配信54回目 ぬいの話 ――巻き戻せないテープ
前回の続きです。
今日は毛玉の話です。
たぶん少しだけ、不憫です。
翌朝の事務所は、ひどく空気が悪かった。
理事長が帰ったあとの静けさが、そのまま古い机や機材の隙間へ沈み込んだみたいで、書類の紙臭さも、配信機材の熱も、いつもより少しだけ重い。
真琴さんは朝から同期ズレのログを洗い直し、朔夜は露骨に機嫌が悪く、ぬいまで妙に静かだった。あの小悪党が丸まったまま喋らないせいで、逆に落ち着かない。
「……全員、湿った煎餅みたいな顔してる」
そう言った直後だった。
立ち上がった視界が、急に白く飛ぶ。
「え」
床が遠いのか近いのかも分からない。次の瞬間には腰が抜け、そのまま事務所の床へ崩れ落ちていた。頭を打つほどじゃない。なのに息だけが、妙にきれいに止まる。
「影森」
舌打ちが聞こえた。
紙の擦れる音。冷たい指先。低い声。
「”収益変換”」
「”位相固定”」
胸の奥へ無理やり火を押し込まれたみたいに熱くなって、私は大きく咳き込んだ。
「がっ、げほっ……!」
肺へ空気が戻る。喉の奥が焼けるみたいに痛くて、視界の端では星が散った。
「……今、死んだよね!?」
「短期でな」
「勤務時間の区分みたいに言うな!」
半泣きで怒鳴ると、朔夜は心底うるさそうに眉を寄せた。
「前回の失血が思ったより残ってる。勝手に立つな」
「先に言え!」
「今言った」
その返しにさらに文句を言おうとした瞬間、事務所のベルが鳴った。
いやな予感しかしない。こういうタイミングで来る客に、まともなやつはいない。
朔夜が扉を開けるより先に、私は相手が誰か分かった。
「おっ、生き返っとるやない」
「おいてめぇ、いい加減にしないと殺すぞ」朔夜が言う。
開口一番、それだった。
扉の向こうに立っていたのは、いつも通り胡散臭い柄シャツにくたびれたジャケット、頭に細いサングラスを引っかけた銭原呪助だった。
見た目だけなら陽気な中古屋の兄ちゃんで通りそうなのに、やってることはだいたい最悪。前に情報を売って毛玉騒動を起こし、結果として蒐集商会までこっちへ寄せた張本人である。
「最低だな、ほんと」
「そこまで言うか、お嬢ちゃん」
「言うよ! 言うに決まってんでしょ!」
私が怒鳴ると、銭原は肩をすくめた。
「まあ、妥当やな。今日は文句言われに来たっちゅうより、尻拭いの入口ば持ってきた」
そう言って、机の上へ二つ置く。
一本の古いVHSテープ。
それと、紙の目玉みたいな奇妙な札。
「……何それ」
「《紙眼》や。原版に残った視線ば拾う」
「名前だけは格好いいんだよな、毎回」
「そこ褒めるとこやぞ」
「名前負けしかしてないからな、大体」
褒めてない。
銭原はそこで、机の端に丸まっていたぬいへ視線を落とした。
「……あの毛玉の出所、知っとるか?」
ぬいの耳が、ぴくりと動く。
「知らぬ」
「即答だな」
「知らぬもんは知らぬ」
でも、声が少しだけ固かった。
事務所の古い棚からVHSデッキを引っ張り出し、真琴さんが手際よく配線を繋ぐ。砂嵐みたいなノイズのあと、ざらついた映像が出た。
暗い倉庫だった。
棚。
段ボール。
封札の貼られた箱。
湿った床。
誰かの息遣い。
手ぶれの強いカメラ。
「蒐集商会の保管庫……?」
「今みたいに綺麗な組織ぶっとらん頃の、もっと雑な裏やな」
銭原がそう言う横で、私は画面を凝視する。
最初は何も分からなかった。ただ、古い箱と棚が映っているだけに見える。けれど真琴さんが巻き戻し、一時停止し、もう一度頭から流した瞬間、小さく息を呑んだ。
「……いた」
棚の下。
灰色の、小さな塊。
「え、ぬいって昔から毛玉だったの?」
「違う。たぶん」
「そこで曖昧になるな」
「わしにも事情がある」
さらに巻き戻す。
今度は箱の上。
もう一回見ると、カメラのすぐ後ろ。
映像の端にずっといる。けれど、毎回少しずつ位置が違っていた。
真琴さんが淡々と言う。
「棚から落ちた綿埃にも見えますが、移動量が説明できません」
「綿埃のほうが、よっぽど素直やろ」
銭原の軽口に、誰も笑わない。
私は腕を組んだ。
「これ、前のぬいコピー騒動と関係ある?」
「あるやろな」
「断定しろ」
「断定すると高うつくぞ」
朔夜が舌打ちする。真琴さんが代わりに言葉を継いだ。
「ぬい本人が増殖したというより、原版側に残っていた“ぬいに似た残滓”が複写みたいに漏れた、と考えるほうが自然です」
原版。複写。残滓。
嫌な単語ばかり並ぶ。
「で、お前ほんとは何なの」
私がそう聞くと、ぬいはしばらく黙った。
いつもなら、そこで偉そうに「高位霊獣じゃ」と返すはずなのに、今回は違った。画面の中の毛玉を見たまま、へたれた片耳だけを少し伏せる。
「……狭かった気はする」
「は?」
「棚の下みたいなとこじゃ。暗うて、巻き戻しの音ばっかりして、たまに強い光が差す。……あと、声」
そこで言葉が切れる。
「どんな声」
「“まだ使える”とか、“捨てるな”とか。そういうやつじゃ」
事務所が静かになる。
「箱におったんか、画面におったんか、そこが曖昧なんじゃ。気づいたら、もうおった」
私は、何も言えなかった。
それは生まれた、というより。
誰かが残してしまった、に近い。
銭原が、妙に静かな声で言う。
「毛玉が生まれたんやない。残ったんや」
「……」
「録ったもん、閉じたもん、捨て損ねたもん。そういう残り方には値がつく。あれは怪異っちゅうより、“処分されんかった記録”に近か」
最悪の言い方だった。
最悪なのに、妙にしっくり来てしまうのがもっと最悪だ。
「不燃ごみみたいに言うなよ……」
「わしは、不燃ごみではない!」
「そこだけ元気か!」
私が怒鳴った瞬間、真琴さんが画面を止めた。
「待ってください。最後、何かいます」
テープの終端近く。
ノイズの奥、棚の間。
灰色の毛玉とは別に、細い人影みたいなものが立っていた。こっちを見ているのか、毛玉を見ているのか分からない。ただ、いる。確かにいる。
「……これ、毛玉だけのテープじゃないよね」
「はい。そこが問題です」
真琴さんの返事が、やけに冷たく響いた。
ぬいは、その影を見たまま固まっている。いつもの小悪党っぽい顔じゃない。何かを思い出しかけて、それでも届かない時の、妙に静かな顔だった。
理事長。
同期ズレ。
蒐集商会。
そのうえ、毛玉の出所まで過去の記録側から絡んでくる。
ほんとに、ろくでもない。
でも、たぶん。
この小さくて偉そうなやつは、最初から好きに小悪党をやっていたわけじゃない。
そう思った時点で、少しだけ腹立たしかった。情が移ると、ろくなことにならないのに。
■今回の登場人物
・影森ゆら
前回の失血が尾を引いて、冒頭で短く死んだ。今日も勤務扱いである。もちろん時給は300円だ。
・夜見朔夜
顔はいいが性格と雇用環境は最悪な怪異相談屋。今回も即座に蘇生したが、たぶん請求はする。
・銭原呪助
情報漏洩と毛玉騒動の元凶。謝罪より先に、尻拭いの入口と厄介な真実を持ってきた男。
・ぬい
ぬいぐるみみたいな見た目の小悪党。今回は少しだけ、自分の“過去”に触れた。
・毒島真琴
実務担当。こういう回で淡々と怖いことを言う役。
■今回の話の解説
今回は、理事長回の直後に入る“ぬい回”です。
銭原が持ち込んだ古いVHS記録から、ぬいが単なる下級寄生霊獣ではなく、「録られたもの」「閉じられたもの」「捨て損ねたもの」の残滓かもしれない、という輪郭を出しました。
同時に、49話の毛玉コピー騒動も、ぬい本人ではなく“原版側の残り方”から漏れた可能性が示唆されています。
最後に映った人影は、ぬいの過去だけでは済まない不穏の種です。次は、その“毛玉だけではない記録”が問題になってきます。
読んでいただきありがとうございます。
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