配信52回目 理事長が会いに来た【前編】
昨日、死んだあとに「次は戻れないかもしれません」と言われました。
その翌朝に来たのが、いちばん丁寧で、いちばん嫌な客です。
たぶん今回、戦う前から空気が終わってます。
封筒は、朝になっても机の上にあった。
白くて、上質で、この終わってる事務所のどこにも似合わない。積みっぱなしの書類や空き缶や、真琴さんが夜通し回していた解析ログの横で、それだけが妙に整って見えるせいで、視界に入るたび腹が立った。
「それ、捨ててないんだ……」
思わずそう言うと、ソファで端末を見ていた夜見朔夜が、面倒くさそうに片目だけ上げた。
「捨てたところで終わる相手じゃない」
「言い方。もうやだ」
「俺も嫌だ」
それだけ言ってまた朔夜はパソコンの画面へ戻る。いつも機嫌が良いわけじゃない男だけど、今日は明らかに温度が低かった。
なゆに「次は戻る前提が壊れるかもしれない」と言われた直後なのもあるし、そのうえ蒐集商会の理事長室から、あんな気持ち悪い文面が届いたのだから当然かもしれない。
私は机の端へ寄りかかり、もう一度その紙を見る。
”影森ゆら様の今後について、ぜひ一度ご挨拶を差し上げたく存じます。建設的なお話が可能です。”
「建設的って何。人を勝手に工事計画みたいに言うなよ……」
キーボードを叩いていた毒島真琴さんが、画面を見たまま淡々と返した。
「交渉の定型文でしょうけど、内容が内容なので普通に最悪ですね」
「真琴さん、その言い方ちょっと好き」
「好きにならないでください。状況は最悪ですよ」
机の端では、ぬいが珍しく静かだった。毛玉みたいな体を丸めたまま、封筒にだけ鼻先を向けている。
「……来る匂いじゃ」
「何それ」
「もう来るつもりの匂いじゃ。呼ぶとか待つとか、そういう段階を過ぎとる」
やめてほしい。
朝から聞きたくない情報ランキングの上位だ。
私は反射で事務所の扉を見た。古い雑居ビルの二階、安っぽいプレート、薄暗い廊下、半分死んでる蛍光灯。いつもなら胡散臭いだけで済む景色なのに、今日はその向こうに“ちゃんとしたもの”が来る感じがして、逆に落ち着かなかった。
「……朔夜」
「何だ」
「閉めとけば?」
「閉めてる」
「鍵」
「かけてる」
じゃあ大丈夫、とはまるでならない返答だった。
その時、ベルも鳴っていないのに、廊下の空気だけが先に変わった。
足音はしない。
でも分かる。
誰かが、もう扉の向こうに立っている。
真琴さんの指が止まる。ぬいの耳がぴたりと伏せた。朔夜だけが短く舌打ちして立ち上がり、そのまま何も言わず扉へ向かった。
「来るなよ」
「言ったって、来てるじゃん!」
私のツッコミは当然、誰にも拾われない。
朔夜が鍵を外し、チェーンを掛けて最低限だけドアをゆっくり開ける。廊下の白い蛍光灯を背にして立っていたのは、ひどく普通の男だった。
年齢は三十代後半から四十代前半くらい。
癖のない黒髪。整いすぎてもいない顔。濃紺のスーツに、白いシャツ。営業にも弁護士にも見えそうな、どこにでもいそうな外見なのに、その“どこにでもいそう”が、この場所ではいちばん異物に感じた。
「お久しぶりです、夜見さん」
声まで穏やかだった。
低すぎず、高すぎず、耳に引っかからない温度で入ってくる。
朔夜は扉をそれ以上開かなかった。
「帰れ」
「ご挨拶だけでも」
「それを断ってる」
「そうおっしゃると思って、先にお手紙を差し上げました」
男はそう言って、ゆっくり私を見た。
「はじめまして。天原久遠と申します」
――その言葉を聞いた瞬間、ぞわ、と背中が粟立つ。
理事長。
日本蒐集商会のいちばん上。
私は、甘かった。
こういう人は、もっと派手で、もっと露悪的で、もっと“悪い顔”をしているものだと思っていた。
なのに実際に来たのは、丁寧で、静かで、こちらが怒鳴るほど自分たちのほうが悪者になりそうなタイプの男だった。
「……理事長が、わざわざ?」
「あなたにお会いしたかったので」
その返しが最悪だ。
しかも一切、照れも迷いもない。
「こちらは会いたくないです」
「でしょうね」
「通じてるなら帰って」
「ただ、通じていても事情は変わりません」
天原は少しだけ視線を落とし、胸元から薄い端末を取り出した。スマホより細く、名刺入れより無機質な板だった。画面には細い文字列がいくつも並んでいる。ちらりと見えただけなのに、自分の名前がそこに含まれていたのが分かった。
影森ゆら
死亡復帰逸脱兆候
越境接触深度――
「気味の悪いモン、見せんな!」
思わず声が出た。
天原は驚いたふうもなく端末の角度を戻し、ほんの少しだけ困ったみたいに微笑んだ。
「失礼。まだ本人閲覧前提の表示へ切り替えていませんでした」
「本人閲覧前提とか言うな。病院のカルテじゃないんだよ」
「ええ。カルテというより、経過記録ですね」
「もっと嫌だ!」
私の後ろで、ぬいが小さく唸る。
真琴さんは無言のまま別端末を立ち上げていた。たぶん録っている。こういう時にこの人だけ静かなの、逆に怖い。
朔夜の声が一段低くなる。
「はやく用件だけ言え、久遠」
「簡単です」
天原はそれでも廊下に立ったまま、営業資料でも読み上げるみたいに整った口調で続けた。
「影森さんの現状は、すでに“運用でごまかせる段階”を越えつつあります。にもかかわらず、あなたは戻すことを優先した。結果として、向こう側との記録ズレは拡大し、本人の損耗も進んでいる」
「だから何だ」
「保全のご提案です」
その言葉が落ちた瞬間、空気がきれいに冷えた。
「……保全?」
私が聞き返すと、天原はようやく少しだけやわらかい顔をした。安心させる顔だ。たぶん、本来は。
「はい。壊れる前に、安全な環境へ移っていただく」
「言い方がもう怖いんですけど」
「恐がらせる意図はありません」
「その台詞で恐くならないことある?」
天原は否定しない。そこがまた嫌だった。
「弊会は、怪異を起こす側ではありません。怪異のあとに残ったもの、戻ってしまったもの、接触してしまったものを、無駄なく保存し、再び壊れない形へ整える。そのための組織です」
「保存って冷凍食品みたいに言うな」
「食品ではありません」
「知ってるよ! そこを律儀に訂正するな!」
天原の視線が、ほんの少しだけ朔夜へ滑る。
「夜見さんは昔から、拾えるものを壊す側でした」
「お前は昔から、壊れかけたものに値札を貼る側だったな」
「用途のない損失は、ただの浪費です」
「人でそれ言うな」
短い応酬なのに、間へ入れる空気ではなかった。
面識がある、なんてものじゃない。軽口の形をしているくせに、両方とも最初から相手を信用していない感じが、嫌でも伝わってくる。
天原は小さく息を吐き、また私を見る。
「影森さん。率直に申し上げます。あなたは、よく残る」
「褒め言葉として最悪」
「そうでしょうね。ただ、事実です」
端末の画面がまたわずかに光る。今度は私にも見えた。
仮保全候補
回帰成功履歴 高
固定化危険度 上昇中
優先度――A
喉が、嫌なふうに乾いた。
「……それ、何」
「あなたの現状把握です」
「把握の仕方に、何一つ人間らしさがないんだよ!」
「人の認識だけでは、曖昧になりますから」
「じゃあ全部数字なら安心なのかよ」
「安心ではありません。ですが、判断は早くなります」
その返しで分かった。
この人は脅していない。本気で、善意の側にいるつもりなのだ。そこが一番まずい。
私は無意識に一歩下がった。後ろで真琴さんの椅子が小さく鳴る。ぬいが私の足に触れた。朔夜はまだ扉の前から動かない。
「本人の意思を確認します」
天原の声は、相変わらず静かだった。
「このまま夜見さんのやり方で、戻るたびにズレを抱え続けるか。それとも、一度こちらで固定を外し、安全な保全環境へ移るか。選択肢はあります」
「そんなの、選択肢って言わない」
「選びたくない二択でも、選択であることはあります」
私は言葉を失った。
昨日までなら、うるさい帰れ最低くらいはすぐ出たはずなのに、今はそれより先に、なゆの言葉が頭のどこかで引っかかる。
次は、帰ってくる前提が壊れるかもしれない。
天原はそれを知っているみたいな顔で、もう一歩だけ踏み込んだ。
「本日はご挨拶だけの予定でした。ですが、少々予定を変えます」
「勝手に変えるな」
「もう、時間があまりないようです」
その一言と同時に、事務所の奥のモニターがぶつりと黒く落ちた。
全員がそちらを見る。
消えたはずの画面に、遅れて、私たちの事務所が映った。
今ここにある景色と同じだ。でも、少しだけ違う。右奥の棚の位置がずれている。
真琴さんの机の横に、今はないはずの古いラックが重なっている。七年前の記録と、現在の事務所がまた半端に噛み合っていた。
「……は?」
自分の声が掠れる。
モニターの中で、私はまだ一歩も下がっていなかった。
そして、画面の向こうの“私”だけが、天原のほうを向いて先に笑った。
ぬいが低く鳴く。
「来とる……」
朔夜が舌打ちし、ようやく扉から手を離した。
「久遠。てめえ、何を連れてきやがった」
「私は何も」
天原はそこで初めて、少しだけ目を細めた。
「ただ、こうなると分かっていたので、急いだだけです」
端末の画面が白く切り替わる。
そこに並んだ文字を、私は見てしまった。
記録同期 進行
対象保全措置
前倒し推奨
心臓が、どくんと鳴った。
天原は穏やかなまま、ありえないことを言う。
「影森さん。本日中にお預かりした方がよさそうですね」
今まで普通に見えていた顔が、ゆがんだ邪悪な笑顔に変わる。
冗談みたいに丁寧で、だから余計に背筋が冷えた。
――最悪だ。
また、私、死ぬのかな――。




