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影森ゆらは今日も死ぬ ――死後も無理やり働かされます  作者: 勇者ヨシ君
第一章 死んでからが勤務時間――蘇生費は給料から引かれます(初春)

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31/65

配信30回目 蒐集の影④ ――向こう側が、名前を覚えた

 前借りは、もう終わり。

 なのに終わらないものが、向こう側から手を伸ばしてきた。

 ここから先は、たぶん今までより悪い。

「っ、か……はっ……!」


 息が、うまく入らない。


 胸の奥で張っていた糸が、今度は「引かれる」じゃなく「巻き取られる」感覚に変わっていた。

 喉の奥が冷たい。肺じゃない、もっと深いところを誰かに掴まれて、そのまま向こうへずるずる引きられていくみたいだった。


 床に膝をつく。


 視界が二重になる。

 古い事務所の机。書類。配信機材。安っぽい天井灯。

 その上に、別の景色が重なって見えた。


 白い廊下。

 番号札。

 窓口。

 無機質な灯り。

 そして、順番待ちみたいに並んだ、顔のない人影。


「……っ、やだ……」


 壁際の空気がめくれた。

 白い手が、名刺でも差し出すみたいに静かにこちらへ伸びてくる。


影森かげもり、目ぇ閉じるな!」


 朔夜さくやの声が飛ぶ。

 でも無理だ。人間、首の奥を掴まれてる時に平常心なんて(たも)てない。


 ぬいが胸元でわめいた。


「来とる来とる来とる! 仮保全の引きじゃ! 正式化の手前じゃぞ!」


「実況すな!!」


 ――そう、叫んだつもりだった。

 でも声はうまく出なくて、代わりに咳だけがひゅっと漏れた。


 そのときだった。


 ぱたん、と紙の音がした。


 鬼灯ほおずきなゆが、白い帳面を開いた。


 静かな人。

 声も、立ち姿も、いつも困るほど静かだ。

 でもその瞬間だけ、事務所の空気が少し変わった。


「――記録、仮留めします」


 なゆの声は、いつも通り小さかった。

 なのに、その一言だけが妙にはっきり聞こえた。


「鬼灯、お前――」

「規定違反です。知っています」


 なゆは帳面に何かを書きつける。

 細い指。白い紙。黒いインク。

 それだけの光景なのに、壁から伸びた白い手がぴたりと止まった。


「帰還未確定。取得審査、保留。……三十秒だけです」


()()()


 朔夜が即答した。


 次の瞬間、札が飛んだ。


”位相固定”(フェイズ・ロック)


 白い手が空中できしむ。

 見えない輪郭ごと釘で打ち留められたみたいに、空気のひずみがそこで固まった。


 朔夜は間髪入れず、もう一枚を指に挟む。


”逆探封鎖”(バックトレース)


 ぴし、と音がした。

 胸の奥の糸が一瞬だけ緩む。


 私はようやく息を吸って、床へ手をついた。


「げほっ……! な、に今……っ」

「お前を回収しに来た」

「さらっと言うな!」


 白い手は、まだ消えていない。

 ただ、固定されている。

 壁の裂け目の向こうには、受付窓口みたいな無機質な白さがまだ見えていた。


 そして、その白さの奥で。


 こんこん、と現実的すぎるノックの音がした。


 事務所の入口から。


 全員の視線がそっちへ向く。


 古いドアの向こう。

 すりガラスの向こうに、人影が一つだけ立っていた。


「失礼します。一般財団法人 日本蒐集商会にほんしゅうしゅうしょうかいです」


 やわらかくて、感じのいい女の声。


 その時点で、もう嫌だった。


―――――


 朔夜がドアを開ける。


 立っていたのは、ベージュ寄りのスーツを綺麗に着た女だった。――前に会った。

 年齢は二十代後半くらいに見える。髪も爪も整っていて、笑顔も作り慣れている。保険の見直し相談です、と言われたら普通に信じそうな空気がある。


 でも、その人が持っていたものが最悪だった。


 名刺入れ。

 タブレット端末。

 クリアファイル。

 そして、署名欄つきの書類。


挿絵(By みてみん)


買付主任かいつけしゅにん針目はりめゆいと申します。影森ゆらさんの件で、正式なご案内に参りました」


「いらん。帰れ」


 朔夜が一秒で言った。


「そうおっしゃらず。ご本人もお困りでしょう。急な事故、繰り返す死亡、生活上の不安。そうしたものに対して、私どもは適切な保全と管理のご提案(プレゼン)ができます」


「営業トークの内容、まったく理解できないんだけど」


 私が言うと、針目はそこで初めてこちらを見た。


 目が合った瞬間、ぞっとした。


 笑っている。

 笑っているのに、値札を見ている目だった。


「ああ、よかった。会話可能な状態なんですね」

「よくない」

「本日はまず、仮保全対象個体への説明義務を果たしに来ました」


 タブレットがこちらへ向けられる。


 画面には、私の名前が出ていた。


 対象名:影森ゆら

 区分:越境接触個体

 状態:仮保全中

 評価:残存性 良好/帰還率 高/再接触適性 高


 その一行一行が、吐き気がするほどきれいだった。


「……なにそれ」

「現時点の簡易査定です。大丈夫ですよ。珍しいだけで、違法ではありません」


「違法の塊みたいな見た目で何言ってんの」

「ご本人の同意が得られれば、より安全な運用へ移行できます」

「話聞けよ!てか、運用って言った!」

「言いましたね」

「こわっ……!」


 ぬいが胸元から小声で言う。


「やっぱり値札屋じゃの……」

「今さら感あるな!?」


 針目はこちらが何を言おうと、まったく動じなかった。

 同じ人間とは、とても思えない。どういうメンタルをしているのだろうか?


「現在のままでは、影森さんは引力の強い状態にあります。死の帳尻も、仮保全も、どちらも不安定です。けれど私どもにお預けいただければ、少なくとも“無駄死に”は減らせます」

「お前らの“無駄”判定で人の人生を勝手に区分すんな」

「ですが、現実的でしょう?」


 その一言だけ、少し温度が下がった。


「夜見さんのところに居続ければ、死後接触は増える。帳尻は重なる。正式取得前に損耗が進めば、評価も落ちる。ご本人にとっても不利益です」


「損耗って言った……」

「査定用語ですので」


 なゆが、その横から静かに口を挟んだ。


「未成年への現場接触としては、ずいぶん強引ですね」

「あら、鬼灯さん。四課の方がいらっしゃるとは思いませんでした」

「私も、”結い手(ゆいて)”の貴方が直接来るとは思っていませんでした」


 針目は初めて、笑顔のままなゆを見る。


「審査前のご挨拶です。規定の範囲ですよ」

「未帰還状態への接触は?」

「保全確認です」

「事務所内への侵蝕しんしょくは?」

「行き違い、でしょうか」


 にこやかに言う内容が全部いやらしい。


 朔夜が舌打ちした。


「結いゆいてが前に出てきた時点で、穏便(おんびん)に済ます気はないな」

「穏便ですよ。書類もありますし」


 針目はファイルから一枚抜いた。


 紙はちゃんとした書式だった。

 怖いくらい、ちゃんとしていた。


 上部に財団法人のロゴ。

 担当者名。

 確認事項。

 同意欄。


 そして最下部に、小さくこうあった。


 『承認者:理事長 天原あまはら久遠くおん


 その名前を見た瞬間、事務所の空気がまた少し変わった。


 朔夜の目が細くなる。

 なゆの筆先が止まる。

 ぬいが、はっきり身を縮めた。


「……誰」

 私が訊く。


 針目は、営業用の笑顔を崩さず答えた。


「私どもの理事長です。使えるものを無駄なく残す、という方針の方でして」

「いちいち言い方が気持ち悪いな……」


 そのとき、朔夜のスマホが震えた。


 画面を見て、彼はすぐ通話を繋ぐ。


真琴まこと、今どこだ」

『編集室。というか、嫌な予感がしたので待機してました』

「配信回せるか」

『その言い方の時、だいたい徹夜(地獄)で死ぬんすよね』

「回せ」

『了解です』


 針目の眉が、ほんの少しだけ動いた。


「……配信、ですか?」

「そうだ」


 朔夜が机の上のカメラを起動する。

 待機ランプが青から赤に変わる。


「影森、起きろ」

「いや起きてるけど」

「前へ出ろ」

「また私!?」

「本人確認と現場記録が要る」


 最悪の理由だった。

 でも、たしかに必要なのも分かった。


 真琴の声がイヤホンから入る。


『録画優先、限定公開で回します。コメントは切ります。あとで公的機関提出用に編集します』

「なんでそんな手慣れてるの」

『この事務所にいると、だいたいそうなります』


 針目の笑顔が、今度はほんの少しだけ薄くなった。


「それは少々――()()()()

「だろうな」


 朔夜が低く言う。


「未成年の仮保全個体へ、取得前接触。事務所内侵蝕。帰還不確定状態への営業。配信記録に残れば、少なくとも“穏便なご案内”では済まない」

「夜見さん。それは脅迫ですか?」

「記録だ」


 なゆが帳面を閉じた。


「四課側でも照合します」

「鬼灯さんまで」

「困りますか」

「少し」


 針目はそこで、初めて小さく息を吐いた。

 ずっと作っていた営業スマイルの顔が一枚剥がされる。


 その瞬間、イヤホン越しらしい男の声が、タブレットから漏れた。


『結い手。長引かせるな』


 低くて乾いた声だった。

 人を数字でしか見ないような、冷たい声。


『保全対象の損耗率が上がる。仮取得のまま価値を落とすな』

雨庭あまにわさん、周りに聞こえてますわ」

『なら話が早い。夜見、鬼灯、どちらも感情で動きすぎだ。残るものに値段をつけるのは、そう悪いことじゃない』


「はじめましてで、印象最悪の人だな!」


 思わず口に出てしまった。


 タブレット越しの男は、一瞬だけ黙ったあと、少しだけ面白がる声音になった。


『影森ゆら。会話反応良好。今の発話も記録対象だ』

「記録すんな!」

『しかし、よく残る個体だな』

「……は?」


 その言い方が、妙に引っかかった。


『普通はそこまで戻らない。普通はそこまで覚えられない。普通は、そこまで“残らない”』

「雨庭」


 朔夜の声だけが、わずかに低くなる。


『ああ、失礼。まだ説明前でしたか』


 針目が、すっとタブレットを引いた。

 でも遅かった。


 画面の一瞬の反射で、私は別の欄を見てしまった。


 備考:よく残る個体/上位適合候補/花嫁因子(ブライダル・コア) 反応あり


 心臓が、嫌な打ち方をした。


「……なに、それ」


 針目は笑顔へ戻った。

 戻ったけど、もうだめだ。

 この人たちの笑顔は、見たあとで戻らない。


「まだ確定ではありません。ですので、本日はご案内だけで」

「花嫁ってなに」

「今はその段階ではありません」

「じゃあどういう段階なの」

「説明より先に、保全が必要な段階です」


 雨庭が、そこで一度だけわざとらしく咳払いした。


『正式呼称を出すなら、誤魔化さずにどうぞ』

「雨庭さん」

『査定上の共通語だ。隠す意味がない』


 短い沈黙のあと、針目がやわらかい声で言った。


「……”神の花嫁因子”(ゴッズブライダルコア)

「は?」


 意味が、頭に入る前に嫌悪感だけが来た。


「死後側との親和性。帰還時の残存率。高位存在への接続耐性。そういった複数指標の総称です。ごくまれに、向こう側から“器”として好まれやすい個体に反応が出ます」

「器って言った?」

「用語上は」

「お前らほんと最低だな!」

『候補段階なら、まだ幸運な方です』


 雨庭の声は平坦だった。


『完全反応個体は、だいたい途中で壊れる。戻れない。人格が摩耗まもうする。身体側が持たない。記録も安定しない。だが君は違う。何度落ちても残る。だから値がつく』

「値がつくって言うな!」

『商品性の説明だ』

「最悪の説明だよ!」


 針目は、言葉を選ぶように続けた。


「理事長は、この反応を“損失なく残せる可能性”として見ています。ですので、乱暴に扱うつもりはありません。むしろ大切に」

「その言い方がいちばん怖いんだけど!」

「ご安心ください。適合が進む前なら、保全環境での観測も穏やかに済みます」

「適合って何」

向こう側(あの世)が、より強く貴方を覚える前に――」

「やめろ」


 自分でもびっくりするくらい、強い声が出た。


「それ以上、私のことを勝手に決めるな」

「影森さん――」

「わたし、行かないから」

「今は不安でも当然です」

「そういう営業返しやめろ」

「安全な場所で、適切に管理されるだけです」

「それをおりって言うんだよ!」


 言った瞬間、朔夜がこちらを見た。


 ほんの一瞬。

 でも、その視線だけで分かった。


 今の一言は、たぶん朔夜にも刺さっている。


―――――


「話は終わりだ」


 朔夜が前へ出た。


影森(ゆら)は渡さない」

「ご本人の意思だけでは済まない段階です」

「だから何だ」

「......もう向こう側が覚え始めています」


 それを言ったのは、針目じゃなかった。


 ()()だった。


 静かで、困ったみたいな声で。

 でも、その一言だけがいちばん重かった。


「今回の接触で、正式取得は止められます」

「ほんとか」

「今日のぶんは、です」


 なゆは私を見る。


「ですが、“覚えられた”事実は消えません。向こう側はもう、貴方をただの通過者ではなく、戻ってくる個体として認識しています」


 ぞっとした。

 でも、なゆは脅していない。

 ただ、数えているだけだ。


「本日の接触記録、四課にも残します」

「鬼灯さん、それは」

貴方(蒐集)が先に規定(ルール)を踏み越えました」


 針目はしばらく黙っていた。

 それから、すっと名刺だけ机の上へ置いた。


「……では、本日はここまでとします」

「二度と来るな」

「それは無理ですね」

「即答かよ」

「理事長案件ですので。――また来ます。」


 最後に針目は、私へ向かってほんの少しだけ深く、頭を下げた。


「影森さん。いずれ、貴方のほうから連絡が必要になります」

「いらない」

「死にたくなければ、なおさらです」


 そう言い残して、彼女は出ていった。


 タブレットの通話が切れる寸前、雨庭の声がもう一度だけ聞こえた。


『結い手。名刺は置いてこい。覚えた相手は、自分で辿(たど)る』


 ぶつ、と切れた。


 最悪すぎて、部屋が少し静かになった。


挿絵(By みてみん)


―――――


 しばらく、誰も喋らなかった。


 事務所の古い換気扇の音だけが、やけに大きく聞こえる。

 胸の奥の糸は、まだ残っている。

 でもさっきみたいな強い引きは消えていた。


 真琴の声がイヤホンから入る。


『録画、保存しました。バックアップ用NAS(ネットワークディスク)の限定保管フォルダにも複製しておきます』

「サンキュ」

『どういたしまして。あと、次から“普通の営業です”みたいな顔した連中ほど録っといてください。いちばんろくでもない奴らなんで』

「今回のでよくわかった」

『はい。お疲れさまです』


 通話が切れる。


 私はようやく、床からちゃんと立ち上がった。

 足が少し震えている。


「……これで、終わったの」

「今のところは、な」


 朔夜が机の名刺を見る。

 その顔が、珍しく少しだけ険しい。


「蒐集の正式取得は今日の記録で止まる。少なくとも、すぐには来ない」

「すぐじゃなかったら来るってこと?」

「いずれ来る」

「最悪」

「だが、向こうも記録を嫌う。次はもっと()()()()


 なゆが帳面を抱き直す。


「私はこれで戻ります」

「なゆさん」


 呼ぶと、なゆは振り返った。


「……さっきの、ありがとう」

「礼には及びません」

「いや、でも」

「ただ」


 そこで、なゆは少しだけ困ったように目を伏せた。


「もう本当に、書かないのは限界です」

「うん」

「次からは、誰かがきちんと払うことになります」

「それ、すごい嫌な言い方」

「事実ですので」


 いつもの静かな声。

 でも、少しだけ優しかった。


「それでも今日は、止められました」

「……はい」

「なら、今日はそれで十分です」


 なゆは小さく頭を下げて、事務所を出ていった。


 白いコートの背中が、すりガラスの向こうで薄れて消える。


―――――


 残ったのは、私と朔夜とぬいだけだった。


 ぬいは机の上の名刺を遠巻きに見ながら、ふるふるしている。


「触るなよ、それ」

「分かっとるわ! いやじゃあんなもん!」


 私はソファへ腰を落とした。

 力が抜ける。

 抜けた瞬間、さっき見た文字列が頭へ戻ってきた。


 よく残る個体。

 上位適合候補。

 神の花嫁因子(ゴッズブライダルコア)


「……ねえ」

「なんだ」

「さっきの、見た」

「何を」

「花嫁、って書いてあった」

「……」

「何、それ」


 朔夜はすぐには答えなかった。

 いつものみたいに雑に誤魔化すかと思ったのに、今日は違った。


 少しだけ黙って、それから低く言う。


「今はまだ、向こうが勝手にそう呼んでるだけだ」

「答えになってない」

「今は、それ以上言えない」


 腹が立った。

 立ったけど、さっきより少しだけ違う。


「……じゃあ、ひとつだけ」

「何だ」

「わたしを、渡す気あった?」


 その問いだけは、ちゃんと聞きたかった。


 朔夜はこっちを見た。

 まっすぐ、珍しく逸らさずに。


「ない」


 短かった。

 でも、嘘じゃない声だった。


「高く売れそうでも?」

「ない」

「やけに即答だね」

「お前を売るくらいなら、もっと先に切るものがある」

「何それ」

「登録者だ」

「そこ!?」


 思わず怒鳴ったら、ぬいが吹き出した。


「ひゃっひゃ。そこは金ではないんじゃな」

「黙ってろ。綿全部抜くぞ!」


 でも、そのやり取りのせいで少しだけ呼吸が戻った。

 最悪な空気のまま終わらないように、わざといつもの調子へ戻してくれてるのかもしれない、と思ってしまって、ちょっとだけ悔しい。


 朔夜が、自分のコートをこっちへ投げてよこした。


「着ろ」

「……え」

「冷えてる。向こう側に寄りすぎた後は体温が落ちる」

「知ってるなら最初から優しくしろ」

「それは別料金だ」

「ほんと性格終わってるな!」


 でも、コートはちゃんと温かかった。


 事務所の古いにおい。

 煙草の(ヤニ)のくささ。

 安いコーヒー。

 配信機材の熱。

 そういう全部が混ざってて、最悪なのに少し安心する。


 それがまた、腹立たしい。


「……終わった感じ、全然しないんだけど」

「するわけないだろ。終わってない」


 朔夜はぶっきらぼうに言った。


「向こうは諦めない。お前もたぶん、諦めない」

「なんでそこだけ分かってんの」

「面倒なやつだからだ」

「悪口!?」


 たしかに、その通りだった。


 借金は消えていない。

 仮保全は止まっただけ。

 死の帳尻もなくなっていない。

 しかも向こう側には、名前を覚えられた。


 なのに。


 それでも、今日はまだこっちにいる。


 その事実だけが、今はやけに大きかった。


 机の上で、スマホが震えた。


 全員の視線がそこへ向く。


 通知はメールだった。

 差出人不明。

 件名は、たった一行。


 影森ゆら様 正式なご挨拶は、また改めて――天原久遠


「うわ……」

「読むな」

「いやもう件名で最悪なんだけど」


 朔夜がスマホを取り上げて、そのまま伏せた。


「今日はもう終わりだ」

「ほんとに?」

「少なくとも今日のぶんは」


 少なくとも。

 今日のぶんは。


 その言い方が、この街らしかった。


 私はコートを抱えたまま、ゆっくり息を吐く。


 ただのブラックバイト怪異譚だと思っていた。

 死んで、働かされて、借金が減らなくて、理不尽で最悪なだけの話だと思っていた。


 でも違った。


 その向こうに、

 死んだあとを数えるやつがいて、

 死んだあとに残る価値へ値札をつけるやつがいて、

 そのさらに上で、人を“用途”で見る名前がある。


 今日、ひとまず追い返しただけだ。

 だけど、向こうはもう来た。

 来て、私の名前を見て、数字をつけて、変な言葉まで残していった。


 それが、やけにまずいことだけは分かる。


 そう思ったところで、ぬいが胸元で小さく丸くなる。


「……やれやれじゃの」

「なにが」

「おぬし、ほんとうに覚えられてしもうた」


 それは、ちっとも冗談みたいに聞こえなかった。


 第1章・了


 第2章に続く。



ゆら「配信履歴って、消したところで本当に消えるのかな。」


――――


【登場キャラクター】


影森(かげもり)ゆら

 本作の主人公。仮保全の引きに触れ、ついに自分が“向こう側に覚えられている”存在だと突きつけられた。今回は、ただ巻き込まれるだけではなく、蒐集側から明確に“選別される側”として見られた回でもある。


夜見(よみ)朔夜さくや

 怪異相談屋。今回も来るもの全部に対して口は悪いが、蒐集商会に対してははっきり「渡さない」と言った。ゆらの問いにも短く本音で返しており、関係性が一段だけ進んだ。


鬼灯(ほおずき)なゆ

 境界記録局きょうかいきろくきょく四課よんか記帳官きちょうかん。規定違反を承知で三十秒だけ記録を仮留めし、ゆらの正式取得を今日のぶんだけ止めた。静かだが、かなり危ない橋を渡っている。


針目(はりめ)ゆい

 日本蒐集商会の買付主任。保険営業みたいな顔で近づいてきて、中身だけ全部怖いフロント担当。感じが良いのに、人を人として見ていない感じが最悪。


雨庭(あまにわ)あきら

 蒐集商会の査定監督官。現場に出ず、端末越しに価値と損耗だけで人を測る嫌な上司枠。今回は《神の花嫁因子》という不穏な査定語をさらっと出してきた。


天原(あまはら)久遠くおん

 日本蒐集商会の理事長。今回は名前と気配だけの登場だが、それだけで十分に嫌な圧を残した。


|ぬい

 いつもの相棒。びびっていたが、最後の「覚えられてしもうた」がだいぶ本質。


【今回の話について】


 今回は、蒐集商会との一時決着と、もっと大きな不穏の入口を同時に置く回でした。

 仮保全の正式取得は、配信記録と四課側の照合で“今日のぶんだけ”止まりました。ですが、ゆらが“よく残る個体”として向こう側に認識されている事実は消えていません。


 また、蒐集商会は怪異を起こす側ではなく、「怪異のあとに残ったもの」へ値札をつける側として、はっきり輪郭が出ました。

 そこに加えて、今回ちらっと出た ”神の花嫁因子”(ゴッズブライダルコア) という査定語が、今後かなり不穏な意味を持ってきます。現時点では蒐集側が勝手に使っている言葉にすぎませんが、ゆらがただの巻き込まれ役ではないことだけは、もう隠せなくなりました。


 そして最後に残ったのは、

 借金は消えていない。

 死の帳尻も残っている。

 蒐集商会もまだいる。

 それでも今日は帰ってこられた、という事実です。


 その“今日のぶんだけ”が、たぶん次の話ではもう通じません。


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