配信33回目 既読がつく部屋【中編】 ――書かないでは済まない
落下の先は、静かな廊下だった。
天井近くに、誰かの「ごめん」が浮いていた。
鬼灯なゆが、いつもより硬い顔をしていた。
私は、落下して死んだ。
不思議と、痛くなかった。
落ちた感覚はあった。夜の空気と、画面の白さと、「受付済」の文字だけを覚えている。
気づいたら、ここに立っていた。
ここは、廊下だ。
天井も床も白い。でも病院じゃない。役所でもない。
蛍光灯じゃない灯りが、どこからともなく滲んでいる。
窓がない。扉がない。でも閉じている感じもしない。
ただ、廊下が、ある。
「……また、ここ」
以前見た(※30話参照)受付の廊下に、雰囲気が似ている。
でも、違う。
あっちは整然としていた。
番号札。窓口。順番を待つ人影。
ここには、廊下の両側の壁に、紙片のようなものが、ぎっしり吊り下がっていた。
大きさも形もばらばらだった。
付箋みたいに小さいものから、便せんほどのものまで。
何かが書いてある。文字なのか、文字じゃないのか、遠くからだと分からない。
近づいてみた。
一枚、目の前で揺れているものを読む。
「ごめん」
一文字も、二文字もない。その三文字だけ。
送られなかった「ごめん」なのか、届かなかった「ごめん」なのか。
隣のものを読む。
「今から帰る」
その隣。
「また今度」
その隣。
「助けて」
息が、少し詰まった。
誰かの「助けて」が、ここに来ている。
答えてもらえなかった「助けて」が、届く先もなく、ここで揺れている。
「……ここ、なんだろ」
自分でも答えの分かりそうな問いを、でも声に出してしまった。
「返事を、待っている場所です」
声がした。
―――――
振り返った。
廊下の中ほど。
白い帳面を抱えた、見慣れた人物が立っていた。
鬼灯なゆ。
白っぽい髪。薄い琥珀色の瞳。境界記録局四課の記帳官。
いつも穏やかで静かで、何があっても事務的に見える人。
その顔が、今日はいつもより硬かった。
「なゆさん」
「はい。迎えに来ました」
いつもの「お迎えです」ではなかった。
それだけで、今回の重さが少しわかった。
「……また死んだ」
「はい。転落死です」
直球だった。
「もっと柔らかく言ってほしい」
「事実ですので」
それはなゆらしい。少しだけほっとする。
でもなゆは、帳面を開こうとした手を、一拍止めた。
それがほっとした気持ちを、すぐに消した。
「なゆさん」
「……はい」
「なんか、言いにくそう」
「少し」
なゆが帳面を開く。
ゆらのページ。正の字が何本も並んでいる。
「今回は」
なゆの声が、いつもより低かった。
「書かないでは、済みません」
その一言だけが、廊下にはっきり響いた。
―――――
「……そっか」
なんとなく予感はあった。
でも、ちゃんと聞くと重い。
「ここは何なの」
「返事を待っている言葉が集まる場所です。打って消した文章。送りそびれた言葉。届かなかった気持ち。それらが澱んで、経路になります」
「怪異の……」
「正確には、怪異そのものではありません。怪異が経路として使っている場所です。返事を待っている感情が、そこへ応答できる人を引き寄せる。今回の場合、その人があなたでした」
「応答できる、って」
なゆが少しだけ間を置いた。
「向こう側へ返事を返せる方は、そう多くありません」
「それ……花嫁因子、って関係ある?」
なゆの手が、帳面の上で止まった。
「今は、その段階では」
「答えてないじゃん」
「はい」
正直だった。
答えたくないんじゃなく、答えてはいけないのかもしれない。
「……向こう側に返事を返せることが、危ないの?」
「覚えられた後に、応答までできてしまうのは、わけが違います」
その言い方だけで、十分すぎた。
廊下の両側で、紙片が少し揺れた。
誰かの「また今度」が、こちらを見ている気がした。
―――――
なゆが帳面に視線を落とした。
沈黙が、長かった。
ゆらは何も言えなかった。
なゆが何かを言おうとして、言えていない沈黙の種類だと分かったから。
「なゆさん」
「……はい」
「嫌な話があるんでしょ」
「はい」
「聞く」
なゆは少しだけ視線を上げた。
帳面を見ていた目が、ゆらへ向く。
「今回の帰還には、清算が必要です」
「清算……また蘇生費が増えるとか?」
「それより、少し、重い話です」
嫌な予感が、静かに来た。
「……どのくらい重い」
「聞いていただかないといけない程度には」
なゆは、帳面から目を上げないまま言った。
「かなり遠い親族の方です」
「……え」
「ご本人は、もともと長く危うい状態でした。今回の帰還の際に、その方の最後の猶予が、こちらへ充てられた形になります」
「猶予、って」
「本来なら、もう少し先のはずでした。その余白を、今回の清算として使いました」
意味が、頭へ入る前に、胃のあたりが冷えた。
「……わたし、が」
「あなたのせいで亡くなったわけではありません」
なゆが、少しだけ早口だった。
「元から終わりに近い状態でした。今回はその猶予を数時間早めた形で、奪ったのとは違います」
「数時間、早めた?」
「……はい」
廊下が、静かだった。
紙片が揺れている。
誰かの「ごめん」。誰かの「また今度」。誰かの「助けて」。
ゆらは、しばらく何も言えなかった。
怒りたかった。
でも怒る先が、うまく見つからなかった。
なゆは悪意でやっているんじゃない。むしろ何度も不正して私を庇ってきた側だ。
だから余計に、どこへ向けていいか分からない。
「……それ、違うって言ってよ」
声が、思ったより小さかった。
「わたしが殺したわけじゃないって、ちゃんと言って」
「あなたが直接の原因ではありません」
「でも関係ある」
「……それは、否定できません」
そっか、と思った。
言い切れないなら、最悪だ。
「知らないうちに払われるの、いちばん嫌なんだけど」
なゆは何も言わなかった。
言えない、のだと思う。
「誰かの、何かを使って、わたしは戻ってきてるわけじゃん。今回もそれが起きた。でもわたしは何も知らなかった。知らなかったから、今ここでそれを聞いてる」
「はい」
「最悪だよ、それ」
「……はい」
なゆの声が、少しだけ変だった。
いつもの、完全に事務的な声じゃない。
「申し訳ありません」
漏れた、という感じだった。
言うつもりじゃなかったのに、言ってしまった声。
「こういう言い方は、本来しないのですが」
なゆが視線を逸らした。
帳面を抱き直して、指先が白い表紙の端を押さえる。
それだけで、分かった。
この人も、こういう話を告げるのが、平気なわけじゃない。
でも、告げなければいけない。
だから告げる。
怒れなかった。
泣きそうにも、なれなかった。
ただ、ここに立って、廊下の紙片を見ていた。
―――――
「また不正をすることになりますね」
なゆが言った。
今度は独り言じゃなかった。ゆらへ向けた声だった。
「……どういうこと」
「今回も、完全には記録しない方向で処理します。本来なら書くべき分が残りますが、余白を使います」
「いいの」
「よくはありません」
「じゃあなんで」
なゆは答えなかった。
答えの代わりに、帳面をゆっくり開いた。
ゆらのページ。正の字。
「次は、本当にありません」
その声に、感情があった。
穏やかではない、何か。
責めているわけじゃない。怒っているわけでもない。
ただ、切れる前の糸みたいな、張りつめた何か。
「今回がそうならなかったのは、夜見さんが間に合ったからです」
「……朔夜が?」
「現世側で、応答経路を断ちにかかっています。早ければ、もうすぐこちらの経路も閉じます」
廊下の向こうで、何かが変わった気がした。
空気が、少しだけ引っ張られる感じ。
朔夜の術だ。この感触は知っている。
「夜見さんが間に合えば、これ以上は減らさずに済みます」
なゆが帳面を閉じた。
音は、小さかった。
―――――
廊下の両側で、紙片が一斉に揺れた。
さっきより大きく。
揺れて、揺れて。
その中のいくつかが、こちらへ向き直った。
書いてある文字が変わった。
「ゆら」
「……え」
隣の紙片。
「ゆら」
その隣。
「ゆら」
全部。
廊下に吊り下がった紙片が、一枚残らず、ゆらの名前を向けていた。
「なゆさん」
「夜見さんが来ます。目を閉じないで」
遠くから、術の気配が来た。
現世の手触りを持った、強引な引き戻しの気配。
紙片が暴れる。
廊下の端が白く軋む。
「――影森さん」
なゆが、静かに呼んだ。
「また不正をすることになります」
それだけだった。
謝罪でもなく、許可でもなく。
ただの、確認。
朔夜の術の気配が、廊下を割った。
続く。
■ 登場キャラクター紹介
▶ 影森ゆら(主人公・女子高生)
今回また死んだ。転落死。ベランダから落ちた。「書かないでは済まない」と告げられ、初めて「知らないうちに誰かのものを使って戻ってきた」という事実を直接聞かされた。怒れなかった。怒る先がなかった。
▶ 鬼灯なゆ(境界記録局四課・記帳官)
今回は「告げる側」に立った。いつもの穏やかさの底に、きつく張ったものがある。「申し訳ありません」と漏らした瞬間は、本来言うべきではない言葉だった。それでも漏れた。また不正をする、と言ったのは、説明でも謝罪でもなく、ただの確認だった。
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■ 今回の解説
今回の死後空間は、「返されなかった言葉が集まる場所」です。メッセージアプリの怪異が経路に使っていた場所であり、返事を待ち続けた感情が形になった廊下。そこに吊り下がっているのは、誰かの「ごめん」や「また今度」や「助けて」です。
ゆらがここに引かれたのは、向こう側へ応答できてしまうから。「見えるだけ」ではなく「返せてしまう」ことが、今章のゆらの危うさの核です。花嫁因子について、なゆは答えませんでした。答えてはいけないのかもしれません。ただ「向こう側へ返事を返せる方はそう多くない」とだけ言った。
今回、なゆはゆらに「清算」の話を告げました。遠い親族の方の最後の猶予が、ゆらの帰還に使われた。奪ったのとは違う。でも、知らないうちに払われた。ゆらが怒れなかったのは、なゆが悪意でやったのではないと分かっているから。怒る先がない怒りは、どこへも行けずに残ります。
次回(後編)、ゆらは現世に戻ります。
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