配信72回目 お前になれば消えない
昨日まで、ぬいはただ鬱陶しいだけの毛玉だった。
でも今日は、少しだけ違う。
離れないんじゃなくて、離れられないみたいだった。
その日の案件は、最初から空気が悪かった。
なぜなら今日は、私と顔だけはいい最悪の男、朔夜だけでなく、るなや幽々、透羽たちも一緒だったからだ。最近、配信がマンネリ化していたので、若い女性が出るとウケがいいらしい。ノリもいい透羽が、やるやる~といってバイトについてくることになった。
――本音を言えば、朔夜が、「人数が多いほうが今日は安心だ」「バイト代も増やしてやる」、といったからだけど。
ここは、古い雑居ビルの三階。テナントが全部抜けたあと、壁だけが残っているみたいなフロア。昼間なのに照明が薄く、廊下の奥だけが妙に暗い。失踪した配信者が、最後にここで「知らない声が混ざる」と騒いでいたらしい。
「うわ、普通に帰りたいわこれ」
私が言うと、朔夜は「帰っても次が来る」とだけ返した。最悪だ。
肩の上のぬいは、今日も離れない。昨日よりさらに重い。軽いくせに、存在感だけが重い。
「影森、奥を見るな」
「言われると見ちゃうだろ」
言った直後、廊下の突き当たりのガラスに、自分じゃない影が一歩遅れて映った。
「……っ」
足が止まる。
透羽がすぐ気づいた。
「ゆら、今ちょっと変」
「何が」
「声。あと、目線」
自分では分からない。でも、幽々《ゆゆ》も小さく息を呑んだ。るなは意味が分からないまま、ただ不安そうに私を見る。
その瞬間、ぬいの爪が首の奥へ深く沈んだ。
冷たい。
肩じゃない。皮膚じゃない。もっと内側、呼吸と声の境目みたいなところへ、ぬいが本気で噛みこんでくる。
「いっ、ぬい……!」
視界がぐらつく。廊下が遠のく。代わりに、ぬいの見ているものが流れ込んできた。
空腹。
居場所のなさ。
消えかけた輪郭。
ゆらにしがみつけば保てる、という汚い確信。
そして、その奥に、あまりにもまっすぐな欲望があった。
**お前になれば消えない。**
「やめろ……!」
声に出したつもりだった。でも出たのは、私の声じゃなかった。
「……いらん」
低く、掠れた、ぬいの声。
るなが後ずさる。
「ゆらちゃん……?」
透羽が一番先に動いた。
「それ、ゆらじゃない」
遅れて朔夜が札を切る。白い紙が飛び、廊下の空気がひりついた。
「ぬい、離れろ」
でも、ぬいは離れない。
むしろ私の内側へ潜る。視界の端が灰白色に染まり、耳の奥で小さな獣の息が鳴る。手の感覚が遠い。足元が浮く。呼吸が止まる。
そのまま私は、いったん落ちた。
―――――
真っ暗ではない。
布団の匂いがした。
夏の夜の扇風機の風。冷蔵庫に入ったそうめん。るなの笑い声。幽々の静かな「そっか」。透羽の図々しい軽口。朔夜の「帰るぞ」。そういう、こっち側のどうでもいい断片が、暗い底に散らばっている。
ぬいは、それを見ていた。
私の目の奥から。
私の呼吸の中から。
その全部を喰って、空にして、そこへ自分が入るつもりだった。なのに、最後の最後で手が止まる。
布団の温度だけ、壊せない。
るなの声だけ、うるさくて消せない。
朔夜の雑な言い方だけ、腹が立つのに切れない。
普通の日常の断片が、小さすぎるくせにやけにしぶとく残る。
「……なんでじゃ」
ぬいの声が、泣きそうに掠れた。
その隙に、札が燃えた。
朔夜の声が遠くから刺さる。
「戻れ、影森!」
白い線が走る。肺がひっくり返る。胸が痛い。視界が一気に戻る。
*****
「っ、は……! げほ……!」
私は床に膝をついていた。喉が裂けそうに痛い。るなが泣きそうな顔でしゃがみこんで、幽々が肩を支え、透羽が本気で青ざめている。
朔夜は私の前に立っていた。札の燃えかすが指に残っている。
ぬいは床に落ちていた。
くたっとした灰白色の塊。片耳も尻尾も力なく垂れて、見た目だけならただのぬいぐるみだ。
「……お前」
怒りが先に来た。
私は咳き込みながらぬいを掴み上げた。
「何してんだよ!」
「……」
「消えたくないのは分かった! だからって私を中から食おうとすんな!」
ぬいはぐったりしたまま、かすかに目だけ開ける。
「すまん......」
「謝って済むか!」
「それでは、済まんな」
「知ってるよ!」
そこまで怒鳴って、私は息を切らした。
捨てたい。
今すぐ投げたい。
でも、指が離れない。
ぬいは小さい。本当に弱っていて、今にも消えそうで、それでも最低なことをした。
その両方があるから、余計に腹が立つ。
朔夜が低く言った。
「今日は連れて帰る。切り離しは後だ」
「後っていつだよ」
「お前がもう少しまともな時」
「毎回それ!」
でも反論しきれないくらい、まだ胸が痛かった。
ぬいは私の手の中で、ほんの少しだけ震えた。
「……消えとうなかっただけなんじゃ」
「まずは相談しなよ、そ・う・だ・ん」
私はそう言って、結局、ぬいを放れなかった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
今回は、夜刀に刺されたあとの余波を引きずったまま、ぬいの異常な密着と、とうとう乗っ取り未遂まで行く回でした。
大きな怪異そのものより、**いつもの相棒枠が、ちょっとずつ“そっち側”へ寄ってきている**嫌さを優先しています。
ぬいは今回、はっきり「消えたくない」側の本音を出しました。
でも、その本音がそのまま可哀想にはならず、きっちり最悪の形で出てくるのが、この毛玉の厄介なところです。
ゆらにとっては腹が立つし怖いし捨てたいのに、完全には放れない。
そのぐちゃっとした関係ごと、次回もう少し悪化します。
■今回の登場人物
・影森ゆら
ぬいに深く噛みこまれ、一瞬だけ境界の底へ落ちた主人公。怒るのが正しいのに、最後まで完全には放れない。相談しなさいと優しくしかる。
・夜見朔夜
現場でぬいの異常な噛みこみに気づき、即座に引き戻した怪異相談屋。切り離しは危険と判断し、今回は観察と保留を選んだ。
・ぬい
今回の本命。朝から異常に離れず、現場ではついにゆらの中へ入ろうとした。最後に漏れた「消えとうない」は本音だが、やり方が最悪すぎる。
・夜宵るな
ぬいの異常な機嫌の悪さに最初に触れた親友。今回は見えないなりに、ゆらの“いつもと違う”をちゃんと怖がっている。
・夏目透羽
「それ、ゆらじゃない」と最初に言い切った子。見えていないはずなのに、ズレた瞬間だけは妙に正確。
・白澤幽々《ゆゆ》
静かにゆらを支え、場の空気の悪さを受け止める側。今回は騒がないぶん、いちばん早く危険の深さを理解している。
■今回の帳尻
・金銭帳尻
軽案件の処理費は通常運転。高額呪具の新規消費はなし。ただし、ゆら側の不安定化により今後の維持コストは上がりそう。
・死の帳尻
鏡案件中に一瞬だけ境界へ落ちる形で、軽い死亡/仮死寄りの停止あり。朔夜の即時引き戻しで帰還。
・境界記録局四課・帳面書き
対象:影森ゆら
今回処理:浅い死亡接触一回
備考:ぬいによる霊体側への深部干渉確認。通常怪異接触とは別ラインの危険として要注意。
・鬼灯なゆの状態
今回直接の登場なし。
ただし、ゆらの死亡接触が続いているうえ、記帳対象に**ぬい由来の深部干渉**まで重なったため、四課側の帳尻処理負荷はさらに上昇。前話までの未記帳・猶予分も含め、なゆ側の余白はかなり削られている想定。
・構造帳尻
ゆらが危ない、だけではなく、ぬいがゆらへしがみつかないと危ない段階へ入りつつある。依存と寄生の境目が、かなり嫌な形で崩れ始めている。
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