配信15回目 借金は死んでも減らない(五十万分だけ除く)
借金は、働けば減るものだと思っていた。
少なくとも、二回死んで一件片づけた月くらいは。
なのに、私の人生は今日も平然と赤字を更新する。
今月分の精算書を、夜見よろず相談事務所の安っぽいテーブルに叩きつけられた瞬間、私は三秒ほど固まった。
古い雑居ビルの二階。薄暗い廊下の先。すりガラスの向こうから昼とも夜ともつかない光が差し込む、胡散臭い事務所。
散らかった書類の山、配信機材、飲みかけのコーヒー、怪しい札、ぬいぐるみみたいな顔をして性格だけ最悪な霊獣。
いつ見ても終わってる空間だったけど、今日に限っては景色のほうがまだマシだった。
問題は紙だ。
「……なんで増えてんの」
静かな声が出た。
自分でもびっくりするくらい静かだった。
たぶん、怒りが大きすぎると、人は逆に静かになる。
ソファの背にもたれた夜見朔夜は、私の殺気なんかまるで気にせず、湯気の薄くなったコーヒーを口にした。――今日も相変わらず、顔だけは、いい。
「経費だ」
「経費じゃないから!」
私は紙をばんっと持ち上げた。
「なんで『帳簿管理費』があるの! なんで『配信環境維持費』があるの! なんで『ゆら専用リスク引当金』とかいう意味不明な項目が発生してんの!? 存在してるだけで金取られてんじゃん私!」
「存在してるだけで危険だからな」
「そこを反省してるのは私じゃなくて雇用側でしょ!」
ぬいが私の肩の上で小さく丸まりながら、ぼそっと言った。
「わしは最初から言っとった……この男の帳簿は呪いより質が悪いと……」
「ほんとだよ! 先月、私、二回死んだんだけど!?」
「知ってる」
「知ってるじゃないのよ! 一件ちゃんと片づけたんだけど!?」
「知ってる」
「なのに増えてるのおかしいでしょ!」
精算書の下のほうに印字された数字を睨む。
借金残高。
四千九百八十万円。
先月と一円単位まで確認したわけじゃない。でも、少なくとも減る気配のある顔はしていなかった。むしろ増えている顔だった。数字にも顔があるなら、こいつは絶対、人を舐めた顔をしてる。
「もう辞める!」
言った瞬間、朔夜のスマホが鳴った。
着信画面を見た朔夜が、ほんの少しだけ眉を動かす。
「槙野か」
その名前を聞いた時点で、嫌な予感しかしなかった。
朔夜は通話を繋ぎ、二、三言だけ応じる。
相手の声は漏れてこない。
けれど、通話口の向こうで胃が痛そうな顔をしている中年刑事の姿は、なんとなく想像できた。
「……分かった。場所送れ」
朔夜が電話を切る。
私は嫌な目で見た。
「行きたくない」
「まだ内容を言ってない」
「その人から来る時点で行きたくない」
朔夜はスマホをテーブルに置いた。
「中京圏の繁華街裏。古いビルで行方不明が三人目」
はい終わり。帰りたい。
「財布、靴、スマホだけ残って本人は消失。共通点は全員、金銭トラブル持ち。報告書に書けないから横流しだと」
「うわ最悪」
「さらに最悪なことに、今日もお前は借金持ちだ」
「知ってるよ!」
朔夜は私の抗議を無視して続けた。
「――この案件を片づけたら、借金から三十万引いてやる」
私は止まった。
でも、三十万はでかい。
でかすぎる。
巨大すぎて罠にしか見えないのに、食いつかない選択肢がない。
「…………行く」
ぬいが呆れたように尻尾を揺らす。
「現金なやつめ」
「現金じゃなくて借金だから余計つらいんだよ!」
朔夜はそれ以上何も言わず、立ち上がった。
それがいちばん腹立つ。こっちが負ける前提で話を進めるな。
*****
ビルへ向かう車内で、朔夜は珍しく最初に注意だけを口にした。
「現場に入ったら一つだけ守れ」
「なに」
「自分の借金の額を絶対に声に出すな」
「は?」
思わず変な声が出た。
「なんで?」
「標的認識に使われる。数字を吐いた瞬間に拾われる」
「……拾われるってどういう意味?」
「文字通りだ」
夜のフロントガラスに、私の顔がうっすら映る。
冗談を言っている顔じゃなかった。
「分かった」
そう答えたけれど、頭の中にはさっきの精算書がこびりついていた。
四千九百――
私は口をきつく結んだ。
言うな。
考えるな。
あの数字は、今だけ忘れろ。
*****
その廃ビルは、ネオンの強い繁華街から一本裏へ入っただけで、急に時間が古くなったみたいな場所に立っていた。
看板の外れた雑居ビル。
割れたガラス。
閉鎖されたテナント跡。
入口の自動ドアはとうに死んでいて、手で押し開けると、湿ったカビ臭さと、古い紙の匂いが鼻についた。
かつて地下一階には悪徳貸金業者が入っていたらしい。
追い詰めたオーナー本人が最後には首を吊った。
それ以来、「ここで借金をチャラにしてくれる」という最悪の都市伝説が生まれた。
朔夜が小さく言う。
「本来は弱い。苦しみを一時的に吸うだけの残滓だ」
「だったら、なんで人が消えるの」
「何年も絶望を食い続けたからだ。変質した」
ぬいが、ひくりと鼻を鳴らす。
「おるのう。地下に。三人分、まだ薄く残っとる」
朔夜が冷えた声で告げた。
「怪異名は ”負債食い” だな。ビル内で自分の負債額を口に出した人間を、精算対象として認識する」
「そのシステム考えたやつ最低すぎない?」
「怪異に倫理を期待するな」
「でもセンスが終わってる!」
「残るのは財布と靴と、払えなかった数字だけだ」
冗談みたいなルールなのに、冗談じゃない匂いがした。
私は自分の喉を押さえるみたいにして黙る。
地下一階へ降りる階段は、途中から妙に冷えていた。
電灯は死にかけ、点滅のたびに廊下の長さが少しずつ違って見える。
朔夜は銭原から調達した紙眼を指先で弾いた。
紙でできた薄い眼球みたいな札が、ぺたりと壁に張りつき、目に見えない視線の流れを浮かび上がらせる。
「うわ、やっぱそれ見た目きもい」
「役に立つ」
「きもいは否定しないんだ」
ぬいが先行し、私はその後ろを歩く。
喋らなければいい。
数字を言わなければいい。
それだけだ。
簡単なはずだった。
――ところが、廊下の突き当たりでぬいがぴたりと止まった。
「おぬし、あそこを見ろ」
示された壁の向こう。
本来ならただのコンクリートのはずの場所に、うっすらと人の輪郭が見えた。
若い男。
半分沈みかけたみたいに、壁の向こう側に引き込まれている。
生きている。
けれど、もうこちらの空気とは噛み合っていない。
「まだ助かる?」
私が訊く。
朔夜は壁を見て、短く言った。
「ギリギリだ」
「どうやって」
「向こうへ入る」
「生身で?」
「無理だ」
私は朔夜を見る。
朔夜は私を見る。
「……私が行くの」
「他に誰がいる」
「やっぱりこの仕事、絶対おかしいから――」
ぬいが境界の裂け目を探るように前脚を押し当てる。
壁と壁のあいだ、本来ない隙間が、ほんの一瞬だけ軋んだ。
「今じゃ!」
踏み込んだ瞬間、全身に、とんでもない圧がかかった。
壁に突っ込んだんじゃない。
空間そのものに噛み砕かれたみたいだった。
肋骨の奥で、嫌な音がした。
喉の奥に鉄の味が広がる。
視界が白く潰れる。
ぐしゃ、と。
本当に、そう聞こえた。
倒れる私の耳に、朔夜の声だけが妙に平坦に落ちてくる。
「行ってこい」
*****
音がなかった。
暗い廊下。
足元が床なのか、水なのか、空気なのか分からない。
冷たい薄明かりだけが、遠くまで細く伸びている。
「……今日は早かった」
振り向くと、幽霊の少女、玻璃がいた。
いつもの通り、古い時間の中に置き忘れられたみたいな顔で。
驚きもしないで。
こっちが死ぬたびに会う相手として、だいぶ慣れてきた自分が嫌になる。
「うるさい! 急いでるから! 案内して!」
玻璃は小さく瞬きをしたあと、左を見た。
「……方向は左。でも早くしないと」
「ありがと!」
走り出そうとした私を、玻璃が珍しく呼び止める。
「今回の相手、あなたのこと分かってるみたい」
「え」
「向こう側で死んでる人間が来ても、普通は見えないのに」
胸の奥が、いやなふうに冷えた。
玻璃は少しだけ顔を曇らせる。
「借金を持ってると、生きてても死んでても、格好の獲物になるから」
「最悪すぎる!」
私は叫んで走った。
*****
死後側の奥で、さっきの男を見つけた。
輪郭がほどけかけている。
まだ掴める。
まだ戻せる。
「ねえ、聞こえる!? そっちじゃない、こっち!」
腕を掴んだ瞬間、空間の奥から、ずる、と何かが這う音がした。
来る。
振り返った先に、人の形に近いものがあった。
でも顔はなく、代わりに無数の数字が貼りついている。
金額。
利息。
延滞。
精算。
支払不能。
見ただけで頭が痛くなる数字の塊が、黒い粘り気を持ってうごめいていた。
普通なら、霊体の私は怪異から見えにくい。
でも今回は違う。
こいつは顔じゃなく、数字で認識している。
私にべったり貼りついた、四千九百八十万円分の借金の気配を、あいつはきっと、私の顔よりはっきり見ている。
「いやだ……」
男の腕を引く。
帰還の線を探す。
なのに、どこにもない。
ぬいの感覚が途切れる。
玻璃の声も遠い。
「戻れる線が、薄くなってる」
薄くなるなよ!
仕事しろよ線!
と心の中で喚いたけれど、泣きたいのは私のほうだった。
引き込まれる。
ここで落ちきったら、終わる。
死ぬのと、蘇生できなくなるのは違う。
その境目を、今の私は踏みかけている。
「やだ」
声が出た。
「死んでるのに、また死ぬの、嫌だ...」
その瞬間。
暗い廊下のどこか遠くで、現実側から無理やりこじ開けるみたいな音がした。
*****
現実側の地下で、朔夜が低く告げる。
「”権限接続”」
冷たい処理音みたいな声。
次いで、内ポケットから抜いた現金の束に火が走る。
「”収益変換”」
札が燃える匂いが、死後側にまで届いた気がした。
怪異がざわつく。
数字でできた体表が剥がれ、より大きい数字に塗り潰されていく。
朔夜は迷わない。
私との接続線を手繰り寄せるみたいに、躊躇なく上書きする。
「”断界執行”」
それは宣言じゃなくて、本当に処理コマンドみたいだった。
世界が一度だけ大きく揺れた。
次の瞬間、私は男ごと現実側へ叩き戻されていた。
*****
床が硬い。
目を開けると、廃ビルの廊下の蛍光灯が白く滲んでいた。
全身が痛い。
頭も痛い。
死後側で落ちかけた時の重さが、そのまま肉体に戻ってきたみたいだった。
――そして、気づく。
額に触れていた感覚が、すっと離れた。
私は目だけで朔夜を見る。
朔夜はすでに手を引いていた。
何もしていない顔で、いつもの無駄に整った顔をしている。
「……もしかして今、触った?」
「何の話だ」
「髪か、おでこか、どっちかに触ってた」
「蘇生処置だ。意識確認だ。勘違いするな」
「……いや、でも」
「うるさい。起きたなら立て。――帰るぞ。」
冷たい。
でも、声の奥が少しだけ掠れていた。
現金を燃やしすぎたのか、無理をしたのか、それとも。
朔夜はそれ以上を全部切って捨てるみたいに、精算書を一枚差し出した。
「今回の案件費用一覧」
「今!?」
「今だ」
処理費。
呪具調達費。
蘇生費。
現地交通費。
結界補修費。
「現地交通費ってなんで私の蘇生と同列なの!?」
「移動は重要だ」
「そういう話じゃない!」
でも、その下。
借金残高の欄を見た私は、思わず固まった。
「……なんで五十万減ってんの」
四千九百三十万。
確かに、そこにそう書いてあった。
朔夜は目も合わせない。
「計算ミスだ」
「三十万引くって言ってたじゃん」
「言いすぎた。忘れろ」
ぬいが朔夜の肩の上で、こっそり私を見て、小声で呟く。
「嘘つきめ」
「うるさい」
朔夜がぬいを払う。
ぬいがひっくり返りながら私のほうへ飛んできた。
私はしばらく計算書を見た。
何か言いたかった。
たぶん、いろいろ。
ありがとうとか。
なんで五十万なのとか。
さっきの手は何だったのとか。
でも、どれも喉のところで引っかかって、うまく出なかった。
結局、出たのは一言だけだった。
「……ありがと」
朔夜は相変わらず目を合わせない。
「次からは余計な独り言を慎め。借金の数字を漏らしかけたのを俺が聞いた。止めなければ今頃消えていた」
「…………聞いてたの」
「現場だからな」
沈黙。
私は視線を落として、精算書を折りたたむ。
あの手は、蘇生処置だったのか。
現場対応だったのか。
それとも、もっと別の、何かだったのか。
答えは出ない。
聞く勇気もない。
ぬいだけが、私の肩へ静かに乗った。
「……また今日も死んだのう」
「うるさい」
私はそう言って、立ち上がった。
*****
事務所へ戻ってから、もう一度だけ電卓を叩いた。
四千九百三十万。
「……五十万、減った」
普通に考えれば、まだ地獄だ。
まったく笑えない額だ。
人生終わってる数字であることに変わりはない。
でも、今日だけは、なぜかあまり悲しくなかった。
ぬいがテーブルの端で、当然みたいな顔をして言う。
「甘いもん」
「はいはい、分かったよ」
「大福」
「図々しいな!?」
私は財布を持って立ち上がる。
コンビニくらいなら、まだ歩ける。
たぶん。
玄関を開ける前に、なんとなく振り返った。
朔夜はソファに座ったまま、何も言わない。
でも、私が出ていく背中を、一秒だけ見ていた。
たった一秒。
それだけなのに、今日はそれで十分、厄介だった。
続く。
後書き
【今回の登場人物】
影森ゆら
死にたくないのに、今回も死んだ女子高生。借金の数字に本気でキレる回でした。
夜見朔夜
顔はいいのに請求書が終わってる怪異相談屋。今回は金で怪異を殴って引き戻しました。
ぬい
口の悪い半寄生霊獣。だいたい正しいことを言うけど性格は悪いです。
玻璃
死後側でゆらを案内する少女。今回はいつもより少しだけ危機感強め。
槙野恒一
電話だけ登場の胃痛刑事。報告書に書けない案件をまた横流ししました。
【今回の話の補足】
今回は「借金の額を口にした者を精算対象として認識する怪異」でした。
ゆらは生者でも霊体でも借金の気配をべったり抱えているので、今回は死後側でも普通に狙われています。だいぶ最悪です。
あと、五十万減った理由が本当に計算ミスなのかどうかは、たぶん朔夜しか知りません。




