配信39回目 間取りにない部屋【後編】――叶わなかった場所の、終わらせ方
向こう側の部屋に、止まったままの荷物があった。
誰かが、ここへ来るはずだった。
来られなかった理由は、聞かなくても分かった。
すりガラスの向こうに、光がある。 電球の黄色い光じゃない。
もっと白くて、冷たい光。
私は扉のノブに手をかけた。ぬいが肩の上で、低く言う。
「ゆら。無理に開けなくていいぞ」
「でも、中を確認しないと核の場所が分からない」
「……そうじゃが」
「入る」
ノブを回した。
錆びた金属の感触が、霊体の手にもちゃんと伝わった。
扉が、内側へ向かって静かに開く。
―――
部屋の中は、思ったより広かった。
間取りは六畳くらいで、壁は白い。
床は木目のフローリングで、窓が一つ、外に向いている。
でも外の景色は、夜でも昼でもなく、ただ白い。
光だけがある。
部屋にはテーブルが中央にあった。 椅子が二脚、向かい合って。
さっきすりガラス越しに見えたのと、まったく同じ配置だ。
コップが二つ、片方には水が入っている。
もう片方は空だ。
水の入った方のコップに、埃は積もっていない。
まるで、今しがた誰かが注いだみたいに。
「……誰かが、ここで誰かを待ってる」
ぬいが静かに言った。
「待ってるんじゃなくて、待っておった、じゃろう」
「過去形?」
「この残留は、今起きていることじゃない。終わったことが、ここに残っておる」
私は部屋の隅を見た。 段ボール箱が積まれている。
三つ、四つ。
油性ペンで「キッチン」「リビング」「本・雑誌」と書かれている。
全部、封が開いていない。荷解きされないまま、ここに置かれている。
「引っ越しの途中で止まった、って」
私は呟く。
「これ、ここに荷物を運んできた――、でも荷解きできなかった、ってこと?」
「そうじゃろうな」
「なんでだろう」
「……それは」
ぬいが答えを濁した。
その時、部屋の奥から音がした。かすかな音だ。
椅子が引かれるような、床を擦るような、小さな音。
私は振り向いた。
テーブルの前の椅子に、誰かが座っていた。
女の人だ。
三十代くらい。
黒っぽい服を着て、テーブルの上の空のコップを見ている。
うつむいているため、顔は見えない。
「……」
声をかけるな、と朔夜に言われた。
でも、この人が核なのかも、まだ分からない。
私はぬいに耳打ちする。
「あの人、怪異?」
「……違う」
ぬいの声が、いつもより低かった。
「残留じゃ。ここに来るはずだった人間の、残留思念」
「来るはずだった、って」
「引越しの当日に、来られなくなった。それだけが、ここに残っておる」
来られなくなった。
その理由まで、聞かなかった。
聞かなくても、なんとなく分かった気がした。
テーブルの上の、二つのコップ。
片方は中身が入っていて、片方は空だ。
来るはずだったのは、一人じゃなかった。
―――
耳のすぐそばで、音がした。 紙の音だ。
薄くて、静かな、帳面をめくるような音。
ぬいが体を固くする。
「……来とる」
「誰が」
「言わなくても分かるじゃろ」
分かった。振り向かなかった。
でも、部屋の空気が少しだけ変わったのは感じた。
白い光が、ほんの少しだけ薄くなる。
そしてすぐに、また元に戻る。
まるで、誰かが書かない、と決めたみたいに。
「……ゆら」
ぬいが小さく言った。
「核を探すのじゃ。早い方がええ」
「なんで急に」
「長居するところじゃない。此処は」
ぬいの声に、普段とは違う緊張があった。
私は急いで部屋を見渡した。
段ボール箱。
テーブル。
椅子。
窓。
白い壁。
どこかに、この残留の核がある。
向こう側の怪異の核は、たいていその場所に一番強く"残っているもの"の中にある。
一番残っているもの。
一番、手放せなかったもの。
私は段ボール箱の前にしゃがんだ。
一番上の箱に手を当てる。
「キッチン」と書かれた箱。
冷たい。 次だ。
「リビング」と書かれた箱。
普通の冷たさ。次。
「本・雑誌」と書かれた箱。
これも普通だ。
私は立ち上がって、テーブルを見た。
コップが二つ。
水の入った方のコップを、ゆっくり見る。
近づいて、手を伸ばす。
ぬいが低く言う。
「触るな、と言われておるぞ」
「触らない。見るだけ」
コップの底。
水の揺れ方。
光の反射。
何かが入っている。
コップの底に、紙が一枚。
水に沈んで、でも字は読める。
メモ用紙だ。
手書きで、一行だけ書いてある。
『ここに住もう』
「これ……核だ」
私は立ち上がって、スマホを取り出した。
「朔夜、聞こえる?」
雑音の向こうから、声がした。
『聞こえてる。核は』
「テーブルの上のコップ。水の中に紙が一枚入ってる。『ここに住もう』って書いてある」
短い沈黙。
『……分かった。今から封印入れる。お前は扉から離れるな』
「了解」
部屋の空気が変わり始めた。
壁から、薄い光が滲み始める。
白かった外の景色が、少しずつ色を帯び始める。
夜の、本物の色に。
テーブルの前の椅子に座っていた残留が、ゆっくりと顔を上げた。
顔は見えなかった。
霧みたいに輪郭が薄くて、光に溶けかけている。
でも、その人が最後に向いた方向だけは、分かった。
コップの方を見ていた。
水の中の、紙切れの方を。
それから、ゆっくり、消えた。
朔夜の術式が届いた音がした。
|"位相固定"《フェイズ・ロック》。
向こう側の構造が、ぐ、と締まる感触。
続いて、
|"境界封止"《ボーダー・シール》。
扉の輪郭が、白い光ごと薄くなっていく。
間取りにない部屋が、向こう側へ、静かに戻っていく。
「ゆら、戻れ!」
ぬいが叫んだ。
私は扉へ向かって一目散に走った。
廊下を、逆方向へ。
七歩。
八歩。
九歩。
扉の形が、見えた。
リビングの光が、向こうにある。
真崎さんのシルエットが見えると同時に、朔夜の手が、こちらへ伸びてきた。
私はその手を、掴んだ。
―――
次の瞬間、廊下の突き当たりに倒れ込んでいた。
床が硬い。体がある。生身だ。
「っ、はぁはぁ……!」
息が一気に入ってくる。
生きている空気の、温度と匂い。
「ゆら」
朔夜の声が、すぐ近くにある。
「戻れたな」
「……戻れた」
廊下の突き当たりの壁を見る。
扉の形は、消えていた。
ただの白い壁だ。
「終わった...んですか」
真崎さんの声が、少し震えていた。
「向こう側の構造は封じました。今後、扉は出なくなります」
朔夜が答える。
「荷物が動くのも止まります」
「……そうですか」
真崎さんが、壁を見た。
何も言わない。
ただ、じっと見ている。
「ありがとうございました」
少し経ってから、言った。
声が静かだった。
泣いてはいない。
でも、泣く手前くらいの、静かさだった。
「前に住んでいた人の話、聞かなくてよかったんですか」
「...はい、大丈夫です」
真崎さんは言った。
「何があったのか、大体は分かります。だから聞かなくても」
私は何も言えなかった。
ぬいが、胸元で小さく丸くなる。
―――
事務所に帰ってきたのは、日付が変わる手前だった。
朔夜が請求書を出した。
「五十三万」
「高っか!」
「霊体投入と封印、深夜割増込みだ」
「深夜割増とか概念あったんだ! 私への請求に使う概念は全部あるんだね!」
「当然だ」
「こっちには危険手当もないのに!」
「お前は従業員だから別計算だ」
「最悪の別計算だよ!」
ぬいがソファの上で伸びをした。
「しかし、今回の残留は綺麗に終わったのう」
「綺麗に、ね」
私は天井を見上げた。
『ここに住もう』
あの一行が、ずっと頭に残っている。
コップの底の、水に沈んだ紙。
誰かが、誰かに向けて書いた一行。
叶わなかった場所に、ずっと残っていた一行。
「ねえ朔夜」
「なに」
「あの人、ちゃんと終われた?」
少し間があった。
「終わった。向こう側に留まるより、ずっとましな終わり方だ」
「……そっか」
それ以上は聞かなかった。
ぬいが耳をぴっと立てた。
「そういえば、向こう側で誰かの気配がしたのう。書く人の」
「……うん」
「書かなかったな、今回は」
「うん」
書かなかった。
今回は。
それがどういう意味か、私には完全には分からない。
でも、なんとなく。
そのおかげで今ここにいる気がした。
ため息をついて、請求書を受け取った。
借金は、また増えた。
でも今夜、真崎さんの部屋の廊下に扉は出ない。
それだけは、確かだ。
■ 登場キャラクター
影森ゆら
向こう側の「間取りにない部屋」を霊体で探索し、核を特定した。コップの底の紙を見つけた時、聞かなくても分かってしまった人間の一人。帰ってきてから、借金が増えた事実とあの一行が、どちらも頭に残っている。
夜見朔夜
封印と境界封止を担当。ゆらが核の場所を伝えた瞬間、一拍だけ沈黙してから動いた。なぜ沈黙したかは、言わない。
ぬい
向こう側で「書く人の気配」に気づいていた。書かなかったことも知っていた。珍しく何もコメントしなかった。
真崎さん
「前に住んでいた人の話、聞かなくていい」と言った依頼人。大体分かる、と言った。その「大体」の中身を、彼女は最後まで言わなかった。
鬼灯なゆ(気配のみ)
向こう側で、書かなかった。今回の残留は「叶わなかった約束の残留」から返済された。ゆらの死の借金・段階2。なゆが不正をした回数は、また一つ増えた。
■ 今回の話について
「間取りにない部屋」後編です。
今回の怪異の核は「叶わなかった約束」でした。誰かと一緒に住むつもりで荷物を運び込んだ、でも来られなかった、その「来られなかった側の残留」が向こう側に留まっていた、という構造です。直接的に死や事故を描かず、テーブルの上のコップ二つと、コップの底の紙一枚だけで残留の正体を示す形にしました。
また今回は、なゆが「書かなかった」ことが、ゆらの死の借金・段階2の返済にあたります。前回(段階1)が「高齢の遠い親族」から借りた猶予だったのに対し、今回は「人間ではなく、叶わなかった場所の残留」から返済されました。返済の形が一段、抽象的になっています。
「少しでも楽しんでいただけたら、ブックマーク登録・評価・コメント・レビューで応援いただけると励みになります!」




