配信60回目 『ここにいろ』
全てが白い――。
目を開けているのか閉じているのかも、よく分からないまま、その”色”が最初にあった。
――静かだった。
静かすぎて、耳の奥が静けさに沈み、逆に痛くなるくらい、何もない。駅の音も、高架の唸りも、街中の雑音も、るなの声も、全部が薄い膜の向こうへ退いている。そのくせ、嫌な静けさではないのが最悪だった。
もう、頭痛はない。
息も、さっきまでより少しだけ楽になっていた。
「ああ、そうか」と思ってしまう。
ここなら、しんどくないのかもしれない、と。
その考えが浮かんだ瞬間、自分で自分に寒気が走った。
楽だから何だ。
静かだから何だ。
そんなもので、こっち側を手放していい理由になるわけがないのに。
白い通路の奥で、紙をめくる音がした。
「影森ゆら」
さっき呼ばれた声の残響が、まだ空気の中に残っている。
番号札が並ぶ扉。薄い床。輪郭の曖昧な光。ここはやっぱり“死後側”に近いのだと、嫌でも分かった。
「……また来たの?」
玻璃の声だった。
振り向くと、少し離れたところに彼女がいる。いつも通り静かで、白い場所にいるくせに、こっちの白さとは少し違う輪郭を持っていた。
「来たくて来たわけじゃないんだけど」
「うん。今はそうだね」
「今は、って何」
玻璃はすぐには答えなかった。
代わりに、私の向こう側――現実のほうを、透かして見るみたいに目を細める。
「静かでしょう、ここ――」
その言葉に、胸の奥が冷える。
静かだ。認めるしかない。
痛くないし、うるさくないし、しんどくない。借金も請求書も、説明不足の美形クズも、怪異も、死ぬたびに削られる帳面も、今だけは全部遠い。
でも。
「ここ……静かすぎる」
自分の声が、妙に小さく響く。
「そうだね」
玻璃は頷いた。
「ここは、静かなだけ。生きてる側の静けさじゃない」
その言い方が、変に胸にとどまった。
静かなだけ。
それは救いではない。休止だ。停止だ。輪郭が削れて、痛みも騒がしさもなくなる代わりに、自分が誰なのかまで薄くなるほうの静けさ。
それなのに、身体のどこかはまだそこへ寄りかかりたがっている。
最悪だった。
向こう側から、現実の声が滲む。
『対象の自発的移行を確認――』
針目結だ。
あの営業スマイルのまま、こんな時まで“対象”とか“移行”とか言っているのかよ、と思うと、吐き気がするのと同時に、少し笑えてきた。
『ほら、やっぱり届く』
夜刀の声も混ざる。
嬉しそうなのが本当に腹立たしい。
『俺の見立ては間違ってなかった』
黙れ、と思う。
思うのに、現実のほうへ向かってうまく声が出ない。白い側が私の声を薄めていく。
その時、不意に、強い声が割り込んだ。
「影森!」
朔夜だ。
それだけで、少しだけ足元が揺れた。
「こっちを見ろ!!」
見たくなかった。
見たら、そちらへ引き戻される気がしたから。
でも、引き戻されたいはずなのに、今の私はそれを少しだけ嫌がっている。そのことがたまらなく気持ち悪い。
『無理に引っ張る必要ないだろ、朔夜』
夜刀が笑う。
『本人が帰りたがってる』
「黙れ」
朔夜の声が低く落ちた。
『帰りたいのは事実だろ』
「お前が口を挟むな」
そのやり取りの向こうで、るなの泣きそうな声がした。
「ゆらちゃぁん……! やだよぉ……!」
幽々《ゆゆ》も、珍しくはっきり叫ぶ。
「そっちに行っちゃダメ! 戻って!」
ぬいの怒鳴り声まで混じる。
「娘っ子! そこで楽になるな! あとで絶対ろくでもないからの!」
「説得の言葉が雑なんだよ、お前は……!」
やっと声が出た。
自分のものとして出た声だった。少しだけ、現実が近づく。
その瞬間、白い通路の静けさがほんの少し剥がれる。
剥がれて、その奥にあるものが見えかけた。静かで優しいんじゃない。ただ、薄いのだ。痛みも息苦しさもなくなる代わりに、自分の怒りも、未練も、好きも嫌いも、全部が平たく削られていく。
ここにいたら、私はきっと、私じゃなくなる。
心底『怖い』、と思った。
今までさんざん、あのイケメンクズに突き合わされて怖い目に合ってきたはずなのに。その中でも、この静けさの中にいる自分が、一番怖くなっていた。
その怖さの上から、朔夜の声がもう一度届く。
「帰ってこい」
短い。
いつもみたいな説明も、術式名も、理屈もない。
ただ、それだけの言葉だった。
それだけなのに、胸の奥がひどく痛む。
「……何それ」
ようやく絞り出すと、現実の朔夜は少しも譲らない声で返した。
「行くな」
白い側が、また少し揺れる。
針目の声が遠くから入ってくる。
『夜見さん。対象の意思が――』
「黙ってろ....」
朔夜は針目の言葉を、バッサリと切り捨てた。
「影森」
呼ばれる。
「そこは、お前の帰る場所じゃない」
帰る場所。
その言葉に、胸の中で何かが大きくぶつかった。
帰りたい、と私は確かに思っていた。しんどい。疲れた。もう嫌だ。静かなほうが楽だ。その気持ちは、全部ほんとうだ。
でも、帰る場所かと問われたら、違う。
ここは、楽なだけだ。
静かなだけだ。
私が怒ったり、笑ったり、るなに振り回されたり、幽々に刺さることを言われたり、ぬいに腹立てたり、朔夜に請求書を突きつけられたりする、その全部がある場所じゃない。
生きてる側の、面倒でうるさくて、でもたしかに息をしている場所じゃない。
白い通路の奥で、番号を呼ぶ気配がまた近づく。
そこで、朔夜が言った。
「ここにいろ」
短かった。
短いのに、その言葉だけで、変に分かってしまう。
“ここ”は、事務所かもしれない。
現世かもしれない。
私が借金まみれで働かされてる、最悪のブラックバイト先かもしれない。
でも、それだけじゃなかった。
今この人は、使えるから戻ってこいと言っているんじゃない。
回収されたら困るからでも、案件に必要だからでもない。そういう理屈を、今だけは全部抜きで言っている。
ここにいろ。
その温度だけが、白い側よりよほど痛くて、よほど生きていた。
「……勝手に決めるな」
言う。
言い返さないと、何かが決壊しそうだった。
「でも」
息を吸う。
白い空気じゃなく、向こう側の、うるさくて埃っぽい現実の空気を。
「まだ、終わりたくない」
るなの泣きそうな顔が浮かぶ。
幽々の静かな声も、ぬいの悪態も。
そして、朔夜の、あの焦った顔。
「借金もあるし」
言った瞬間、ぬいが向こうで「今、そこか!」と怒鳴った気がした。
それでも、少し笑いそうになる。
「るなもいるし、幽々もいるし……」
喉が詰まる。
それでも最後だけは、ちゃんと言わなきゃいけない気がした。
「……あんたに、ちゃんとぜぇーんぶ、説明させるまでは、まだ死ねない!」
その瞬間、白い通路の輪郭が崩れた。
静けさが裂ける。
番号札が遠のく。
足元が抜けるんじゃなく、逆に現実の重さが一気に戻ってくる。
誰かが私の手を掴んだ。
今度は、私も掴み返した。
朔夜の手首は、思ったより熱かった。
―――――
地面の感触が戻る。
高架下のコンクリート。夜の湿った空気。遠くを走る車の音。自販機の白い光。うるさい。重い。現実だ。
膝から崩れ落ちて、私は何度か咳き込んだ。
白い側にいた時には消えていた頭痛も、喉の渇きも、全部まとめて戻ってくる。
「っ、いっ……た……」
「痛いなら生きてるってことだ」
朔夜が言う。
「言い方!」
言い返した瞬間、るなが泣きそうなまま、私の胸に飛びついてきた。
「ゆらちゃぁん……!」
「ぐえっぇぇ、待って、今ちょっと内臓の位置が信用できない……!」
「ほんとに、ほんとぉによかったよぉ……!」
幽々がその後ろで、大きく息を吐く。
「……戻った」
「戻ったよ……たぶん……」
ぬいが、私の肩へよじのぼってきて偉そうに鼻を鳴らした。
「まったく、手のかかる娘っ子じゃ」
「お前、さっき借金のくだりで一番うるさかっただろ、聞こえてたんだからな!」
「大事な現世的事情じゃからの」
そのやり取りの少し向こうで、針目が肩をすくめた。
「今回は失敗でしたか」
「“今回は”ってつけるなよ」
「正式手続きが失効したわけではありませんので」
にこやかすぎて腹が立つ。
夜刀は、高架の柱にもたれたままこちらを見ていた。悔しがるでもなく、むしろ少し面白そうだ。
「やっぱり、戻ってこれるんだね」
「うるさい」
「でも、次はもっと近くなるよ――」
「縁起でもない予告すんな!バーカ!」
夜刀は小さく笑って、夜の影へ溶けるように消えていった。
針目も一礼だけ残して引いていった。
あいつらが完全に諦めたわけじゃないのは分かる。回収命令も、向こう側の引力も、何ひとつ終わっていない。
それでも今は、私はまだこっちにいる。
―――――
事務所へ戻った時には、空が少しだけ白み始めていた。
ソファへ座り込む。全身が鉛みたいに重い。
真琴さんは黙って温かい飲み物を置いてくれた。ありがたすぎる。
しばらく誰も話さなかった。
ぬいだけが丸くなって、珍しく静かだった。
私は紙コップを両手で包みながら、朔夜を見る。
「……今の」
「何が」
「“ここにいろ”」
朔夜は露骨に嫌そうな顔をした。
「聞こえたならそれでいい」
「よくない。説明不足」
「知ってる」
「次、全部話して」
「全部は無理だ」
「じゃあ半分だけでいいよ」
ぬいが目も開けずに言う。
「欲張るのう、おぬしは」
「うるさい」 ぬいの頭をつかんでソファーに押し付けた。
返す声に、少しだけいつもの調子が戻る。
借金は消えていない。
回収命令も残っている。
帳面の余白も、もうない。
白い側の通路も、まだ完全には切れていないのだと思う。
それでも。
紙コップ越しの熱が、指先にちゃんと残っている。るなの泣き顔も、幽々の低い声も、ぬいのうるささも、朔夜の説明不足も、全部まとめて現実の重さだった。
しんどい。面倒だ。最悪だ。
でも、今だけは、その最悪さにちゃんと息が通っている。
私はまだ、こちら側で生きていた。
2章・完




