配信71回目 ぬいが離れない
昨日、私は川で一度ちゃんと死んだ。
戻ってきたはずなのに、今日は朝から何かが近すぎる。
しかも、その“何か”は、ずっと肩の上にいる。
翌朝、ぬいは最初から機嫌が悪かった。
――いや、機嫌が悪いというより、妙に私との距離が近い。
枕元。顔の横。歯を磨こうと洗面台へ行けば肩。制服に着替えようとすれば鞄の中。視界のどこかに必ず灰白色の毛玉がいる。しかも今日は、こっちが「暑いから離れろ」と言っても、ほとんど動かない。夏だぞ、今は。
「……なんなの、今日」
私は鏡越しにぬいを睨んだ。
ぬいは洗濯機の上に座ったまま、へたれた片耳だけぴくりと動かす。
「暑いんじゃ」
「じゃあなおさら離れろ」
「暑いのと離れたくないのは別じゃ」
「その返し初めて聞いたんだけど。てか今真夏なんですけど?」
昨日の川原から、ずっとこうだ。
夜刀に会って、最後の保険札まで失って、そのまま帰って寝た。寝たはずなのに、眠りは浅かった。川の匂いがまだ喉の奥に残っている。喉だけじゃない。胸の奥、目の裏、足首のあたりまで、まだあの“席に合わせられた”感触が残っていた。
なのに、その上からぬいまで張りついてくる。
正直、だいぶしんどい。
学校へ着いても、ぬいは離れなかった。
机の中に潜り込み、昼休みには膝の上、移動教室では鞄の持ち手にしがみついてくる。周りには見えない存在(ぬいが見せようとしない限り)だからまだいいけど、見えていたらだいぶ怪しい女であることは間違いないだろう。
「ゆらちゃん、今日のぬい、機嫌わるいねぇ〜」
るなが私の肩越しを見ながら言った。
「機嫌っていうか、なんか離れない」
「甘えてるんじゃなぁい〜?」
「そんな可愛い理由なら助かる」
透羽が前の席から身をひねる。
「いや、それ甘えじゃなくない? なんか……貼りついてる感じ」
「貼りつくって言うな」
「でも今日のぬい、近すぎるじゃん。ビジュはぬいぐるみなのに中身だいぶ怖い」
「急に褒めて落とすな」
幽々《ゆゆ》は私の鞄の口を見て、ぼそっと言った。
「怒ってるんじゃないと思う」
「じゃあ何」
「......焦ってる」
その一言が、スンと、胸に入ってきた。
るなが何気なく私の肩のあたりへ手を伸ばす。
「ぬい、おいでぇ〜?」
その瞬間だった。
ぬいが、ほんとうに珍しく低く唸った。
「……っ!」
るなの手が止まる。
「え」
「ごめん、るな。今日たぶん触らないほうがいい」
「えぇ〜? ぬい、るなのこと嫌いになったぁ〜……?」
「そういう感じじゃない」
透羽がぬいを見たまま言う。
「近づけたくないんだと思う」
ぬいはそれを否定しなかった。
ただ私の肩口へ、爪だけ少し深く立ててきた。
―――――
「で、なんで放課後に、こいつ連れて事務所来てんの私」
夜見よろず相談事務所のドアを開けた瞬間、私はそう言った。
朔夜は机の上の書類を見たまま、面倒くさそうに答える。
「離れないなら連れてくるしかないだろ」
「もっと他に言い方ない?」
「ない」
「あるだろ普通に」「ゆら大変だねとか」「バイト代増やしてあげようか?とか」
「暑さでバカになったかお前」
「うるさい!暑いんだよ」
「とにかく仕事だ」
今日は軽案件だった。
古いマンションの一室で、「鏡越しにだけ位置がずれる」。立っている場所は変わってないのに、鏡の中では肩ひとつぶん横へずれる。笑って済ませるには気味が悪く、命に関わるには弱い。そういう、ちょうど嫌な案件。
だからこそ、ぬいの異常がよく目立った。
現場は六畳ほどの部屋だった。白い壁。安いカーテン。生活感の薄い一人暮らし用の部屋。正面の姿見だけがやけに大きくて、入った瞬間からぬいの毛が逆立った。
「やだ、なんか今日いつもより分かりやすく嫌」
「感度が上がってる」
朔夜が短く言う。
「影森、鏡の前」
「なんで毎回私が」
「いちばんズレを拾いやすいから」
「その適性ほんといらない」
しぶしぶ鏡の前に立つ。
映った私は、ちゃんと私だった。濡れてない制服。少し顔色の悪い女子高生。肩には灰白色のぬい。そこまではいい。
でも、瞬きをした瞬間、鏡の中の私だけが半歩ぶん横へ滑った。
「……っ」
ずれた。
身体じゃない。像だけが、ぬる、と横へ行く。
「見た」
「どれくらいだ」
「肩ひとつぶん」
「十分」
朔夜が札を取り出そうとした、その前だった。
ぬいがいきなり私の首元へ食いこんだ。
「いっ……!」
痛いというより、冷たい。爪が皮膚へ刺さったんじゃない。もっと内側、霊体の輪郭みたいなところへ、ぬいの気配が深く噛みこんでくる。
その瞬間、視界が反転した。
鏡の部屋じゃない。
匂いが先に来る。湿った布。古い毛。獣じみた飢え。消えかけたものが、自分の形を保つために必死で何かへしがみついている、そういう温度。
「……な、に、これ」
見えたのは、ぬいの見ている世界だった。
人の形は輪郭じゃなく“居座り方”で見える。部屋の中の鏡は、ただのガラスじゃなくて“消えそうなものが映りたがる穴”に見える。私の身体は、白くて温かくて、しかも今ちょっと壊れやすい、ものすごく都合のいい足場みたいに見えた。
気持ち悪い。
「影森!」
朔夜の声が遠い。
呼吸が止まる。
鏡の前に立っていたはずなのに、足元が一瞬なくなった。川でもないのに、水に落ちる直前みたいな浮遊感が来る。心臓がひゅっと縮んで、そのまま息が抜けた。
「っ、は――」
出ない。
世界が一瞬だけ無音になる。
そこで、たしかに私は落ちた。
*****
次に息が入った時、私は床に膝をついて咳き込んでいた。
「げほっ、げほ……!」
胸が痛い。喉も痛い。しかも、肩にまだぬいがいる。
「お前、何した……!」
半泣きで怒鳴ると、ぬいは珍しく言い返さなかった。
朔夜がしゃがみこみ、私の顎を持ち上げて瞳を確認する。触り方は雑なのに、目だけ冷静だ。
「……噛み込みが深い」
「そういうの先に言えよ」
「今言ってる」
「切れよ!」
「今は剥がすな」
即答だった。
「は?」
「無理に切ると、お前の霊体側まで裂ける」
「じゃあどうすんの」
「様子を見るしかない」
「一番聞きたくないお医者の台詞なんだけど」
朔夜は眉を寄せたまま、ぬいを見る。
ぬいは私の肩から降りない。降りないどころか、いつもより小さく丸まって、私の首元へ額を押しつけていた。
それが妙に、怯えている生き物みたいで、余計に腹が立つ。
「……なんなの、ほんと」
案件自体は、そのあと朔夜がさっさと片づけた。
鏡のズレは封じられ、依頼人は泣きそうな顔で何度も頭を下げて、部屋は普通の嫌な部屋へ戻る。
でも私の中では、そっちよりぬいのほうがよっぽど問題だった。
―――――
帰り道、ぬいはまた黙っていた。
夜の風は少しぬるい。昼の熱を引きずったアスファルトの匂いがする。私は喉の違和感と肩の重みを抱えたまま、ひたすら不機嫌だった。
「……今日のあれ、何」
ようやく聞くと、ぬいは私の肩の上で耳を伏せた。
「暑い」
「今さらその言い訳する?」
「鏡が嫌い」
「知ってる」
「水辺も嫌いじゃ」
「それも知ってる」
少しだけ沈黙が落ちる。
街灯が一本、私たちの影を長く伸ばした。
その影の中で、ぬいの輪郭だけが少し薄い。
「……離れたら消えそうなんじゃ」
かすれた声だった。
独り言みたいで、でもちゃんと私へ向いている。
「は?」
「おぬしが、ではない」
ぬいは低く言う。
「わしがじゃ」
言葉が止まる。
ぬいは、しばらく黙ったあと、ほんとうに小さな声で続けた。
「消えとうない」
それは、ぬいにしてはあまりにもまっすぐな本音だった。
いつもみたいな小悪党ぶった言い方じゃない。面倒くさい言い回しも、偉そうな語尾もない。ただの、消えたくない、だった。
私はしばらく何も言えなかった。
腹は立つ。
怖い。
でも、それだけでもない。
こいつが今しがみついているのは、たぶん私を失いたくないからでもあるし、私にしがみついてないと自分が消えるからでもある。その両方が混ざっている。
最低だ。
でも、分かりやすく最低なだけじゃないぶん、余計に嫌だった。
「……それで、私の中に爪立ててくるの、だいぶ迷惑なんだけど」
「すまん」
「素直に謝れたの初めてじゃない?」
「たぶんの」
少しだけ、笑いそうになった。
でも、笑ったら何かを許したことになりそうで、やめた。
夜の街は、昨日までと同じ形をしている。
なのに私はもう、同じじゃないものばかり見つけてしまう。
そして肩の上のぬいは、今日だけは本当に離れなかった。
つづく
ここまで読んでくださってありがとうございます。
今回は、夜刀に刺された翌日の余韻を引きずったまま、ぬいの異常な密着と変質を前へ出す回でした。
大きな怪異よりも、「いつもの相棒みたいな存在が、ちょっとずつ違ってきている」ほうの嫌さを優先しています。
ぬいはもともと小悪党で、助けにも迷惑にもなる存在ですが、今回はかなりはっきり“消えたくない側”の本音が漏れました。
その本音が可愛いかというと、たぶんそう簡単でもなくて、しがみつき方そのものがだいぶ危ないのが、この回の嫌なところです。
次回はこのまま、ぬい側の問題がもう少し露骨に前へ出てきます。
たぶん、また軽くは済みません。
■今回の登場人物
・影森ゆら
川の死の余韻を引きずったまま学校と事務所を往復する主人公。今回は鏡案件の途中で、ぬいに深く噛みこまれ、一瞬だけまた死んだ。
・夜見朔夜
現場でぬいの異常な噛み込みに気づいた怪異相談屋。切り離せないと即断したぶん、今回は対処より観察寄りの立ち位置になった。
・ぬい
今回の主役。朝からゆらへ貼りつき、現場では霊体側へ深く噛みこんだ。最後に「消えとうない」と本音を漏らしたが、かわいそうだけでは済まない危うさがある。
・夜宵るな
昼休みにぬいの機嫌の悪さへ最初に気づいた親友。今回も日常側の空気を保っているが、ぬいには珍しく拒まれた。
・夏目透羽
「貼りついてる感じ」と、ぬいの異常な近さを言い当てた転校生。見えていないはずなのに、ズレた部分だけは拾ってくる。
・白澤幽々《ゆゆ》
「怒ってるんじゃなくて焦ってる」と、ぬいの状態を一番正しく言語化した子。今回も静かに核心へ触れている。
■今回の帳尻
・金銭帳尻
軽案件の処理費は通常運転。新しい高額呪具の消費はなし。ただし、ゆらの状態悪化により今後の維持コストは上がりそう。
・死の帳尻
鏡案件中に一瞬だけ境界へ落ちる形で軽い死亡/仮死寄りの停止あり。朔夜の即時引き戻しで帰還。
・境界記録局四課・帳面書き
対象:影森ゆら
今回処理:浅い死亡接触一回
備考:ぬいによる霊体側への深部干渉確認。通常怪異接触とは別管理が必要な可能性あり。
・構造帳尻
ゆらが危ないのではなく、ぬいがゆらにしがみつかないと危ない段階へ入りつつある。依存と寄生の境目が崩れ始めている。
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