配信26回目 「今あなたの後ろにいる ――振り返ったら終わり【後編】」
配信を切ったのに、終わらないものがある。
画面の向こうにいたはずの視線が、現実まで滲んでくる夜がある。
そして、こういう時に限って、だいたい私はろくな目に遭わない。
――音が、固まっていた。
レンタルスペースの静かな室内で、私たち三人は、点いたままの端末を見つめていた。
画面の中には、私たちの後ろ姿が映っている。
テーブル。リングライト。丸椅子。白い壁。フェイクグリーン。
数秒前まで自分たちがいた、まさにそのままの構図。
なのに、現実にはいない“何か”が、ドアの前に立っていた。
「……やだ」
最初に声を漏らしたのは、るなだった。
いつものふわふわした声なのに、今は芯のところだけが細く震えている。
「これ、やだよぉ……」
「うん。分かる。私もやだ」
私自身、変に冷静なふりをしてるだけで、心臓はとっくにうるさかった。
どくどく鳴ってる。喉の奥まで響くくらい。
幽々《ゆゆ》は、るなのスマホをもう一度見たあと、すぐに室内の照明スイッチへ視線をやった。
「ゆら」
「なに」
「まず、ここ出る」
「え」
「ここにいたらだめ」
私は反射的に言い返す。
「でも外に本当に誰かいたらどうすんの」
「ここにいても、もう“見つかってる”」
その言い方で、背中がぞくっとした。
見つかってる。
その一言は、理不尽だった。
住所も名前も出してない。制服だってろくに映してない。背景だって無難な部屋だ。
なのに、もう“見つかってる”側にいるらしい。
タブレットの画面が、また勝手に切り替わった。
コメント欄だけが浮かび上がる。
《後ろ》
《見えてる》
《そこ》
《開けて》
《今あなたの後ろにいるよ》
「っ、もうやめろって!」
私は思わず端末に手を伸ばした。
けれど触れた瞬間、画面は暗転し、今度は私の手元を映した。
白い指先。スマホの影。画面に滲む私の顔。
そして、私の肩のすぐ後ろに、黒い輪郭だけが、ほんの一瞬だけ映る。
「ひっ」
端末を落としかけた私の手首を、幽々が掴んだ。
「振り回さないで」
「今の見た!?」
「見た」
「えぇ……?」
るなが半泣きで私にくっつく。
「ゆらちゃん、帰ろぉ……」
「帰るって、どこに」
「どこでもいいからぁ……」
幽々は短く息を吐いた。
「朔夜さんに連絡する」
「それがいい。いや、ほんとそれがいい」
私は即答した。
こういう時だけ、あの顔だけいい性格終わってる男が世界で一番必要になるの、ほんとに腹が立つ。
幽々がスマホを操作する。
コール。
無機質な呼び出し音。
出ない。
「出ろよクズ!」
「ゆら、うるさい」
「今うるさくなるでしょ普通!」
その時、るなのスマホがまた震えた。
三人同時に固まる。
新しい画像。
今度は、もっと近かった。
ドアノブ。木目。銀色の金具。
そしてその横、覗き穴の縁が黒く滲んでいる。写真なのに、そこだけ少し歪んで見えた。
文面は変わらない。
――後ろ見て。
その瞬間、こん、こん、と軽い音がした。
ドアの向こうから。
るなが短く悲鳴を呑み込む。
私は息を止めた。
軽いノックだ。乱暴ではない。むしろ、知り合いが遠慮がちに叩いたような、ごく普通の音。
普通。今は、それが一番嫌だった。
「……誰」
自分でも意味がないと分かってるのに、声が漏れた。
返事はない。
でも、タブレットのコメントだけが増える。
《いるよ》
《開けて》
《怖がってる》
《今の顔かわいい》
《後ろ見て》
「最悪……」
喉の奥が乾く。
冗談じゃない。怪異でも、ストーカーでも、どっちにしろ最悪だ。
幽々がまた通話をかけ直しながら、低く言った。
「ゆら、るな連れて、壁際」
「うん」
「ドアに近づかないで」
「分かってる」
私はるなの手を引いて、部屋の奥へ下がった。
白い壁に背中がぶつかる。冷たい。
るなの体温だけがやけに生々しくて、余計に怖い。
「ゆらちゃん……これ、人?」
「……分かんない」
「怪異?」
「それも分かんない」
言ってしまってから、自分でもぞっとした。
人か怪異か分からない、が一番だめだ。対処法が何もない。
そこでようやく、通話が繋がった。
『……何』
眠そうでもだるそうでもない、素の低い声。
夜見朔夜だ。
「遅っっっっっい!!」
『第一声が文句かよ』
「今それどころじゃない! 配信切ったあとに、るなのスマホにドア前の写真送られてきて、端末勝手に点いて、後ろ姿映ってて、今ドア叩かれてる!」
一息で言い切ったら、自分で自分の言葉の情報量に少し引いた。
沈黙が二秒。
『……は?』朔夜からは当然の反応が返ってくる。聞き取れるわけがない――。
「私もそう言うよ!!けどいまはすぐ助けて!!」
『場所』
「駅前のレンタルスペース、さっき幽々が取った!」
『住所送れ。すぐ』
幽々がすでに位置情報を取得して、朔夜に言われるのとほぼ同時に送信が完了していた。
「もう送ってるよ」幽々がいう。
『出るなよ』
「出れんわ!!」
『あと、ドアを開けるな。覗き穴も使うな。画面も直視するな』
「なんで全部あと出しなの!?」
『今言った』
「いつもそればっかり!」
そのやり取りの最中にも、コメントは増え続けていた。
《遅いね》
《来るよ》
《そこ》
《白い壁の子かわいい》
《開けて》
《今あなたの後ろにいるよ》
私はぞっとして、画面から目を逸らした。
「……幽々」
「うん」
「これ、人間のコメントも混ざってるよね」
「混ざってる」
「でも、それだけじゃないよね」
幽々は短く頷いた。
「同じ文面なのに、反応速度が違う。
打ってるんじゃなくて、先に出てるやつがある」
「なにそれ」
「人間が便乗してるのと、別に“流れてる”」
流れてる。
その表現が妙にしっくり来てしまって、嫌だった。
意思を持った誰かが書き込んでいるコメントと、書き込みの形だけを真似して勝手に滲んでくる怪異。その二つが混ざっているのだ。
こん、こん。
またノック。
さっきより少し近い気がした。
……いや、近いってなんだ。ドアの向こうなんだから、これ以上近いも遠いもないはずだ。
でも、違った。
音はドアからだけじゃなかった。
こん。
今度は、私たちのすぐ後ろの壁の中から聞こえた気がした。
「っ」
私は反射的に振り向いた。白い壁。何もない。
なのに、壁紙の下を、何か細い影が這ったように見えた。
「ゆら!」
幽々の声が飛ぶ。
「振り返らないで!」
「いや今、壁!」
「そっち見ないで!」
るなが、私の制服の袖をぎゅっと掴んだ。
「ゆらちゃん、うしろ、やだ……」
「分かる! でも私もやだ!」
その時、スマホのスピーカー越しに、朔夜の声が低くなった。
『影森。壁とドア、どっちの気配が濃い』
「そんな上級者向けの質問するな! どっちも嫌!」
『どっちだ』
私は歯を食いしばって、呼吸を整えた。
怖い。でも、こういう時だけ分かってしまう。嫌な場所の濃さ。空気の淀み。皮膚が拒否する方向。
「……壁」
『だろうな』
「なにその納得!?」
『人間が来てる。けど、入ってくるのはそっちじゃない』
それを聞いた瞬間、背筋が一気に冷えた。
「は?」
『今のは“呼び水”だ。ドアの外の人間か、あるいはその気配に乗って、別のものが後ろを取ろうとしてる』
「やだやだやだやだ!」
るながとうとう泣きそうな声を出した。
「帰りたいぃ……」
「私もだよ!!」
タブレットがまた点灯する。
今度は、コメント欄ではなく、私たちの配信アーカイブのサムネイル一覧が並んでいた。
同じ場面。
同じ部屋。
同じ私たち。
でも全部、少しずつ違う。
るなの笑顔が一番大きく抜かれたもの。
私の引きつった顔だけ寄ったもの。
幽々の伏せた目元だけが暗く浮いたもの。
そして、そのどのサムネイルにも、私たちの後ろに黒い影がいた。
「何これ……」
るなが泣きそうに呟く。
「こんなの、映ってなかったよぉ……」
「今、作られてる」
幽々が答える。
「“その顔が見たい”“その後ろが見たい”って視線で、勝手に」
《笑って》
《泣いて》
《後ろ見て》
《今の顔いい》
《るなちゃんそのまま》
「っ……」
るなの肩が、ぴくっと震えた。
首が、わずかに後ろへ向きかける。
「るな!」
私は反射的にその顎を掴んで前へ戻した。
「振り向くな!」
「でもぉ……呼ばれた気がして……」
その台詞で、空気が凍った。
『影森』
朔夜の声。
『そいつを離すな。今、名前の代わりに“位置”と“反応”で引いてる』
「何言ってんのか半分しか分かんない!」
『分からなくていい。るなを前向かせろ』
私はるなの肩を抱く。
細い。軽い。あったかい。
こんな普通の体温が、こんな得体の知れないものに狙われるの、ほんとに腹が立つ。
こん、こん。
またノック。
でも今度は、ドアじゃなかった。
私たちの背中側の、白い壁の内側から。
「……来る」
幽々が、静かに言った。
その声が合図だったみたいに、壁紙がほんの少しだけ膨らんだ。
ゆっくり。
爪を立てて押されるみたいに。
「いやっ」
るなが声を詰まらせる。
私は反射的に、その前に出た。
「幽々!」
「分かってる!」
幽々がタブレットを掴んで床へ叩きつけた。
画面が砕ける。火花みたいなノイズが散る。
その瞬間、コメント欄が一度だけ乱れた。
《あ》
《やめ》
《見えない》
《後ろ》
《後ろ見て》
それでも、壁の膨らみは止まらない。
白い壁紙の下で、何か細長いものが、こちら側の輪郭をなぞるみたいに這っていた。
人の指にも見える。
髪にも見える。
でも、どっちでもない気もする。
『影森、下がれ』
「下がったらるなが死ぬかもでしょ!」
『死んだら死んだ時だ。戻ってはこさせる』
「今そんなこと言う!?」
そう叫んだ瞬間、壁の中央が、ぱん、と裂けた。
黒い。
それだけが先に見えた。
人影みたいな輪郭。
でも体の厚みがない。
コメント欄をそのまま切って、人の形に貼ったみたいな、不自然な黒さだった。
そして同時に、ドアの向こうでもガチャ、とノブが鳴る。
「っ!」
私は一瞬だけ、そっちに意識を持っていかれた。
人間だ。
外に、本当に人がいる。
そう思った。
でも次の瞬間、るなが小さく「あ」と言った。
振り返りかけてる。
「るな、振り返るな!!」
私はるなを突き飛ばすように抱き寄せて、前へ押した。
その拍子に、自分の背中が、完全に壁の裂け目の前へ出る。
冷たい。
何かが、首筋に触れた。
指かもしれない。
髪かもしれない。
人間の手か、怪異の輪郭か、最後まで分からなかった。
「――っ」
足元がずれた。
床が遠い。
いや、床はそこにある。あるのに、立っている感覚だけが急に切れる。
前のめりに倒れる。
机の角。
リングライトの脚。
視界の端で、開きかけたドアの隙間。そこに立つ人の靴。
でもその向こう、壁の裂け目から伸びてきた黒い影も見える。
どっちだ。
人間か。怪異か。
それを判断する暇はなかった。
鈍い衝撃が頭を打って、世界が裏返る。
るなの叫び声。
幽々の息を呑む音。
遠くで朔夜が何か叫んでいる。
全部が水の底みたいに遠ざかる。
最後に見えたのは、床に落ちた”るなのスマホ”だった。
画面には、新着コメントが一行だけ浮かんでいた。
《後 ろ 見 て》
* * *
気づいた時、私は立っていた。
暗い場所だった。
でも真っ暗じゃない。
スマホの画面みたいな長方形の光が、何枚も、何十枚も、宙に浮いている。
全部、文字だ。
住所の断片。
駅名の一部。
制服の特徴。
白い靴。
黄色いカーテン。
コンビニの袋。
“あの辺住み?”
“たぶんここ”
“右”
“今あなたの後ろにいるよ”
「……最悪」
声に出したら、光の板がいっせいに揺れた。
そこは、動画の中でも、学校でも、部屋でもなかった。
人間が無責任に放った“知りたい”と、“見つけたい”と、“近づきたい”の断片だけが、薄暗い死後側で積み上がったみたいな場所だった。
私は一歩下がる。
その足元を、白い紙片がふわりと横切った。
「え」
紙の眼だった。
丸く切った白紙の中央に、黒い瞳孔みたいな墨が落ちている。
「わ、なにこれ気持ち悪」
「気持ち悪いはひどいのう」
聞き慣れた声がして、振り向く。
ぬいがいた。
でも今のぬいは、いつものくたっとしたぬいぐるみではなく、半透明の灰白色の獣の輪郭が少しだけ濃く出ている。耳が立ち、尻尾が煙みたいに揺れていた。
「またいる!」
「おぬしが死ぬと、だいたいおる」
「便利な説明で済ますな」
ぬいは足元の紙の眼を前脚でちょいと転がした。
「現世の執着と、こちら側の空席が噛み合ったのう」
「分かる言葉で言え」
「人間の“見つけたい”が、怪異に食われて育った」
それは前編で幽々が言っていたことと、だいたい同じだった。
「……じゃあ、外にいたやつは人間だったの?」
「おったじゃろうな」
「じゃあ、壁から来たのは怪異?」
「そっちもおった」
「最悪じゃん!!」
「ゆえに最悪じゃ」
ぬいが言い終わるより早く、光の板がまた明滅した。
《そこ》
《今の顔》
《その子まだ見える》
《後ろ》
《後ろ見て》
「うるさっ……!」
私は耳を塞ぐ。
でも、音じゃない。文字がそのまま脳の裏へ貼りついてくる感じだ。
そこで、空間の奥に黒い縦線が走った。
ぴし、とガラスが割れるみたいな音。
そこから現実の白い光が差し込む。
「影森」
低い声。
「戻るぞ」
「朔夜!!」
裂け目を押し広げ、夜見朔夜がこちら側へ踏み込んできた。
黒いコート。白い顔。だるそうなくせに、目だけが妙に冴えている。
片手には札束。もう片手には細長い札と、見覚えのない銀色の釘。
「来るの遅い!!」
「......たった三十秒だ」
「体感三十分だったわ!」
朔夜は周囲の光板を一瞥したあと、ものすごく嫌そうな顔をした。
「……は。配信のコメント欄っていうより、特定班と怪異の合作だな」
「言い方に救いがなさすぎる」
「事実だ」
朔夜は銀の釘を掲げる。
「銭原の”原版追跡釘”は本物だったか」
「出た、名前だけ無駄に格好いいやつ」
「黙ってろ」
釘の先が、光板の群れの一点を指した。
そこだけ、住所の断片でも、コメントでもない。
黒い穴みたいに、文字が集まっては消え、集まっては消える場所だった。
「核はあそこ。
人間の視線そのものじゃない。“近づいた”記録だ。
場所を割り、顔を抜き、後ろを取りたがった、その蓄積」
「気持ち悪すぎる」
「今さらだな」
ぬいが耳を伏せる。
「わし、あれ嫌いじゃ」
「初めて意見が合った」
朔夜は札を数枚、宙へ放った。
「”権限接続”」
黒い文字列が空中に走る。
次いで札束を指で弾く。紙幣が光に崩れ、釘へ流れ込む。
「”逆探封鎖”」
その瞬間、空間中の光板が一斉に騒ぎ出した。
《見えない》
《やめて》
《そこ》
《後ろ》
《後ろ見て》
「お前ら毎回それしか言えんのか!」
「おぬしも大概うるさいの」
「黙ってろ!」
朔夜が銀の釘を核へ打ち込む。
ばちん、と乾いた音。
光板の群れが一気に歪んだ。
「影森。
戻ったら、ドアの外の人間と、後ろ側の怪異を分ける。
るなと幽々を前に出すな」
「分けるって、そんな簡単に言うな!」
「簡単じゃない。だから高い」
「今それ聞きたくない!」
朔夜がさらにもう一枚札を切る。
「”媒体遮断”」
浮いていた光板のいくつかが、映像のノイズみたいに千切れて消えた。
住所の断片、駅名、靴、ドア、全部が一度ぐしゃっと潰れて、黒い泥みたいに落ちる。
でも、核だけは残る。
その奥で、人の声みたいなものがした。
男とも女ともつかない。
複数の喉を無理やり重ねたみたいな、湿った囁き。
――みつけた。
――そこ。
――後ろ。
「うっわ」
私が引くと、ぬいも一緒に後ずさった。
「おぬし、今ちょっと引き方が失礼じゃぞ」
「お前も引いてるだろ!」
朔夜の目だけが細くなる。
「影森、見ろ」
「見たくない!」
「見ろ」
苛立って怒鳴り返そうとして、私は言葉を止めた。
核の中心。
そこには、ぼやけた顔がいくつも重なっていた。
外にいた“人間”の視線。コメントを書いた連中の執着。そこに乗ってきた怪異の輪郭。
全部が混ざって、誰の顔でもない顔になっていた。
「……うわ」
「人間だけなら、まだ単純だ。
怪異だけでも、まだ処理しやすい。
混ざると一番面倒なんだよ」
朔夜の声は、ひどく冷たかった。
「見たい。会いたい。近づきたい。
その程度の欲で、ここまで伸びるな」
札束が最後に大きく燃える。
「”拡散停止”」
黒い火が、核を囲んだ。
そこへ銀の釘が深く沈み込む。
光板が悲鳴みたいに割れた。
住所。
駅。
白い靴。
黄色いカーテン。
後ろ。
後ろ。
後ろ見て。
全部がばらばらに砕け、光の粉になって落ちていく。
最後に残った一枚の板には、ただ一行だけ浮かんでいた。
《後ろ見て》
それも、朔夜が無言で踏み抜いた。
* * *
目を開けた瞬間、肺が痛かった。
「っ、げほ……!」
現実の空気が喉へ流れ込む。
白い壁。リングライトの残骸。床に倒れた椅子。
私はレンタルスペースの床に横たわっていた。
「ゆらちゃん!」
るなが泣きそうな顔で駆け寄ってくる。
その後ろで、幽々が壁際に立っていた。手の中には、割れたタブレットの残骸。
「……生きてる?」
「毎回その確認やめろ……」
頭が痛い。首も痛い。全身が遠い。
でも、生きてる。
そしてドアの前には、朔夜が立っていた。
ドアは半開き。
その向こうの廊下には、男が一人、うずくまっていた。二十代後半くらい。フードを被って、スマホを落としている。顔色が悪い。目は合わない。
「え」
私は瞬いた。
「ほんとにいたの?」
「いた」
「怪異じゃなくて?」
「人間だ。少なくとも、こいつはな」
朔夜が低く言う。
「部屋の前まで来てた。ドアの写真も送ってる。
ただし、入ってきてはいない」
「じゃあ……」
「お前を転ばせたのも、首を取ろうとしたのも別だ」
それを聞いて、背筋がまた冷えた。
るなが私の袖をぎゅっと握る。
「じゃあ、ほんとに……両方いたのぉ……?」
「そういうことになるな」
幽々が、静かな声で言った。
「コメントの一部は人間。
でも“後ろ見て”の連投は、人間の速度じゃなかった」
朔夜が、床に落ちたスマホを拾い上げる。
画面には、まだ配信アーカイブの管理ページが開いていた。
コメント欄は止まっている。はずなのに。
ぴこん、と通知が鳴った。
全員の動きが止まる。
新着コメント、一件。
朔夜が画面を私たちへ向けた。
《後ろ見て》
誰も振り返らなかった。
けれど、るなが小さく震えた。
「……ゆらちゃん」
「なに」
「サムネ……」
私は恐る恐る画面を見た。
最新のアーカイブのサムネイル。
そこには、倒れた私と、駆け寄るるなと、壁際に立つ幽々が映っていた。
そして、その三人のずっと後ろ。
白い壁とドアの境目の、ちょうど死角になる場所に、黒い輪郭だけが立っていた。
「……まだ終わってないじゃん」
私の掠れた声に、朔夜は短く息を吐いた。
「当たり前だろ。
終わらせるのが一番高いんだよ」
「最低」
「知ってる」
私はその場で天井を仰いだ。
死にたくない。ほんとに。
なのに、毎回ちゃんと死にかけるし、死んだあとまで働かされるし、そのうえ配信のコメントにまで後ろを取られる。
中京の夜は、思っていたよりずっと近い。
人間も怪異も、笑える距離で始まって、笑えない距離まで寄ってくる。
そして私の借金は、たぶん今回も減らない。いや間違いなく増えた。
本当に、最悪だ。――もう二度と配信なんか、やるもんか。
続く
■今回の登場人物
・影森ゆら
るなを庇って背後で代わりに受けた女子高生。人間か怪異か分からないまま殺される、いちばん嫌な死に方をした。
・夜宵るな
“見られる側”として狙われた親友。無防備さが今回の入口になったが、最後はゆらに守られた。
・白澤幽々《ゆゆ》
コメント欄と現実の異常のズレに、最初から最後までいちばん早く気づいていた冷静枠。
・夜見朔夜
今回の結論を「人間と怪異の混線」と断じたクズイケメン怪異バスター。来るのは遅いが、回収と封じはちゃんとやる。
・ぬい
死後側までついてきた半寄生霊獣。今回も偉そうだが、怖いものはちゃんと怖がる。
■今回の話の解説
後編では、「今あなたの後ろにいる」という冗談みたいなコメントが、人間の特定行為と怪異の接近の両方を呼び込み、結果として“人間か怪異か分からないまま死ぬ”最悪の形に着地する構造で描きました。
前編の“探している視線”を、後編では現実の来訪者と、壁の裏から後ろを取る怪異の二重化で回収しています。
ラストの《後ろ見て》は、画面を閉じても終わらない視線の象徴です。
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