配信16回目 闇バイトの報酬は届かない ――帳簿の余白が減っています
闇バイトで呪物を回収したら、箱の中から出られなくなった人がいるらしい。
それを助けに行かされるのが、なぜか私。
今回は死神にも会った。
カフェの窓際の席で、私は目の前の光景に軽く引いていた。
テーブルの向かいに座っている夜宵るなは、142センチの小さな体に似合わないペースで四品目のチーズケーキを平らげようとしている。
パンケーキ。ワッフル。クリームソーダ。そして今このチーズケーキ。私のほうは、アイスラテがまだ半分残っている。
「るな、もう四品目なんだけど」
「え〜? まだ全然いけるよぉ~」
「その体のどこに格納してんの」
「べつばら〜」
「別腹にも容量ってもんがあるだろ普通」
るなは気にせず、フォークの先でチーズケーキの最後のひと切れを刺す。大きなたれ目をきらきらさせながら口に運ぶ姿は、確かにかわいい。かわいいけど理屈がおかしい。この小柄で華奢な体のどこにこの食事量が吸い込まれているのか、物理法則への挑戦を見ているみたいだ。
「ゆらちゃんもっと食べなよぉ」
「私のバイト代だと、このラテ一杯が限界」
「バイト変えたらぁ?」
「変えたいよ! 変えられるなら変えてるよ!」
るなの前でバイトの愚痴をこぼすのはいつものことだ。もちろん、「死んだり蘇生されたりする」部分は言えない。「上司がクズ」「時給がありえない」「経費を自腹にされる」あたりまでは全部事実なので、そのまま話す。
「ゆらちゃんの上司ってほんと最悪だよねぇ」
「ほんとにね」
「でも顔はいいんでしょぉ?」
「顔だけはね」
「いいなぁ〜」
「よくない。顔がいい分タチが悪い」
るなはチーズケーキの皿をきれいに空にして、メニュー表にまた手を伸ばした。
「あ、ゆらちゃん、もう一個頼んでいぃ?」
「……何」
「ティラミスぅ」
「五品目!?」
「だってぇ、甘いのとしょっぱいのは別だしぃ、チーズケーキとティラミスも別だしぃ」
「別カウントの基準がゆるすぎるだろ」
「その栄養どこ行ってんだよ」
「えへへ〜」
笑ってごまかした。答えになってない。でもこの子がにこにこ食べてるのを見てると、なんか安心する。理屈は分からないけど、るなが普通に食べてるうちは世界がまだ平和な気がする。
カフェの店員がおかわりを持ってくる。「またか」の目は、もう馴染みの反応だった。
このまま、るなが甘いものを片付けるのを眺めていたかった。
こういう時間が、私にとっては一番大事だ。
――スマホが震えた。朔夜からのレイン。
「戻れ。仕事」
絵文字もスタンプもない。人の心がない。
「……」
「どったのぉ?」
「クズ上司から召集」
「え〜、かわいそぉ。ティラミスまだ来てないのにぃ」
「そこが問題じゃないんだけど」
るなは私の手を両手でぎゅっと握った。小さくてあったかい手。
「がんばってねぇ。死なないでねぇ」
それ、冗談ですまないんだよなぁ、と思いながら、私は少ないお小遣いから会計を済ませて事務所に向かった。
――――――
事務所の扉を開けると、見覚えのある柄シャツの男がソファに座っていた。
銭原呪助。
派手な柄シャツにくたびれたジャケット。細いサングラスを頭に乗せて、金歯がひとつ、照明を拾って光っている。片耳のピアス。細いヒゲ。一見すると妙に人懐っこいが、目が笑っていない。
いつ見ても胡散臭い。この人がまともな用事で来たことは、一度もない。
「おう、お嬢ちゃん。久しぶりやないか」
「銭原さんが来ると大体ろくなことないんだよなぁ」
「ひどいこと言うなぁ。うちは良心的やけん」
「良心的ぼったくりの人に良心的って言われても」
「ぼったくりちゃう。適正価格に愛情乗せとるだけばい」
「愛情を金額に変換するな」
朔夜は机に足を乗せたまま、画面から目を上げない。
銭原が朔夜のほうへ向き直った。今日はどこか、いつもの陽気さの下に焦りが混じっている。テンポがいい口の回りかたは同じなのに、間合いが少しだけ短い。
「朔夜、ちょっと仕事がある。俺じゃ手ぇ出せん案件や」
「珍しいな。お前が手を出さないのは」
「手を出したらまずい案件、ちゅうほうが正しかばい」
朔夜の目が動いた。銭原の言い方ひとつで温度を読む、あの嫌な勘の良さが出ている。
内容はこうだった。
ダークウェブ上の闇オークションに、本物の呪物が出品されている。出品者は素人。闇バイトで「古い建物から箱を回収してこい」という依頼を受けた若い男が、回収した箱を勝手に開けて、中身の画像をネットに上げた。
「それが封帯箱や」
「なにそれ」
「開けたら終わる箱。周囲に怪異を呼び込む封印済みの怪異容器。封印が解けた状態で画像が出回っとるから、見たやつにまで影響が広がり始めとる」
「闇バイトで呪物回収って、どういう世界観」
「お嬢ちゃん、この世界ちゅうのはな、なんでも金になるとよ。呪いでも怪異でも、値段がつけば商品ばい」
銭原は笑っている。でも目が笑っていない。
「なんで銭原さんがそれ知ってるの」
「そら、うちも商売やけんな。市場に変なもんが出たら気ぃつくとよ」
朔夜が低く聞く。
「出所はどこだ」
ほんの一瞬、銭原の口が止まった。この男の口が止まるのを見たのは初めてかもしれない。
「……昔の知り合いの倉庫みたいなもんや。とっくに潰れとったと思うとったばってん」
「お前の知り合い」
「まあ、そういう時期もあったちゅうことやな」
それ以上は喋らない。でも「時期」の二文字に、銭原の人生のどこかの扉がちらっと見えた。
銭原はゆらを見る。
「お嬢ちゃん、あんた向こう側入れるやろ。箱ん中にまだ人がおるかもしれん。闇バイトで入ったガキが、出品止まったまま三日行方不明や」
「なんで私の体質知ってるの」
「商売人はな、商品の性能くらい覚えとくとよ」
「私は商品じゃないんだけど」
「そうやな。商品にしては文句が多かばい」
朔夜が報酬の話を振った。銭原が渋る。いつもの値段交渉だ。
「経費込みで六十万」
「高か」
「お前の古巣のケツ拭きだ。安いだろ」
「古巣言うな。四十万」
「五十五」
「四十五。端数は嬢ちゃんの危険手当で切り上げたる」
「私の危険手当で交渉するな!」
今日は銭原のほうが折れるのが早い。五十万で手打ち。それが余計に気持ち悪い。いつもならもう二往復は粘る男が、あっさり金を出した。
朔夜もそれに気づいている。目が少し細くなった。
――――――
真琴に連絡し、ダークウェブの出品ページを確認させた。
「出品者のアカウント、三日前からログインなしです。最後の書き込みが"箱から音がする"。以降の投稿ゼロ」
声が平坦だが、真琴なりの緊張が混じっている。数字と画面の向こう側の恐怖は、この人がいちばん正確に計る。
「画像の閲覧数は」
「二千超え。コメント欄に"見たら耳鳴りがする"って書いてる人が複数。転載も始まってます」
朔夜が舌打ちした。
「|"拡散停止"《スプレッド・ロック》が先か。面倒だな」
「面倒で済む話じゃないと思うんだけど」
「面倒は面倒だ。本体を潰さないとネットに散った分は止められない」
槙野経由で出品者の住所を特定。行方不明届が出ている。築年数のいった単身アパート。
夜。
私たちはそのアパートの前に立っていた。
鉄骨造の古い建物。外廊下の蛍光灯が半分切れていて、錆びた手すりの向こうにベランダが並ぶ。生活感はあるのに、どこか息を止めたみたいな静けさがあった。
出品者の部屋は二階の角。鍵は開いていた。
中に入る。
散らかった部屋だった。コンビニ弁当の空箱。脱ぎ捨てた服。充電器がいくつも差しっぱなし。若い男のひとり暮らし。生活は雑だが、致命的に荒れているわけではない。ただ、三日間誰も戻っていない空気だけが濃く沈んでいた。
部屋の中央に、箱がある。
木製。片手で持てるくらいのサイズ。側面に札のような文字が残っているが、半分剥がれている。蓋は開いたまま。
壁が、微かに脈打っている。
「……なんか、デジャヴなんだけど」
※配信1回目「壁の向こうで拍手する部屋」参照
でも今回は壁じゃない。脈打っているのは箱の内側だ。蓋の向こうが暗い。覗き込むと、箱の底が見えない。見た目のサイズと、中の奥行きが合わない。境界が箱の中に畳み込まれている。
「朔夜、これ中が広い」
「だろうな。封帯箱は境界を折り畳んで収納する呪具だ。蓋が開いた時点で、中の境界も開いている」
「それ先に言って」
「言った。お前が聞いてなかった」
「聞いてない時に言ったなら言ってないのと同じ!」
朔夜が|"封域指定"《エリア・ロック》を起動する。部屋を封鎖し、箱の境界がこれ以上広がらないようにする。
「影森、入れ」
「やっぱり私なの」
「お前以外に入って戻ってこれるやつがいない」
「最悪の理由で選ばれてる」
肩にぬいが飛び乗った。灰白色のふわふわした毛が、薄暗い部屋で少し光っている。
「わしも行くぞ」
「頼れる?」
「匂いくらいは嗅ぐ」
「くらい、って自分で言った」
「偉そうに言うな小娘」
でも、いてくれるだけで少しだけマシな気がする。それがまた腹立つ。
――――――
箱の縁に手をかけて、足を踏み入れた。
落ちる感覚はない。ただ、足裏の感触が変わった。フローリングだったのが、コンクリートになった。温度が下がる。空気が乾いている。
目を開ける。
倉庫だった。
金属の棚がいくつも並んでいて、棚には番号札のついた箱が何十個も整然と置かれている。天井は高い。蛍光灯が何本かついているが、半分以上は切れていて、棚の間に長い影が落ちている。
温度管理の計器が壁に残っている。分類ラベル。管理台帳の跡。棚のひとつひとつに、手書きの記録が貼られている。
ここは個人の持ち物じゃない。
「……こんなの、一人でやるわけないじゃん」
誰かが、組織的に、怪異を保管していた。それも相当な数を、相当な期間にわたって。棚のラベルには日付が入っていて、古いものは十年以上前のものもある。
「匂うのう」
ぬいが鼻をひくつかせる。
「怪異の残り香がぎっしりや。全部が生きとるわけやないが、眠っとるもんがおる」
「起きないでほしいんだけど」
「祈っとけ」
「祈りで解決する案件だったことある?」
「ない」
「だよね!」
棚の奥を進むと、うずくまっている人影が見えた。
若い男。二十歳前後。スウェットにスニーカー。生きている。だが目の焦点が合っていない。半分、向こう側に引き込まれた状態。境界と現実の間で意識がぐらぐらしている。
「大丈夫? 聞こえる?」
「……バイトで来ただけなのに」
「うん、うん」
「箱開けたら、出られなくなって……。報酬、まだ振り込まれてない……」
こんな状況で給料の心配をしている。笑えない。笑えないけど、気持ちは分かる。私だって時給三百円で死後勤務させられてるんだから。
「連れ出すから、立てる?」
「……がんばる」
男の腕を肩に回して立ち上がらせる。重い。でも動ける。
ぬいが先行して匂いを嗅ぐ。
「奥じゃ。封印の核はいちばん奥にある」
保管庫の最奥。棚が途切れた先に、古い木製の台帳が置かれていた。
分厚い。革の表紙。開くと、筆書きの回収品リストがびっしり並んでいる。品名、回収日、保管番号、状態。何十ページにもわたる記録。これが空間を維持する核になっている。台帳が「ここは倉庫である」と定義し続けることで、境界が開いたまま保たれている。
『見えてる。台帳が核だ。情報を送れ』
通話越しの朔夜の声。
「台帳。革の表紙。中は筆書きのリスト。棚の配置図みたいなのもある」
『十分だ。外から閉じる。離れろ』
朔夜が封印処理を開始する。空間が軋む。棚が震え、蛍光灯がちかちかと明滅した。
私は闇バイトの男を引きずりながら、出口——箱の開口部に向かって走る。
あと少し。
箱の縁が見えた。
その瞬間、足が止まった。
「っ——?」
引っ張られている。足首じゃない。体の芯のもっと深いところを、倉庫全体が吸い込もうとしている。保管庫の管理システムが、私の体質を検知している。向こう側との親和性。壊れずに入ってこれる魂。
箱が、私を「新しい管理者」にしようとしていた。
「足が——動かない!」
「引かれとる!」ぬいが叫ぶ。
闇バイトの男を片手で掴み、もう片方の手で箱の縁にしがみつく。ぬいが私の裾に噛みつくが、軽すぎる。全然足りない。
「朔夜!」
『聞こえてる』
|"収益変換"《マネタイズ》。
朔夜が札束を燃料に変換した。光が粒子になって箱の縁から流れ込み、私を引き留めている力と正面からぶつかる。
がん、と見えない壁が割れた感触。
体が自由になる。
私は男を抱えたまま、箱の外へ転がり出た。
コメント欄が荒れている。
《またJK死ぬ?》
《札束燃えた》
《経費で落ちる?》
《赤字》
「落ちない」と朔夜が呟いた。たぶんコメントに答えたんじゃなくて、自分の財布の話をしている。
私は床に転がったまま、しばらく動けなかった。心臓が一回止まった気がする。いや、実際に止まっていたらしい。
朔夜が蘇生処理をかける。胸が強く痛む。
「がっ……!」
「応急蘇生。最低限だ」
「先に……心配、とか……」
「赤字だ」
「最低……」
いつもの流れ。いつもの最悪。
闇バイトの男は槙野に引き渡した。意識は戻っている。「報酬、振り込まれますかね」と槙野に聞いていた。槙野は疲れた顔で「振り込まれない」と答えていた。正しい。
――――――
案件終了後。事務所で後処理をしている最中、銭原が回収された台帳を手に取った。
ページをめくる。筆書きのリスト。分類番号。日付。
銭原の笑顔が消えた。
一瞬だけ。でも確かに消えた。
「……まだ残っとったんか、これ」
朔夜が詰める。
「知ってたな。出所」
「知っとったちゅうか……昔おった場所のもんやな。もう畳んだ思うとったばってん、箱だけ生きとったか」
「それだけか」
「今はな」
銭原は誤魔化す。いつもの口の回りかたが、このときだけ半拍遅れた。目が泳がないのは、この男の嘘の付き方が上手いからだ。でも嘘を付くタイミングのほうに、本音が出る。
帰り際、銭原が私のそばを通りがかった。
小さな声だった。
「お嬢ちゃん」
「なに」
「あんまり便利に使われすぎんようにな。あんたみたいなんは、目ぇつけられたら面倒ばい」
冗談なのか本気なのか。銭原の口元は笑っているのに、声だけが笑っていなかった。
扉が閉まる。銭原の足音が階段を降りていく。
朔夜は何も言わなかった。
――――――
蘇生直後の体は、いつも泥の中を歩いているみたいに重い。
朝夜に「帰っていい」と言われて、夜の道をひとりで歩く。コンビニで温かいものでも買おうと思った。
街灯が並ぶ通りに出た。車の音が遠い。空気が冷たい。人通りはまばらで、高架の影がアスファルトに長く伸びている。
ふと、隣に人がいることに気づいた。
いつからいたのかわからない。足音がしなかった。
街灯の下。白っぽい髪が淡く光っている。白に近い銀か、薄い藤色がかった灰。肩くらいの長さで、きちんと整えられている。薄いコートに白いシャツ。スラックス。清潔だけど、どこか時代のズレた着こなし。ファッション雑誌で見たことのない組み合わせなのに、不思議と違和感がない。
顔が、やけにきれいだ。
きれい、というのは「美人」とも「イケメン」とも違う。男なのか女なのか一瞬で判断がつかない、整いすぎた顔。肌が透けそうなくらい白い。穏やかな目元。薄い琥珀みたいな瞳が、街灯の光を拾って少しだけ光る。微笑んでいる。
身長は私より頭ひとつ高い。でも朔夜みたいな圧迫感はない。そこにいるのに空気を押していない、不思議な存在感。
——なんだろう、この人。怖くはない。でも心臓が一拍だけ止まった。
「影森ゆらさん、ですね」
丁寧語。穏やかな声。低くもなく高くもなく、どちらとも取れる声。
「……誰ですか」
「鬼灯と申します。少しだけ、確認をさせていただきに」
手元に小さな白い手帳があった。パスポートくらいのサイズ。白い革の表紙。いつの間に取り出したのか、見ていなかった。
手帳を開く。中身が見えた。
正の字が並んでいる。何列も、何段も。几帳面な筆跡で、ひとつひとつがきっちり五画。
本数が——多い。
「現在の未清算回数は七回です。猶予は残っていますが、ペースが少々早いですね」
「何の、話……?」
「お仕事で何度も亡くなられていますよね。その分の帳尻が、まだ合っていないんです」
背筋が冷える。意味がわかるようなわからないような。でも本能だけが「やばい」と言っている。さっきまでの蘇生後の倦怠感が、一瞬で吹き飛んだ。
「死ぬたびに、誰かが帳簿を書き直して、あなたを戻しています。それ自体は結構なことですが、戻す回数には上限がありまして」
「上限」
「はい。あなた個人の枠を超えた場合、お近くの方から順に——調整が入ります」
「調整って、何」
「帳尻を合わせるということです。あなたが返しきれない分を、あなたの近くにいる方に」
るなの顔が浮かんだ。幽々《ゆゆ》の顔が浮かんだ。
鬼灯は手帳を閉じて、微笑んだ。さっきと同じ表情。穏やかで、丁寧で、どこまでも事務的。怒っていないし、脅してもいない。ただ仕組みを説明しているだけ。それが余計に怖い。
「今日は確認だけです。まだ大丈夫ですよ」
「まだ、って……」
「次に亡くなられる時は、少しだけ気をつけてください。帳簿の余白が、だいぶ減っていますので」
そう言って、鬼灯は歩き去る。振り返らない。
足音がしない。最初からなかったみたいに。気づいたら、街灯の下に私だけが残っていた。
コンビニの明かりが視界の端で光っている。車の音が戻ってくる。世界は何も変わっていない。
でも私の背中だけが、まだ冷たかった。
――――――
事務所に戻った。体はもう限界だったけど、これは今言わないとだめだと思った。
朔夜はまだ機材を片付けていた。
「朔夜、さっき変な人に会った」
「変な人」
「帳面持ってて。正の字がいっぱい並んでて、私の死亡回数を知ってた。未清算がどうとか、猶予がどうとか」
朔夜の手が止まった。
機材を持ったまま、ゆっくりとこちらを見る。
「……どんな顔だった」
「えっと……すごくきれいな人。男か女かわかんなくて、丁寧語で、すごく穏やかで」
「名前は」
「鬼灯、って」
長い沈黙。
朔夜がこんな顔をするのを、私は見たことがなかった。怒っているのか、焦っているのか、それとも——怖がっているのか。この男が何かを怖がるところなんて、初めて見た。
「影森。あいつに会ったら逃げろ」
「え、でも優しそうだったよ? 朔夜より全然——」
「俺より優しかったから逃げろって言ってる」
その声が低すぎて、私はそれ以上何も言えなかった。
帰り道、スマホの画面を見た。るなからレインが来ていた。
「ティラミスおいしかったよぉ〜 ゆらちゃんの分も食べちゃったぁ〜」
添付画像は、空の皿が六枚並んだ写真だった。
私は、その六枚の皿を見て、ちょっとだけ泣きそうになった。
るなが普通に食べてる。それだけで世界がまだ平和に見える。
でも、帳簿の余白は、減っている。
つづく
*****
ゆら「もう、配信の回数なんて数えてない。数えたら余計しんどそうだし。」
■今回の登場人物
・影森ゆら
死にたくないのに、今回も箱の中で半分死にかけた主人公。借金取りが二人に増えた。金と命、どちらも返せる気がしない。
・夜見朔夜
金と数字を燃料に術を行使する怪異相談屋。今回も札束を燃やした。蘇生費も加算した。最後に名前を聞いた瞬間の表情だけ、いつもと違った。
・ぬい
口の悪い半寄生霊獣。匂いは嗅いだ。噛みついた。でも軽すぎた。
・夜宵るな
見た目に反してめちゃくちゃ大食いの親友。本編にはカフェでしか出ていないが、ティラミスまで含めて六品を完食した。空の皿の写真が、今回いちばん平和な画像。
・銭原呪助
呪物道具屋にして闇市ブローカー。今回は仕事の持ち込み役。いつもの胡散臭さの下に、普段とは違う焦りがあった。「昔おった場所」という言葉の意味は、まだ明かされていない。
・毒島真琴
配信編集・炎上管理担当。ダークウェブの出品ページを真っ先に確認した。怪異よりネット拡散のほうが怖いと言い切れる人。
・槙野恒一
警察側の窓口。闇バイトの被害者を引き取った。報酬は振り込まれないと正しく伝えた。
・鬼灯なゆ(初登場)
ゆらの前に現れた、白い手帳を持つ存在。丁寧語で穏やかで、笑顔のまま「帳簿の余白が減っています」と告げた。性別不詳。正体不明。朔夜が名前を聞いただけで顔色を変えた、今のところ唯一の存在。
■今回の話の解説
闇バイト+ダークウェブという現代犯罪の入口から、「怪異を組織的に保管していた倉庫」へ繋げました。
誰がこの倉庫を管理していたのか、銭原は何を知っているのか。今回は匂わせだけで、答えは出していません。
また、保管庫の管理システムがゆらを「新しい管理者」に取り込もうとした場面は、ゆらの体質が単なる便利体質ではなく、向こう側がゆらを受け入れたがっている兆候として描いています。
そして最後に現れた鬼灯なゆ。怖い存在ですが、本人は脅していません。仕組みを説明しただけです。怖さは朔夜の反応で補いました。
「俺より優しかったから逃げろ」は、たぶんこの話でいちばん正直な台詞です。
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