立つ。
「じゃあ、あんたは何なの」
「わたし?」
「そう。いつも道だけ知ってる顔する。来るたびに、ここがどういう場所か分かってるみたいに立ってる。だったら、あんたは何もの?」
玻璃は少しだけ目を伏せた。
寂しいとか、困ったとか、そういう顔じゃない。もう何度も聞かれた問いに、また順番が回ってきただけ、みたいな静かな顔だった。
「わたしは連れていけない」
「……」
「帰り道が残ってるかどうか、教えるだけ」
「案内人ってこと?」
「そう。迎えじゃなくて、目印」
分かりやすい説明なのに、そのぶんだけ冷たかった。
「助けるのとは違うんだ」
「違うよ」
「じゃあ、なんで毎回ここにいるの」
「......残ってるから」
その一言が、いちばん重かった。
「待ってるんじゃないよ」
玻璃が静かに続ける。
「残ってるだけ」
私は言葉を失った。
さっき見た椅子の列と番号札と紙束が、一気に別の意味を持ち始める。
待っている場所じゃない。
待ったまま、置いていかれたものの場所だ。
「……あんた」
「うん」
「それ、ずるいよ」
「何が?」
「そんな顔で、そんなこと言うの」
玻璃は困ったみたいで、笑わなかった。
ただ、ほんの少しだけ目を細めた。
「ゆらは、まだ戻れる」
「知ってる。……たぶん」
「たぶんじゃないよ」
「じゃあ、ちゃんと言って」
「帰れる線は、まだ切れてない」
その時、遠くで何かが軋んだ。
白い空間のずっと向こう。こちら側と向こう側の境目あたりで、糸を強く引いたみたいな感覚が走る。
次に聞こえたのは、低くて苛立った声だった。
「影森。そっちを見るな」
朔夜だ。
姿は見えない。でも、声だけが細い線みたいにここまで通ってきていた。
「戻れ。今すぐ」
「命令口調やめろ!」
「返事できるなら動けるだろ」
「いや!」
「いいから来い」
玻璃が、その声のした方へ視線を向けた。
「今日は、ちゃんと引っぱってくれてる」
「……前は違ったみたいに言うな」
「前は、ゆらのほうが先にこっちを見てた」
その言い方に引っかかったけど、問い返す暇はなかった。
白い床の向こうに、細い線が見える。
朔夜が無理やり通した、“戻る側”の目印だ。
「次は、もう少し近いよ」
玻璃が言った。
「呼ばれるんじゃない。もう見つかってる」
「それ、最悪の言い方なんだけど」
「知ってる」
最後まで、玻璃は追ってこなかった。
ただ、そこに立ったまま、私が線へ足を向けるのを見ていた。
その立ち姿が、急に痛いくらい遠く見えた。
―――――
目を開けると、私は駅の連絡通路の壁にもたれて座り込んでいた。
喉が痛い。呼吸が浅い。視界の端がまだ少し白い。
目の前にしゃがみこんでいた朔夜が、心底不機嫌そうに言う。
「何分引かれてたと思ってる」
「知らない……」
「三十秒ちょい」
「短っ」
「短いから戻せた」
その言い方が、妙に頭に残った。
「……見たか」
「何を」
「お前が行った先だよ」
私はすぐに答えられなかった。
玻璃のいた場所を、待合と言っていいのか、もう自信がなかったからだ。
「……待ってる場所だと思ってた」
やっと、それだけ言う。
「でも違った。あれ、待ってるんじゃなくて、置いていかれたものが残ってる場所みたいだった」
朔夜の顔から、ほんの少しだけ軽口が消えた。
「そうかよ」
短い返事だった。
でも、それ以上は聞かない顔でもあった。
通路の端で、ひやりと空気が冷えた。
ゆっくり顔を上げる。
人混みの向こう、柱の影。白っぽいコートの裾だけが見えた気がした。
冥だ、と直感した。
次は、もっと直接来る。
そう思った瞬間、さっきまで戻ってきたはずの身体が、また少しだけ冷えた。
秋はまだ浅いのに、空気だけが先に終わりのほうへ寄っていく。
そんな感じがした。
つづく
ゆら「回数が増えるたび、何かがちゃんと近づいてきてる気がする。」
――――
■今回の登場人物
・影森ゆら
教室にいても、ちゃんと今ここに立ちきれない回でした。生きている側の音を聞きながら、浅く死後側へ引かれています。
・夜宵るな
ふわふわしているのに、こういう時だけ妙に核心へ近いことを言う子。今回の「目が離せない」は、かなり本質寄りです。
・白澤幽々
ゆらのズレを、いちばん先に言葉にした側。「今そこじゃない感じ」は、この話の入口そのものです。
・夏目透羽
軽く言っているようで、異常の遅れ方をちゃんと見ている子。ゆらの“半拍遅れ”を拾う役として効いています。
・玻璃
死後側の静かな案内人。今回は「道を教えるだけ」という役割を再確認しつつ、それでもその場に残ってしまった側の気配を強めました。
・夜見朔夜
今回は助けるというより、引き戻す側。姿は見えなくても、ちゃんと線だけは通してきます。
・白縫冥
今回はまだ裾だけ。ですが、次はもっと近いです。
■今回の話について
配信82回目は、玻璃接近回です。
これまで“死後側の案内人”として見えていた玻璃が、ただ知っているだけではなく、その場所そのものに繋がりすぎている気配を前へ出しました。
待合みたいに見えていた白い場所が、実際には「待ったまま置いていかれたもの」の場所かもしれない、とゆらが気づくことで、玻璃の切なさと本体側の不穏さが少しだけ重なっています。
同時に、蒐集を閉じても終わらないことも確認する回です。
会社や組織が消えても、呼び声は消えない。むしろ本体側だけが近づいてくる。その流れで、次回は冥がもっと直接介入してきます。
■鬼灯なゆの帳面
・正式死亡:未記帳寄り
・死後接触:加算の気配あり
・備考:今回は“呼ばれた”というより、“見つけられた”が近い
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