配信29回目 蒐集の影③――前借りはもう、できません
生まれて初めて異性の部屋に泊まった。
なのに、その事実がどうでもよくなるくらい、今の私はやばかった。
古い事務所に染みついた、タバコの脂の臭いみたいなにおいが、朝いちばんに鼻を突く――
借金が、三重苦になっていた。
夜見朔夜への四千六百九十三万円。
蒐集商会による仮保全。
そして、鬼灯なゆの帳面に積み上がった、死の借金。
全部、同時に限界だった。
――私が死んだ次の日。
朝が来た。
それ自体が、少し信じられなかった。
目を開けると、もはや見慣れ始めてしまった事務所の天井があった。安っぽいシーリングライト。黄ばんだ壁。雑多な書類と機材の気配。ソファじゃなく、床に毛布を一枚だけ敷かれていて、背中が普通に痛い。
そして、鼻の奥に残る古いビルの湿気と、コーヒーと、機材の熱と、タバコの脂のくさい匂い。
昨日、電車に轢かれた。
その事実が、まだうまく頭の中で馴染んでいなかった。
手足は動く。指も、脚も、ちゃんと自分のものだ。胸のあたりの痛みは昨日より引いていたけど、その代わり、違う感覚が残っている。胸の奥の少し深いところに、ぴんと一本、見えない糸みたいなものが張っている感じ。
仮保全の印だ、とぬいが昨日言っていた。
持ち主に向かって戻っていく印。
その「持ち主」が、自分じゃないから最悪なのだ。
「……起きたか」
朔夜の声がした。
カウンターの向こうで、いつものように書類を見ている。コーヒーを飲んでいる。顔だけは相変わらず整っていて、やはり見ていると腹が立つ。彼の様子を見ていると、昨日わたしが死んだことまで、この人の日常の範囲に収まっているらしかった。
イライラする。
でも、いつも通りのその普通さが、今は少しだけ私の心の安定剤になっている。
「……おはよ朔夜」
「いつも以上に汚いガラガラ声だな」
「ひど!――電車に轢かれたから」
「次はちゃんとコートを着て帰れ。風邪をひかないよう、防寒は最低限しろ」
「なにそれ?!関係ある!? そこ!?」
「ある。次の配信がで視聴者を稼げなくなる」
「こんな時にまで自分のことかよ!最低!」
怒りのまま、毛布を乱雑に押しのけて起き上がる。机の端にはコンビニの袋が置いてあった。サンドイッチと、温かいお茶。
わたしの分らしかった。
言葉では絶対に認めないくせに、こういうことだけはやる。そういうところが、いちいちむかつく。
「……ありがと」
「食いながらでいい。話がある」
「その言い方だと、オマエの優しさが全部帳消しなんだけど」
「優しくした覚えはない」
「最悪...私の”ありがとう”を返せ!.」
それを聞いていた”ぬい”が胸元で小さく笑った。
「ひゃっひゃ。朝から景気のよい夫婦喧嘩じゃの」
「違う!」
「違う」
「ハモるな!」
―――――
サンドイッチを一口かじってから、スマホを開いた。
通知が、たまっていた。
当然だ。昨夜から一度も見ていない。いや、見る余裕なんてなかった。死んで、戻されて、仮保全されて、気がついたらこの事務所の床で寝ていたのだから。
るなからのレインが六件。
『ゆらちゃ〜ん、どこぉ〜?』
『ちゃんと帰れてるぅ〜?』
『既読つかないのこわいよぉ〜』
『ごはん食べたぁ〜?わたしは5杯目だよぉ~』
『生きてるぅ〜?』
『へんじしてぇ〜……』
最後の一文が、今朝の七時台だった。
その下に、白澤 幽々から一件。
『昨日の帰り、駅で何かあった? 路線の乱れ、あの時間にしては変だった。ゆら、大丈夫?』
短い。
でも、重い。
幽々は余計なことを言わない。言わないけど、見ている。調べて、考えて、そのうえで必要なことだけ送ってくる。だからこの一件だけで、もうある程度察されているのが分かった。
さらに下。ママから三件。
『今日帰ってくる?』
『友達の家って言ってたけど、どこ?』
『最近、なんか変だよ。顔色もそうだけど、どっかに行ってるみたいな感じがする。心配してる』
最後の一文で、指が止まった。
最近、なんか変だよ。
そりゃそうだ。
死んで戻ってきて、帳面に死の借金を溜めて、蒐集商会に仮保全されて、胸の奥には向こう側へ引っ張られる糸みたいな感覚がある。
普通なわけがない。
ママは怪異なんて知らない。境界も、死後接触も、仮保全も知らない。知らないまま、それでも「変だ」と感じている。
そのことが、妙にきつかった。
わたしだけが知っている異常が、日常の側からも滲み始めている。
こっちとあっちの境目に、自分の足がちゃんと乗っていない気がした。
画面の反射に映る自分の顔は、寝不足というより、少し薄かった。向こう側の光が、まだ肌に残っているような――いやな薄さ。
それでも、返信はしなきゃいけない。
『友達の家、もう一泊することになった。今日は大丈夫。明日には帰る』
嘘をついて送る。
すぐにるなへも返した。
『生きてる。今はたぶん大丈夫』
『ほんとぉ〜!?』
『ほんと』
『たぶん、ってなにぃ!?』
『そこは流して』
幽々には少しだけ考えてから打った。
『駅でちょっとあった。でも今は戻った』
『戻った、って言い方やめて』
『ごめん』
『あとで話して』
『うん』
その「あとで」が、ちゃんと来る保証はあるんだろうか。
そんなことを考えた瞬間、キュッ――と胃の奥が冷えた。
お茶をひと口飲む。ちゃんと熱い。ちゃんと味がする。少しだけ、安心する。
……まだ、私はこっち側だ。
そう確認しないと落ち着かない自分が、いちばん嫌だった。
―――――
「――で、話って何」
サンドイッチを半分ほど食べたところで聞くと、朔夜は書類から目を上げた。
「仮保全の説明だ」
「昨日は説明する空気じゃなかったけど」
「昨日はお前が死んだ直後だった」
「今日は?」
「今日のお前には、まだ話を整理できる余裕がある」
「その基準こわいな」
「また、話ができなくなる前に聞け」
「私が死ぬ前提で話すのやめて!」
わたしはサンドイッチを持ったまま、むっとした。
「……で」
「蒐集商会の仮保全は、候補個体の一時確保だ。正式取得前の仮押さえと思え」
「人をチケット予約みたいに言うな」
「向こうはそういう感覚で見てる」
「最低……」
朔夜は淡々と続ける。
「仮保全された個体は、向こう側からの引力が強くなる。死にやすくなるというより、向こう側へ落ちやすくなる」
「……解除は?」
「向こうが手を放すか、お前の価値がなくなるか」
「価値がなくなる、って?」
「死後接触ができなくなる。あるいは、採る意味がなくなる」
「つまり、わたしがバイトやめて普通の生活に戻れたら」
「理論上はな」
「理論上……」
「今の状態でそれをやると、お前は先に引かれる」
「うわ最悪」
ぬいが肩口でもぞりと動いた。
「今のおぬし、だいぶ磁石じゃからの」
「たとえが軽い!」
「実態は重いぞ」
わたしはサンドイッチを置いた。お茶も置いた。机に指をついて、ひとつずつ整理するみたいに数え始める。
「えっと。朔夜への借金が四千六百九十三万円」
「正確には――」
「細かい数字、今いらない!」
「四千六百九十三万と端数が――」
「黙れ――もういい。で、それが一つ目」
指を一本折る。
「蒐集商会の仮保全。正式取得されたら終わる。それが二つ目」
二本目。
「なゆさんの帳面。死んだ分、戻った分、書かれてない分の帳尻。それが三つ目」
三本目。
「……三方向から追い込みかけられてるじゃん」
言葉にした瞬間、あまりにも状況が終わっていて、ちょっと笑いそうになった。
「なにこれ」
「現状把握は重要だ」
「把握したくなかった」
「だが、できてるうちはまだ大丈夫だ」
「その慰め方、全然うれしくない」
「慰めてない」
「知ってたわ!ボケ!!」
でも、不思議と少しだけ楽になった。
見えない不安のまま怯えるより、ちゃんと数えたほうがましだ。
数えた結果、地獄だったとしても。
―――――
なゆが来たのは、昼前だった。
扉を叩く音がして、朔夜が出る。
白っぽい髪。薄いコート。胸に抱えた白い帳面。男にも女にも見える整った顔。静かなのに、今日はほんの少しだけ疲れて見えた。
「……また来た」
「また来ました」
相変わらず、返答がまっすぐすぎる。
「今日は」
「お伝えしなければならないことがあります」
なゆは中へ入ってきた。朔夜が椅子を引く。けれど、なゆは座らず、立ったまま帳面を開いた。
ゆらのページ。
それが分かった瞬間、胃が沈んだ。
正の字が何列も並んでいる。死んだ回数。越境した回数。戻ってきた回数。書かれたものと、書かれていないもの。その全部が、白い紙の上で静かに並んでいる。
「これまで、越境・帰還・死後接触の記録について、何度か記帳を保留にしてきました」
「……うん」
「ですが、今回の件で状況が変わっています」
なゆがページを閉じる。帳面を胸へ抱き直した。
「今回の死は、蒐集商会が先に仮保全処理を行ったため、向こう側の記録にすでに登録されています。私の帳面だけが空白のまま残っている。この不一致が続くと――私自身が規定審査の対象になります」
「……なゆさんが?」
「はい」
少しだけ、間。
「もう前借りは、できません」
その言い方が静かすぎて、逆に頭へ入るまで少し時間がかかった。
「前借りって……わたしへの猶予のこと?」
「死の帳尻の先送りを、これ以上継続できないということです。今回を含め、記録が滞っている分はいずれ精算が必要になります」
「精算って、何」
「本来なら死んで終わるはずだった分を、戻している。その差額を、どこかで合わせなければならないということです」
「……差額って言い方、やめてほしい」
「ですが事実です」
なゆは淡々としていた。
淡々としているくせに、その一言一言がきれいに痛い。
「前借りがなくなると、どうなるの」
「死ぬたびに、向こう側の引力が強くなります」
「……仮保全に加えて?」
「はい。未記録分の帳尻も重なります。今のあなたは、普通よりずっと向こう側に近い状態です」
向こう側に近い。
その言葉が、腹の奥に重く落ちた。
近い。どのくらい近い。ママの『最近、なんか変だよ』が、頭の中で何度も反響する。
家族が見て分かるくらい。
るなが既読のなさで怯えるくらい。
幽々が「戻ったって言い方やめて」と言うくらい。
もう、そういうことなんだ。
「ねえ、整理していい」
「どうぞ」
「朔夜への借金が四千六百九十三万円」
「四千六百九十三万と端数が――」
「いい。黙ってて」
「……」
「蒐集商会の仮保全が解除できなくて、なゆさんの前借りももう使えなくて」
「はい」
「つまり今のわたし、いつも通り死ぬことよりもずっとまずい」
「その通りです」
「で、死ななくても向こうから引っ張られやすい」
「はい」
「しかもそのせいで、なゆさんまで危なくなる」
「規定上は、そうなります」
わたしは、しばらく何も言えなかった。
整理した結果、逃げ道が見つからない。
「……終わってるじゃん」
「まだ終わっていません」
「何を根拠に」
「終わっている人は、こうして数えられません」
「その理屈、朔夜と同じで腹立つな!?」
「影響を受けたのかもしれません」
「やめて。最悪の学習しないで」
ぬいが、また小さく笑った。
「ひゃっひゃ。全員わりと終わっとる」
「お前は黙ってて!」
―――――
「……で、どうする」
沈黙を破ったのは朔夜だった。
腕を組んで、壁にもたれたまま、こっちを見ている。
「どうするって」
「向こうが拾いに来る前に、こっちから手を打つ」
「簡単に言うなあ」
「簡単じゃない。だが待つよりはましだ」
「蒐集商会、潰すの?」
「潰せるならそうする」
「言い方が物騒!」
なゆが静かに口を開く。
「正式取得前なら、まだ手順の外側で止められる可能性があります」
「手順の外側?」
「仮保全は一時処理です。正式審査が入る前であれば、記録の流れを切る余地がある」
「それをやるには」
「相手側の保全根拠を崩すことです」
「分かりやすく」
「“この個体は採取に値しない”と、向こうに思わせる」
「ひどい選考基準だな……」
朔夜が短く言う。
「あるいは、価値があっても取りに来ると高くつくと思わせる」
「そっちは、だいぶ性格悪い」
「そういう相手だ」
なゆは帳面を閉じた。
「これ以上、前借りの処理はできません」
「……うん」
「ですが、今すぐあなたを切るつもりもありません」
「え」
「審査が入る前に終わらせてください。それが、私にできる最後の猶予です」
最後、という言い方が妙に重かった。
「なゆさん」
「はい」
「わたし、そんなにヤバい?」
「はい」
即答だった。
「今までで一番、向こう側に近いです」
「最悪……」
「最悪です」
そこ、否定してほしかったのに。
でも、なゆは嘘をつかない。
つかないから、頼れるのかもしれなかった。
―――――
なゆが帰ったあと、事務所の空気は少し変わった。
静かになった、というより、決まった感じがした。
もう前借りはできない。
つまり次は、本当にあちら側へ落ちる。
それがはっきりしたぶん、逆にぐずぐずしていられなくなった。
わたしは机に置いたスマホを見た。レインの通知。るなのアイコン。幽々の短文。ママの心配。帰る場所。待ってる日常。
守りたいと思うには、十分だった。
「……やるしかないじゃん」
「そうだ」
「その“そうだ”の速度が嫌い」
「知ってる」
朔夜がカップを置く。
「食い終わったなら準備しろ」
「人の覚悟の余韻を踏みにじるな」
「余韻で解決するなら苦労しない」
「それはそうだけど!」
わたしはサンドイッチの残りを口へ押し込んで立ち上がった。
その瞬間だった。
胸の奥で、ぴん、と張っていた糸が強く引かれた。
「っ……」
息が止まる。
「影森?」
「ちょ、待っ――」
視界が揺れた。
床が、少し遠い。
血の気が引く感覚。頭の芯がひやりと冷える。体の輪郭だけが、一瞬遅れて自分に追いついてくるみたいな、嫌な浮遊感。
ぬいが跳ねた。
「来たぞ!」
「は!? なにが!?」
「仮保全の引きじゃ!」
次の瞬間、壁際の空気が歪んだ。
人の形じゃない。
でも、手だけが見えた。
白くて細い、営業用の綺麗な指先みたいな手。名刺でも差し出すみたいに、静かにこちらへ伸びてくる。
「っ、蒐集……!」
朔夜が一歩で距離を詰める。護符が指先に挟まる。
「影森、下がれ!」
「下がれって、足が――」
足がついていかなかった。
引かれている。胸の奥から、向こうへ。
景色が二重になる。事務所の壁と、知らない白い廊下みたいなものが重なって見えた。名札。整理番号。白い光。受付みたいな無機質な空気。
あっちが、来ている。
「やだ、ちょ……」
「目を閉じるな!」
「無茶言うな!」
護符が飛ぶ。白い手がぶれる。でも消えない。
代わりに、わたしの胸の奥の糸だけが、さらに強く引かれた。
息が、切れる。
「っ、か、は……」
「影森!」
「朔、夜……!」
苦しい。
首を締められてるわけじゃない。なのに、呼吸のしかたが分からなくなる。体の中身だけ先に持っていかれるみたいな感じ。
なゆの言葉が頭の中で響いた。
今のあなたは、普通よりずっと向こう側に近い状態です。
「最悪、ほんとに最悪……!」
それでも、笑いそうになった。
こんなタイミングで笑うな、わたし。
「まだ、終わってない、って……言ったじゃん……!」
朔夜が何かを叫んだ。
たぶん術式。たぶんわたしの名前。
でも、その前に、足元の感覚がなくなった。
床に膝が落ちる。
手がつけない。
遅れて、額が机の角にぶつかった。
鈍い音。
それが、やけにはっきり聞こえた。
「……あ」
熱い。
と思ったのは一瞬で、次にはもう感覚が薄い。
視界の端で、机の脚のあたりに赤いものが落ちた。
血かどうか、確認するより先に、身体の輪郭がゆるんでいく。
まただ。
また、この落ち方だ。
「影森!」
朔夜の声が、今度ははっきり聞こえた。
ああ、やばいな、と思う。
三重の借金を整理した日の終わりが、これなのか。
でも、最後にひとつだけ分かった。
前借りは、もうできない。
だったら、こっちから終わらせるしかない。
その考えだけを掴んだまま、わたしの視界は白く切れた。
続く。
■今回の登場人物
・影森ゆら
本作の主人公。電車事故の翌朝を事務所で迎え、生まれて初めて異性の部屋に泊まった事実がどうでもよくなるくらい、自分がやばい状態だと自覚した。三重の借金を初めて言語化し、最後は仮保全の引きに触れて死んだ。
・夜見朔夜
怪異相談屋。朝食を置いたことはたぶん最後まで認めない。状況説明は冷徹だが、待つより先に手を打つ側へ迷わず切り替えた。
・鬼灯なゆ
境界記録局四課の記帳官。これまで黙って続けてきた「前借り」が限界であることを、ついに本人へ告げた。静かだが、今回いちばん重い役目を担った人物。
・ぬい
半寄生霊獣。深刻さを理解しているぶん、軽口も叩く。今回の「来たぞ」はかなりガチの警告だった。
■今回の話について
今回は、第一章終盤の整理回です。
朔夜への金銭的借金、蒐集商会の仮保全、なゆの帳面による死の帳尻。この三つが同時に限界へ達していることを、ゆら自身が初めて明確に把握する回になっています。
また、るな・幽々・母からのレインを通して、ゆらがもう日常の側から見ても「最近変だ」と分かるところまで来ていることを描きました。怪異の側だけでなく、現実の側からも境界が滲み始めている、というのが今回の不穏さです。
ラストでは、仮保全の引きが実際にゆらへ触れました。
次回、第一章の幕引きに入ります。
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