配信51回目 記帳官の判断 ――書かないことで守っていた余白が、もう残っていない
五十回目の続きです。
今回は、死んだあとに説明される側の話です。
たぶん今まででいちばん、静かに嫌な回です。
返事は、なかった。
七年前の記録の奥に立っていた人影は、顔も見せないまま、ただそこにいた。
今の事務所にはいないはずの誰か。
灰色の小さな影より、もっと奥。
ノイズの向こうで、じっとこちらを見ているだけの輪郭。
「……やだ」
思わず、そう漏れた。
死後《あの世》側から見てるだけなのに、背中が寒い。
近づきたいわけじゃない。
でも、目を逸らしたらもっとまずい気がして、私は半歩だけそっちへ意識を寄せた。
その瞬間だった。
ぶつっ、と古い映像のノイズが切れた。
代わりに聞こえたのは、紙をめくる音だった。
ぱら。
ぱら。
「……え?」
七年前の事務所の景色が、白く薄れていく。
棚が消える。モニターが消える。蛍光灯の色が抜ける。
床の木目も、ノイズの粒も、全部が紙みたいに薄くなって剥がれていって、その下から、別の白い色が出てくる。
白い棚。
吊られた札。
積み上がった紙の束。
どこまでも続く、乾いた紙の匂い。
「……今回、なんか役所っぽくない?」
ここは、私がいちばん来たくない種類の向こう側だった。
私の声は、やけに遠くまで響いた。
水面みたいな白い床に、自分の靴先だけがぼんやり映る。
さっきまであった血も、モニターも、夜見朔夜の舌打ちも、全部ない。
代わりに、棚の間から、よく知っている声がした。
「起きましたか」
「うわ」
反射で一歩引いた。
鬼灯なゆは、最初からそこにいたみたいな顔で、白い帳面を開いていた。
白っぽい髪。白っぽいコート。白い棚の前に立っているせいで、少し目を離すと輪郭ごと背景へ溶けそうになる。
でも、帳面をめくる指先だけは、妙にはっきり見えた。
「なにその『区役所の夜間窓口です』みたいな登場」
「当たらずも遠からずですね」
「やめて。死んだあとに窓口対応あるの、ほんとやだ」
なゆは冗談を返さない。
いや、いつも言わないけど、今日はいつも以上に返さなかった。
「今回は、通常処理ではありません」
「通常処理って言うな」
「人の死を可燃ごみみたいに分類しないでくれる?」
言い返したのに、なゆは困ったみたいに少しだけ目を伏せた。
「……そう言いたくなる気持ちは分かります」
「え、分かるんだ」
「分かります。ですが、今回は本当に少し困っています」
そっちが困るのかよ、と思った。
死んだのはこっちなのに。
困ってるのは私だよ。主に借金と、毎回死んでるし――。
「何が」
「今回の死亡です」
「死にたくて、死んでるわけじゃないって」
なゆは帳面へ視線を落としたまま、静かに言った。
「今回は、転倒死として処理できません」
「は?」
意味が分からなくて、間抜けな声が出た。
「だって転んだじゃん。思いっきり」
「結果としてはそうです。ですが、原因が違います」
ぱら、とまた紙がめくられる。
「あなたは、先に成立した記録の死へ、身体を合わせられました」
「……何それ」
喉の奥が、じわっと冷えた。
「今回あなたを倒したのは、床でも棚でもありません。記録側の座標です」
「座標って、ゲームみたいに言うな」
「似たようなものです」
なゆはそこで、ようやく私を見た。
「あなたの身体だけが、一瞬、七年前の記録の配置へ同期しました」
「だから棚脚に引っかかったんだよ」
「はい」
「で、手を伸ばした位置もずれた」
「はい」
「……最悪じゃん」
自分で言ってから、ぞっとした。
私は、ただ転んで頭を打って死んだんじゃない。
昔の記録に、位置ごと揃えられて死んだ。
それってもう、普通の死に方じゃない。
「じゃあ、今回のあれ……過去映像じゃなかったって気づいた時点で、向こうに寄せられてたってこと?」
「完全ではありませんが、近いです」
「嬉しくない正解やめて」
私は頭を抱えたくなった。死後側《あの世》でも頭痛がする気分ってあるんだ、と思った。
「……で?」
「......」
なゆは言いづらそうに黙っている。
「あるでしょ、続き」
「あります」
なゆは白い帳面を少し閉じかけて、でも結局、閉じきれなかった。
その一瞬、見えてしまった。
私の名前。
その下に並ぶ、何本もの線。
正の字が積み上がった記録。
黒だけじゃない。ところどころ、赤い補記みたいな線が混ざっている。
そして、残っている余白が、思ったよりずっと少ない。
「待って」
思わず帳面へ手を伸ばす。
「今の、何」
「見なくていいです」
「見えたんだけど」
「見えたでしょうね」
「何あれ。なんで私のページだけ、先生に怒られたノートみたいになってんの」
なゆは少しだけ黙った。
「これまでは、何度か正式記帳を遅らせました」
「……は?」
「書けば、向こう側との固定が強くなるものがありましたから」
「ちょっと待って」
「待てません」
「待って!」
私は半泣きに近い声で言った。
「何それ。私が死ぬたび、普通に書いてたんじゃないの?」
「普通に書けない回がありました」
「じゃあ今までの『今回は書きません』みたいなやつ、本当に不正だったの?」
「はい」
さらっと肯定しないでほしい。
『今回は書きません』
『また不正をすることになりますね』
あの静かな言い方を、私はちょっとだけ他人事みたいに聞いていた。
でも今、帳面の余白を見たあとだと、意味が違ってしまう。
「……書かなかったら、どうなるの」
「本来なら、帳尻がずれます」
「書いたら」
「固定が進みます」
「じゃあ今回も書かなきゃいいじゃん」
「それが、できない可能性が高いんです」
なゆの声は相変わらず静かだった。
でも、静かだから余計に嫌だった。
「今回は、帳面の外で死が成立しかけています」
「帳面の外って何」
「あなたの死亡記録が、こちらの記帳を待たずに、別の記録系へ接続しかけているということです」
「やめて」
「事実です」
「そういう、役所の人が何言ってるか分からないみたいな言い方で説明するの、ほんとやめて」
なゆは一度だけ目を伏せた。
「……すみません」
「謝るんだ」
「今回は、謝るべきだと思ったので」
その言い方が妙に人間くさくて、逆に嫌だった。
私はしばらく黙ったあと、小さく言った。
「じゃあ」
「今回、私、普通に死んで普通に戻るやつじゃないんだ」
「ほんとに、死ぬってこと?」
なゆはすぐには答えなかった。
白い帳面を閉じる。
その音だけが、やけに大きかった。
「は、い」
「今のあなたは、通常の死亡復帰の範囲にいません」
言われた瞬間、白い床が少し遠くなった気がした。
笑えない。
いつもなら、「いや範囲って何だよ」とか言えるのに、今回は言えなかった。
「……戻れるの」
「戻します」
「誰が」
「夜見朔夜が」
「即答だな」
「そこは迷いません」
なゆはそこで、ほんの少しだけ表情を動かした。
「問題は、そのあとです」
「そのあと?」
「次も同じ形で引かれた場合、戻す前に固定される可能性があります」
「……要するに」
「次は、死んだあとに帰ってくる前提が壊れるかもしれません」
やっと言葉になったのは、それだけだった。
「最悪だ」
なゆは否定しなかった。
ぱら、と遠くでまた紙の音が鳴る。
それが合図みたいに、白い空間の端が少し揺れた。
「戻します」
「いや待って。最後にひとつだけ」
「何ですか」
私は白い棚の向こうを見た。
さっきまで、七年前の記録の奥にいた影は、もう見えない。
「最後にいたやつ、誰」
「……」
「朔夜、見えてたよね」
「見えていました」
「じゃあ、あれ何」
なゆは一瞬だけ言葉を選ぶみたいに黙った。
「今は、そちらから聞いてください」
「それ答えになってなくない?」
「答えになっています」
納得いかないまま、足元が抜ける感覚が来た。
「うわ、待っ――」
息が戻る。
胸が痛い。
喉が焼ける。
頭の後ろが鈍く脈打つ。
「げほっ、……っ、いた……!」
私は事務所の床で咳き込んだ。
目の前には、いつもの机。いつものラック。いつものモニター。
なのに、ひと目で分かる。
まだ少し、ズレている。
右奥の空間に、今はないはずの棚脚がうっすら重なって見えた。
黒いモニターへ映る自分が、半拍遅れて瞬きをする。
「……最悪」
「起きたか」
朔夜の声が落ちてくる。
見上げると、いつも通りの顔をしていた。
でも、いつも通りすぎて逆に分かった。機嫌が悪い。
「何が見える」
「まず心配するとかないんだよな、コイツ……」
「いいから言え」
「……今の事務所に、七年前の棚が少し重なってる」
「残ってるか」
「残ってる。あと、モニターの中の私、ちょっとズレてる」
毒島真琴さんが、すぐ横のキーボードを叩きながら言った。
「コメント汚染ではありません」
「へ?」
「視聴者側の認識誘導なら、今のズレ方はしません」
「じゃあ何」
「記録同期です」
さらっと言うなあ、と思った。
「影森さんだけ、まだ向こうの座標を少し引きずっています」
「嬉しくないお土産かよ……」
ぬいが、いつになく静かな声で机の上から言う。
「あれは巣ではない」
「じゃあ何」
「もっと……帳場とか、保管とか……そういう匂いじゃ」
その言葉に、私はすぐ白い棚を思い出した。
紙の匂い。
白い帳面。
なゆの指先。
「……ねえ」
私は起き上がりながら、朔夜を見た。
「最後にいたやつ、見えてたよね」
「見えてた」
「誰」
「今は言わない」
「最悪」
「そうだな」
「でも、『知らない』じゃないんだ」
「知らないなら、あんな顔はしない」
そこまで言ったところで、事務所の空気が変わった。
扉の向こう。
古い雑居ビルの廊下。
蛍光灯の白さの向こうに、静かな気配が立つ。
分かる。
「あー……来た」
扉を開ける前から、分かった。
鬼灯なゆは、今度はちゃんと現世側の廊下に立っていた。
白いコート。白い帳面。白っぽい髪。
この薄暗いビルの踊り場に立つと、きれいとか怖いとかを通り越して、ひたすら場違いだ。
「来るなら死後で完結してよ」
「本来なら、そのつもりでした」
「じゃあ来ないでよ」
「今回は、現世で伝える必要があります」
朔夜が、私より先に一歩出る。
「何だ」
「判断です」
「遅いな」
「迷ったので」
なゆはそこで、白い帳面を胸の前に持った。
「本来なら、今回は記帳して終わりです」
「……」
「戻せば戻すほど、帳尻は悪くなります」
朔夜の声は低かった。
「それでも戻す」
「知っています」
「なら聞く意味がない」
「あります」
なゆは少しだけ視線を下げた。
「記帳官としては、書くべきです」
そこで一拍置く。
「ですが、鬼灯なゆとしては……まだ、書きたくありません」
廊下が静まる。
私も、朔夜も、ぬいも、真琴さんまで、一瞬だけ何も言えなかった。
なゆが自分から「鬼灯なゆとしては」なんて言うのを、たぶん私は初めて聞いた。
「なので、今回は保留にします」
「保留で済むのか」
「済みません」
「じゃあ何だ」
「私のほうが、規定から外れます」
さらっと言う内容じゃない。
「え」
「ちょっと待って、それ、普通にまずくない?」
「まずいです」
「そんな顔で言うの、いっそ怖いんだけど」
なゆは私をまっすぐ見た。
「次は、もう業務として庇えない可能性が高いです」
「可能性っていうか、ほぼそうなんだよね」
「はい」
「やめて、そこだけ正直なの」
なゆは少しだけ唇を閉じて、それから静かに続けた。
「今回の猶予は、優しいものではありません」
「知ってる」
「ただの先延ばしです」
「知ってるって」
でも、言われると重い。
私は壁に寄りかかって、小さく息を吐いた。
生き返ったばかりなのに、もう次の死に方の話をしている。
ほんと、終わってる職場だ。
その時だった。
真琴さんが、事務所の中から短く言った。
「……誰も入ってないですよね」
「は?」
全員で中を見る。
机の上に、さっきまでなかったはずの封筒が一通、置かれていた。
白い。
上質すぎる紙。
この雑然とした事務所で、そこだけ妙に整っている。
朔夜が無言で近づき、封を切る。
中には一枚だけ、紙が入っていた。
私は横から覗き込んだ。
一般財団法人 日本蒐集商会
理事長室
その文字を見た瞬間、なゆの指先がほんの少しだけ止まった。
紙面には、丁寧すぎる字でこう書かれていた。
”影森ゆら様の今後について、ぜひ一度ご挨拶を差し上げたく存じます。
建設的なお話が可能です。”
吐き気がした。
「何それ」
「最悪の文面ですね」
真琴さんが珍しく先に言った。
朔夜は紙を見たまま、すぐには破らなかった。
その一拍が、いちばん嫌だった。
「……本当に、”最悪の順番で来た”な」
低く、そう言う。
私は乾いた喉で、やっと返した。
「文面がイチイチ気持ち悪い.....」
誰も否定しなかった。
■今回の登場人物
・影森ゆら
五十回目の直後でも、ちゃんと説明される前にキレる主人公。今回は「普通に死んで戻る」枠から外れかけていることを知る。
・夜見朔夜
戻せるうちは戻す男。今回は珍しく、最初からかなり機嫌が悪い。
・鬼灯なゆ
境界記録局四課の記帳官。今回は業務として書くべきか、個人として書きたくないか、その境目で初めてはっきり揺れた。
・毒島真琴
ログ解析と実務担当。今回も冷静に「記録同期」を言語化した、怖い意味で頼れる人。
・ぬい
毛玉。静かにしている時のほうが逆に不穏。
■今回の話の解説
51話は、50話ラストの「昔の記録に位置を合わせられて死んだ」ことを、そのまま引き取る回です。
ただの転倒死ではなく、「記録側に成立した死へ身体を同期させられた」ことで、ゆらは通常の死亡復帰ラインから外れかけています。
そして今回の保留は救済ではなく、あくまで猶予です。次はもう、同じやり方で誤魔化せないところまで来ています。




