配信37回目 クラス替えで席が悪い
朝の教室というのは、基本的に平和な場所だと思っていた。
四月の空気は、まだちゃんと春の温度をしている。窓の外の桜は去年と変わらない場所で咲いていて、新しいクラスのざわつきは、知らない名前と知った顔が半分ずつ混ざった、新学期特融の、あの独特のノイズを立てている――なんとなく軽い感じ。まだ全部始まっていないからこそ漂う、一時的な無害さ。
――のはずだった。
今の私は、廊下側の席で、スマホを制服のポケットにそっと差し込みながら、なんとか表情を保っていた。
隣の席の子が消しゴムを借りに来る。「あー、もちろん」と渡す。先生が名簿を確認する。「はーい」と返事する。前の席の子が振り返って「どこ部だっけ」と聞いてくる。「どこも入ってない」と答える。
全部、ふつうだ。
なのに、黒板のほうを見るたびに、背中の産毛だけが少しずつ逆立っていく。
ポケットの中でぬいが動いた。
「……始まるぞ」
声は小さい。私にしか届かない音量。私はうなずく代わりに、ポケットのペン穴から親指だけ引っ込めた。
授業が、始まった。
―――
話は、二週間前にさかのぼる。
クラス替えがあったのは、始業式の翌日だった。くじ引きで決まった席は黒板に向かって左から二番目、三列目。窓際より暖かくて、黒板からの距離もちょうどよくて、特にこれといった問題のない普通の席だ。
一日目のはじまりは、そう思っていた。
最初に気づいたのは、一日目の五限目、数学の時間だった。
先生が黒板の右端を消した。黒板消しの動きは左から右。そのはずなのに、消し残った跡の方向が逆だった。右から消したみたいな、きれいな一文字が、黒板の左に残っていた。おかしい。
(……あれ?)
振り返って窓の外を見る。校庭ではクラスの男子が体育で走っている。普通の景色だ。もう一度黒板を見る。消し跡は動いていない。
その時は気のせいだ、と流した。
二日目。日付の漢字がおかしかった。
休み時間に確認した「四月」の「四」は、上の横線がちゃんと長かった。でも授業中、もう一度見たら、横線が短くなっていた。字体が微かに違う。書き直したわけじゃない。先生は黒板のそこには触れていない。
三日目。
先生が板書を終えて振り返った瞬間、先生の後ろに「廊下」が見えた。
一瞬だけ。
コンクリートの匂いがしそうな、人気のない廊下。でも今、私たちは三階の教室にいて、外廊下も内廊下も、黒板の後ろにあるのはただの壁のはずだった。
次の瞬間には消えていた。
隣の席の子を見る。前の席の子を見る。誰も、特に変な顔はしていない。
(……私だけ?)
放課後、私は鞄を持って立ち上がった。事務所に行く。今日は素直に行こう。
―――
夜見よろず相談事務所のドアを開けたら、朔夜はソファで端末を開いたまま「珍しく早いな」と言った。
「聞いて。異変に三回気づいた。三日連続で」
コートを引っかけて鞄を下ろしながら言うと、朔夜の視線がようやく端末から離れた。
「何が」
「黒板前の空間が毎回少しずつ違う。私の席の角度からだけ」
ぬいが私の制服の中から這い出てきて、テーブルの上にぽてっと着地した。
「三日経ってから言うとは、えらい呑気じゃのう」
「一回目と二回目は気のせいにしようとしてたんだよ」
「気のせいにできるような感覚を持ち合わせておったのか、おぬしは」
「ほっとけ、ぬい」
私とぬいがいつものようなやり取りをしていると、朔夜が端末を閉じて、腕を組んだ。
「席を変えろ」
「理由が言えない」
「体調不良を理由にしろ」
「席の位置くらいで体調不良とか、逆に先生に心配される」
「なら死ね」
「死に方くらい選ばせろ!......そもそもなんで死ななきゃいけないんだよ!ばか」
朔夜は少しだけ眉を上げて、また端末を開いた。
「……座学の授業中に、正面の空間が少しずつ違う」
「うん」
「気づいた日から変化が早くなったか」
「……今日はちょっと早かった気がする」
ぬいが低く唸る。
「あの席は地脈が細い。怪異が授業のたびに境界を少しずつ削っとる。気づかれにくいのが一番質が悪い」
「つまり?」
「気づいた者が標的になる。見つけると来る系じゃ」
「最悪のやつじゃないか!」
その時、事務所のモニターから着信音が鳴った。
画面に映ったのは、眠そうな目の黒髪の女。毒島真琴。配信編集と炎上管理が担当で、怪異より数字を怖がるタイプの現代人だ。今日もパーカーにジャージで、目だけがやたら鋭い。
「聞こえてました。一回だけ”記録”しませんか」
「記録?」
「変化のパターンが分からないと術式が組めないので。証拠映像も必要です。できればライブが良い」
「学校、しかも授業中に録画とか配信とか無理ですって......」
「カメラを隠して撮るだけでいいです。あとはこっちで処理します」
真琴さんが端末を操作しながら続けた。
「それに、プライバシーに配慮してAIモザイクをかけます。生徒も教職員も全員処理します。肖像権の問題はクリアします」
「……私は?」
「ゆらちゃんは配信者本人扱いなので、もちろん!素顔で映ります」
「なんで私だけ!?」
「変化を見つける役が映っていないと意味がないので」
論理的すぎて反論できない。私は朔夜を見た。朔夜は何も言わなかった。言わないのが返事だった。
翌日、私はスマホを制服のポケットのペン穴に差して、黒板に向けて固定することになった。
―――
そして――授業が始まった。
スマホは動いていない。映像は真琴さんに流れている。ぬいは制服の内側に潜んでいる。
「限定公開、開始しました」
イヤホン越しに真琴さんの声がする。
「え、公開してるの」
「視聴者の目を使いたいので。間違いを探させます。コンセプトは伝えてあります」
「勝手に決めないで!!」
「夜見さんに許可とりました」
私は小声で「あいつ、ひど」とつぶやいた。
先生が黒板にチョークを走らせる。
コメントが来始めた。
《なんで右の子だけ顔出し》
《モザイクの海に一人》
《個人情報保護の格差》
《かわいそうなJK》
「かわいそうって言うなら助けてくれ......」
小声でつぶやく。でも授業中だから声は出せない。
先生の背中を見る。チョークの動き。黒板の文字。板書の終わりに先生が振り返った。
(……あれ)
瞬間、私は息を呑んだ。
先生の後ろ。黒板前の空間が、一瞬だけ透けた。白くて奥行きのない、廊下とも部屋ともつかない、「どこかではない場所」。先生にも、クラスメイトにも、たぶん見えていない。
でも。
コメント欄が、先に動いていた。
《先生のモザイクの後ろ、なんか変》
《そこだけ処理されてない》
《影の角度おかしくない》
《ちょっと待って》
「……真琴さん」
「見てます。AIモザイクは人間にしかかかりません。向こう側の空間はモザイクが素通りします」
「視聴者のほうが先に気づいてる」
「そうです。同接が上がってます」
「今それを言わないで!!」
ポケットのぬいが唸る。
「おぬし、気づいたな」
「……うん」
「向こうも、気づいた」
―――
気づいた瞬間から、変化の速度が上がった。
次の授業。席に着いた途端、黒板前の空気が重くなった。
先生が板書している。文字はちゃんと書かれている。でも、消したはずの前の文字がうっすら残っている。今の文字の下から、古い文字が滲み出てくるようだ。それに、先生は気づいていないし、クラスメイトも気づいていないようだ。
黒板前の空間が、私の席の方向を向いた。
それは感覚だ。目で見えるものじゃない。でも、確かにそうだった。
授業の途中で、黒板消しが独りでに落ちた。
先生が「あれ」と言って拾った。クラス中がくすっと笑った。
私だけが笑えなかった。
(……来る)
ぬいが脇腹に押し当てた前脚に力が入るのが分かった。
次の授業が最悪だと、この時点で既に分かっていた。
―――
五限目の現代文。
先生が黒板の前に立った。
板書が始まる。「登場人物の心情を……」先生のチョークの音が教室に響く。消し跡の方向がずれている。文字と文字のあいだが少しだけ開きすぎている。先生の影が、光の方向と合っていない。
全部、おかしい。
全部、私の席からだけ、おかしい。
黒板前の空間が、先生の輪郭に重なりはじめた。
(先生に向かってる)
先生がこちらを向いた。「じゃあ、心情を説明してみようか。影森さん」
名前を呼ばれた。
先生が黒板を背にして、私の席のほうに向き直る。正面から向き合う姿勢。そのまま一歩、前に出た。
黒板前の空間が、先生の足元で揺れた。
咄嗟に立ち上がったせいで、椅子が盛大に鳴った。クラス中が私のほうに振り向いた。
「先生! 黒板の前から離れてください!」
「……え? 影森さん、急にどうしたの」
「とにかく離れてください! 今すぐ!」
先生が「えっと」と言いながら半歩引く。私が前に出る。先生の横を通り抜けようとした。
その瞬間、引力の向きが変わった。
黒板前の空間が、先生から私を向いた。
(あ、来る)
反射的に、先生の腕を引いて後ろへ押しやった。
その分だけ、私が前に出た。
黒板消し立てから、ごとっ、と音がした。
次の瞬間、顔面に何かが当たった。
黒板消しだった。
埃が目に入る。白いもやが視界を覆う。後ろに重心が傾く。どこかに足を取られる。
頭を床に強打した。
コメント欄の文字が、意識の端で流れた。
《間違い探し、正解者が出ました》
それが私の覚えている、最後だった。
―――
『死の世界』
音がない。
白い場所だった。
廊下と言えば廊下に見える。でも廊下の温度じゃない。足の裏に伝わる感覚がない。光がどこから来ているのかも分からない。ただ、「記録から抜けた場所」みたいな静けさだけが、どこまでも続いている。
私は少しのあいだ、その静けさの中に立っていた。
「……また来たね」
振り返ると、玻璃がいた。
色素の薄い髪。古いワンピース。足音がない。輪郭が少し透けている。こっちが死ぬたびに会う相手として、だいぶ慣れてきた自分が嫌だった。
「今度は、黒板消しで死んだ」
「聞こえてた」
「笑えるでしょ?」
「笑ってない」
玻璃は少しだけ目を細めて、白い廊下を見渡した。
「ここ、前に来たことある?」
「ない。いつもとちょっと違う」
「いつもより静かでしょ」
「……うん」
「怖くないタイプの場所だから。ここにいるのは、誰かの怒りとか、怨念とかじゃない」
玻璃が廊下の先を示した。
「増改築で、物理的に塗り潰された場所。今の地図にはない廊下。本当は三年前に壁になったはずなのに、こっちの層ではまだ繋がってる」
「それが教室の黒板前と」
「重なってる。ここが"そこ"だと思い込んでる。ずっとそのまま、境界として生き続けてる」
私は廊下の先を見た。
誰もいない。音もない。ただ、古い換気口の四角い模様だけが、均等に並んでいた。たぶん、今の学校の廊下には、この換気口はない。
「消せる?」
「消さなくていい」
玻璃が静かに言った。
「ここが"今の地図にない"ことを、ここに伝えればいい。存在を否定するんじゃなくて、繋がる先がもうないことを、伝えるだけ。それができれば、境界の主張が弱まる。朔夜さんが封じを通せる」
「……どうやって伝える」
「あなたが、ここで知ればいい。ここが、今の建物と繋がっていない場所だということを。それだけでいい。あなたは死後側で向こう側の核に届く。それがあなたの厄介な適性だから」
私は廊下を見渡した。
換気口。古い配管。床のコンクリートの継ぎ目。全部、今の校舎より少しだけ古い時代の素材だった。
「ここは、今の建物の中にはない」
声に出して言った。
「三年前に、壁になった場所だ」
廊下が、静かに揺れた。
軋む音がした。
玻璃が「今だよ、ゆら」と言った。
―――
現実側で、朔夜の端末が鳴った。
「……動いた」
朔夜が立ち上がった。
「|"境界封止"《ボーダー・ロック》」
術式が走る。黒板前の空間の揺れが止まる。境界の層が収縮する。壁の向こうで何かが折り畳まれていく音がした、気がした。先生には聞こえていない。クラスにも聞こえていない。
床に倒れているゆらの呼吸が戻る。
「|"位相固定"《フェイズ・ロック》」
小さな光が、床の上で散った。
―――
喉が焼けた。
目を開けたら、教室の天井だった。
先生が「影森さん! 大丈夫!?」と言っていた。周りでざわついている。誰かが保健室に走った気配がした。
私は半身を起こした。頭が痛い。後ろにこぶができている気がする。顔に黒板消しの白い粉がついていた。
「……大丈夫です、ちょっとめまいで」
「めまいで前に飛び込まないでしょ!!」
先生の声が心配と混乱で揺れていた。
そりゃそうですね、と思いながら、私は制服のポケットでぬいをそっと押さえた。
ぬいはあたたかかった。
―――
放課後、事務所。
私は頭に保健室の冷却シートを貼ったまま、ソファに沈んでいた。
モニターの前で、真琴さんが精算画面を出していた。
「今日の配信、結果を報告します」
「……いくら入った」
「限定公開にしたのにコメント欄の間違い探しが盛り上がって、投げ銭と切り抜き収益が出ました。ゆらちゃんが飛び込んだ瞬間の切り抜きが一番伸びてます」
私は目を細めた。
「ちなみにその題名なんていうの」
「『正解者、本人』です」
「最悪だ」
「コメント欄では好評です」
「だからって嬉しくない!!」
真琴さんが画面をスクロールした。
「合計、いくらか入りました」
私の目が少しだけ輝いた。
「……これ借金に充てたら」
「蘇生処置代が入ります」
「……」
「術式素材費が入ります」
「……」
「AIモザイク処理の外注費が入ります。あと境界封止の施術費が入ります」
「……全部合計すると」
「ほぼゼロです。誤差の範囲でわずかにマイナスかもしれません」
「は?マイナス!?」
私はおでこに貼った、冷却シートのずれを直しながら天井を仰いだ。
「なんで――」
「授業中に術式を組んだ分の素材費が上乗せになりました」
「じゃあ私が死んだせいで高くなってるじゃない!」
「死ぬ前から境界が削れていた分のコストが主です。死んだから高くなったわけではありません」
「……でも」
「でも正解を引いたのはゆらちゃんです。引かなければ先生が引き込まれていた可能性があります。先生には請求できないので、今回の朔夜さんの術式費は実質――」
「言うな」
朔夜が低く言った。
真琴さんが一瞬止まって、それから静かに言った。
「ボランティアです」
「言うなと言った」
「言いました」
「言うな」
「言いました、夜見さん」
朔夜は端末を取り上げて、画面を開いた。
私はそれを横目で見て、何も言わないことにした。
代わりに、肩の上のぬいを指先でつついた。
「……先生は助かったな」
「助かったのう」
「私は死んだけど」
「死にはしたが」
「……それでいいのかな」
「よくはないじゃろ」
「でも悪くもない?」
ぬいが少し間を置いてから、低く答えた。
「まあ、いつもよりは、マシじゃ」
私は冷却シートを押さえながら、ため息をついた。
今日の死因は黒板消しだった。
なんか、情けない。
でも、先生は転んでいない。クラスメイトは誰も気づいていない。黒板前の空間は静かになった。
借金は減らなかった。
でも、まあ。
それは、いつも通りだ。
つづく




