配信36回目 なゆさんの保健室――死因:カウンセラー
昼休みの廊下は、いつもなら誰かしら人が流れている。
でも保健室の前だけ、今日は妙に交通量が多かった。
入っていく子がいる。出てくる子がいる。全員、どこかぼんやりしている。眠そうというより、焦点がほんの少しずれているというか、夢の中を歩いているというか。昼休みに体調が悪くなることはそこまで珍しくないとしても、人数が多すぎる。
私はその列を横目で見ながら、鞄の口を少し開いた。
「ぬい―」
「なんじゃ」
「ここ、何か変じゃない?」
鞄の中からもぞっと顔が出てくる。灰白色の毛。へたれた片耳。金色の目がぱちっと開いて、廊下を一瞥する。――しゃべらなければ、抜群に可愛い。
言うと調子に乗るから絶対に言わないけど。
「……フム。境界の匂いがする」
いつものおちゃらけた声じゃない。少しだけ低い。
その瞬間、廊下の奥から養護教諭が歩いてくるのが見えた。
私は反射で鞄を閉めた。
「ぐむっ」
くぐもった声がした。
「しゃべるな」
「おぬしが急に……」
「しゃべるなって言ってる!」
養護教諭がこちらに近づいてくる。私は何でもない顔を作って壁際に寄った。先生はちらっとこっちを見て、通り過ぎていった。
足音が遠ざかる。
私は恐る恐る鞄を開けた。
ぬいが潰れた顔をして、底に張りついていた。
「……殺す気か」
「ごめん」
「謝られると、余計腹が立つ」
「でも謝るより先にすることある?」
「ない。でも腹は立つ」
「それはごめん」
「二回謝るな、調子が狂う。帰りにプリンをよこせ」
私はため息をついてから、もう一度保健室の扉を見た。
入室する生徒が、また一人。眠そうな目で肩を少し落として、吸い込まれるよう保健室へと入っていく。
「ぬい、あの子たちも変?」
「変じゃな」
ぬいが鞄の縁に前足をかける。
「きゃつらは、眠いんじゃない。すでに少し向こうに引かれとる。まだ浅いが......」
私はそれを聞いてから、扉に手をかけた。
開けた瞬間、消毒液の匂いと、もう一つ——薄く冷たい何かの匂いが混ざって流れてきた。
「影森さん。どうぞ。入られますか――」
白いカーディガン。机の上に置かれた白い手帳。整いすぎた顔。薄い琥珀色の目が、穏やかにこちらを見ていた。
鬼灯なゆが、そこにいた。
「……なゆさん、また学校来てるじゃん」
「今学期もあちらの仕事と兼務です」
「今学期も、って言える立場なの」
「社会的な立場が必要ですので」
「毎回同じ説明するなー」
「毎回同じことをしているので」
鞄の中でぬいが「また会うたか」と小声で呟いた。なゆはそちらを一瞬だけ見て、また視線をゆらに戻した。何も言わない。鞄の中に霊獣がいることは気づいているようだが、当然のように受け流した。
―――
幽々の面談の時間が来た。
白澤幽々《ゆゆ》が保健室に入っていくのを見送って、私は廊下の壁に背を預けた。待つしかない。
ぬいが鞄から半分だけ顔を出す。
「なゆのせいじゃな、この濃さ」
「え」
「あれは向こう側の存在じゃ。閉じた場所に長居するほど、その空間の境界が削れる。今日は特に濃い」
「……なゆさん、それ知ってて来てるの?」
「さあ。知っとるんじゃないか」
「なんで来るの、じゃあ」
「さあ」
「さあしか言わないじゃん」
「わしには分からん」
そこで、ぬいが急に黙った。
口だけ少し開けたまま、鞄の縁から半分身を乗り出して、ぴたっと動かなくなる。
「どうした」
「……わしも少し、引かれる感じが」
「え、ぬいも?」
「ここ、なかなかに濃い。長居はしたくない」
「だったら出てくるな」
「おぬしが閉じたせいで出てきたんじゃ!」
「鞄の中にいろ!」
「言われんでも戻る!」
ごそっと潜っていくのを確認してから、私は廊下に視線を戻し、さっき入っていった生徒たちのことを考えた。
向こうに引かれかけている。まだ浅い。
浅い、って何なんだろう。
保健室から出てきた子が、またぼんやりした顔で廊下を歩いていく。壁にぶつかりそうになって、ふらっと方向を変えた。眠いんじゃない。歩き方が軽すぎる。
ツン――と鼻をつく消毒液の匂いが、廊下にまで薄く流れてくる。
―――
幽々の面談が終わった。
扉が開いて、幽々が出てくる。私は「どうだった」と聞こうとして、やめた。三人のルールだ。聞かない。
「ゆらちゃん、待ってたの」
「いや、どうせここにいたから」
「……ありがとう」
幽々はそれだけ言って、少し廊下の先を見た。今日の幽々は、いつもより少しだけ色が薄い気がした。気のせいかもしれない。
幽々が歩いていくのを見送り、私は保健室に入った。
「なゆさん」
「はい」
「あの子たち——保健室に来てた子たち、なゆさんがいるせいで引かれかけてるって、知ってた?」
なゆが手帳を閉じる手を、止めた。
「……知っていました」
「じゃあなんでいんの」
「幽々さんのカウンセリングが必要だからです」
その言い方が真っすぐで、私は言葉に詰まった。
「だからって——」
奥のカーテンが揺れた。
誰もいないのに。
「ゆら!」
ぬいが鞄の中から飛び出してきた。体当たりするみたいな勢いで。その弾みで鞄がひっくり返り、教科書とルーズリーフとぬいが一緒に床に散らばった。
「あっ!」
拾おうとしてかがんだ瞬間に、床の感触が消えた。
薄い膜を踏み抜く感覚。足が、そのまま抜けていく。
「え、なんで私が——」
死んだ。
床に転がったぬいが、上を向いたまま一言言った。
「……鞄のせいにするでないぞ」
なゆが静かに私を見下ろした。
「……また私です」
―――
向こう側の保健室は、同じ形の部屋だった。
ただ、日の差し方がおかしい。窓の外は明るいのに、部屋の中だけ一段曇っている。ベッドの白いカーテンは誰も触れていないのに、ゆっくりと揺れている。消毒液の匂いが、どこか遠くから漂ってきている。
天井を見上げた。普通の保健室の天井だ。
ドアを開ける。廊下に出る。歩く。
また保健室の扉があった。
開ける。同じ部屋に戻る。
「……なにこれ」
どのドアを開けても、保健室に戻ってきた。廊下が続かない。階段に出ない。外に繋がらない。
眠れないのに横になれる場所。出口のない安静。
ベッドに手を触れてみた。
「……こっちのほうが、ちょっとふかふかじゃない?」
遠くから声がした。
「向こう側のベッドに品質を求めないでください」
なゆだ。カーテンの向こうから、穏やかで事務的な声が届く。
「聞こえてんじゃん! だったら早くそっちに戻して!」
「今処理中です」
「死人を待たせるな!」
「少々お待ちください」
「少々って何分?」
「時間の概念は、そちらとこちらで変わっていますので、なんとも――」
「不親切すぎる!」
でも声が聞こえる。向こう側まで届く、なゆの声。
それがあれば、戻れる。
―――
どれくらいたったのだろう。気がついたら、保健室のベッドに横になっていた。
白いカーテン越しに光が差している。外から生徒の声がする。普通の昼休みだ。
「影森さん、気分は」
なゆが横に立っていた。
「最悪」
「それは申し訳ありません」
養護教諭が駆け寄ってくる。「急に倒れて——」
「少し過換気だったようです。安静にすれば問題ありません」
なゆがさらっと処理する。先生が「じゃあ少し休んでいてね」と別の生徒の対応で席を外した。
幽々がそっとカーテンの内側に入ってきて、私の顔を見た。
「また死んだ顔してる」
「言い方やめて」
「正確だから」
「それはそう」
なゆが白い手帳を取り出した。
いつものように開く。いつものように私のページを見る。いつものようにペンを持つ。
——止まった。
「……今回は」
手帳を、閉じた。
「書きません」
私が目を丸くする。
「え……ラッキー?」
「ラッキーではありません」
「なんで書かないの」
「私に起因する死は、記録すると上位への報告義務が生じます」
「報告、したくないの?」
「……今回の件は、私の不手際です。保健室の境界が薄くなることは予測できた。対処できなかった」
「つまりなゆさんが悪いってこと?」
「結果として、そうです。ただ、今回は書きません」
「書けないのと書かないのって、違う?」
「……今回は書きません」
「今二回目それ言った」
「三回言います。今回は書きません」
「意地になってる!!」
幽々がそっと言った。
「……なゆさん、今ちょっと早口だったし、三回言った」
なゆが微妙な間を持った。
「……おふたりとも、昼休みが終わります。教室へどうぞ」
「話を打ち切った!!」
でも実際に昼休みが終わる。私は渋々ベッドから降りた。
廊下に出る前に、振り返った。なゆはもう窓のほうを見ていた。白いカーディガン。閉じた手帳を胸に抱えたまま。春の校庭を見ている横顔。
穏やかで、事務的で、でも少しだけ——何かを考えているような顔。
書けない理由と、書かない理由。どっちが重かったんだろう、と思いながら、廊下へ出た。
―――
放課後。校門を出たところで、スマホが鳴った。
朔夜からだった。
「何があった」
「なゆのせいで死んだ」
短い沈黙。
「……なゆが」
「保健室の境界が薄くなってて引き込まれた。帳簿も書かれなかった」
「そうか」
「それだけ? 心配とかないの」
「お前の学校、今学期も案件が出そうか」
「出そうというか、なゆがいる時点でもうじわじわしてるんだけど」
「だったらいい。次から学校でも配信回せ。昼休みと放課後、スマホで十分だ」
私は足を止めた。
「……は?」
「定点で回しとけ。素材になる」
「ちょっと待って。私の学校だから」
「知ってる」
「嫌。絶対嫌」
はっきり言った。
「配信しながら死ぬじゃん。学校で死ぬのがそのまま流れるじゃん。私が怪しいやつだってバレるじゃん。三つ全部嫌」
横で夜宵るなが「三つ言うの珍しいね、ゆらちゃん」とメロンパンをかじりながら言った。
「三つとも全部まともな理由だから!」
電話の向こうで、朔夜が少し間を置いた。
「借金が、減る」
止まった。
「え……今、なんて」
「学校案件は学生層のチャンネル登録者数を動かす。収益が増えれば返済に充てられる」
「それ本当に?」
「嘘はつかない」
「つかないだけで誤魔化しはするじゃん」
「今回は誤魔化してない」
「……どのくらい減る」
「案件の規模次第だ」
「案件の規模って、私がどのくらいひどい目に遭うかじゃん」
「そうだな」
「最悪」
しばらく黙った。
「……するとは言ってない」
「分かった」
「でもまあ……考える」
「分かった」
「考えるだけだから」
「分かった」
「なんで三回聞くの」
「お前が三回言ったから」
通話が切れた。
るなが「どうするのぉ」と聞いてくる。
「……どうしようかな」
「借金減るならいいんじゃないのぉ?」
「死ぬんだよ、毎回学校で」
「あ、そっかぁ……でもゆらちゃん、学校でも死んでるよぉ? 保健室で今日も死んでたし」
「……指摘が正確すぎる」
「えぇ?」
ぬいが肩の上からぽつりと言った。
「やるんじゃろ、どうせ」
「う る さ い」
「借金の話になった瞬間、声のトーンが変わっとったぞ」
「うるさいって言った」
春の夕方。制服の群れがバラけていく。自転車が追い抜いていく。普通の放課後だ。
なゆが手帳を閉じた音が、まだ頭の隅にある。書けないと書かないのどちらが重かったのか、なゆは最後まで答えなかった。
でも、私の頭の中はもう別のことを考えていた。
借金が減る。学校配信。
あーあ。
私って、現金な女だな。




