配信10回目 おろしたはずの通知【前編】
今回は、学校側の相談から始まります。
ぬいも一緒に潜ります。
あと今回も私は、たぶんちゃんと死にます。
放課後の校舎は、昼間より少しだけ秘密が増える。
部活へ急ぐ足音。
廊下を渡る笑い声。
窓の外では、グラウンドの土埃が夕陽に薄く光っていた。
こういう時間は嫌いじゃない。
授業は終わってるし。
まだ家に帰らなくていいし。
少なくとも今この瞬間は、どこから赤ん坊の泣き声が聞こえることもない。
最高である。
「ゆらちゃ〜ん……帰りに肉まん買ってこぉ……?」
後ろの席から、間延びした声がした。
振り返ると、夜宵るなが机に頬杖をついたまま、すでに帰る気満々の顔でこちらを見ていた。今日もふわふわしている。たぶん授業内容は三割しか覚えてない。
「まだ暑いのに肉まんは早くない?」
「でもコンビニ入ると食べたくならなぁい……?」
「なるけど」
「なるんじゃ〜ん……」
そこへ、幽々が静かに鞄を閉じた。
「影森さん」
「ん?」
「ちょっと、来て」
声が低い。
というか、低すぎた。
私は椅子を半分立ちかけて止まる。
「なに。その言い方、絶対ろくでもないじゃん」
「ろくでもない」
「即認めるなよ」
幽々は、廊下のほうへちらっと視線をやった。
その先、教室の入口の外に、見知った顔が三つ見えた。
いや、見知ったというか。
見たくはあるけど関わりたくはない顔、のほうが正しい。
クラスの不良グループ寄りの女子たちだ。
派手なメイク。緩い着崩し。明らかに校則とは仲良くない。
こっちと仲がいいどころか、普段なら目が合ったら終わりくらいの距離感のやつら。
「……なんで?」
「相談」
「いや、私、学校公認の何かなの?」
「夜見さんとこで変なの片づけてるって」
「誰だよ情報源」
「私」
「お前かよ!」
幽々は悪びれもせず頷いた。
「校内で抱えるには、ちょっと嫌だったから」
「嫌の基準が重いんだよ、毎回」
とはいえ、幽々がこう言う時は、だいたい本当に嫌なやつだ。
私は立ち上がって、鞄を肩に引っかけた。
「るな、先帰って――」
「やだぁ、一緒に行くぅ」
「なんで」
「なんか絶対こわい話でしょぉ」
「分かってるなら避けろよ」
「でもゆらちゃんひとりで行かせるのやだもん」
「そういうとこだけ親友面が強い」
言いながら教室を出る。
廊下の空気は少しだけ冷たかった。
夕方の校舎特有の、昼間より音が吸われる感じ。誰かの笑い声は遠いのに、靴底が床を擦る音だけ妙に近い。
不良女子のひとり――茶髪を高い位置でまとめた子が、私を見るなり露骨に顔をしかめた。
「……あんたが影森?」
「そうだけど。その“ほんとにこいつ?”みたいな顔やめてくれる?」
「いや、もっと胡散臭いやつ想像してた」
「十分失礼だな!?」
「でも胡散臭い男とつるんでんでしょ」
「そこは否定できないのが腹立つ」
残り二人は、さっきから妙に静かだった。
というか、静かすぎた。
いつもの強気な圧がない。
目の下が暗い。寝不足か、泣いたあとか、その両方か。
幽々が言う。
「保健室裏、空いてる」
「うわ場所がもう嫌」
私たちはそのまま、人気のない階段踊り場へ移動した。
窓は曇っていて、西日の色だけがぼんやり差している。壁の掲示物は少し端が浮いていて、いつ剥がれてもおかしくない。消毒液みたいな匂いが、保健室のほうから薄く流れてきた。
嫌な場所だ。
病院に近い匂いがする。
茶髪の子が、最初に口を開いた。
「先に言っとくけど、別にアンタらと仲良くしたいわけじゃないから」
「私もだよ」
「感じ悪」
「お互いさま」
「……でも、これ、ちょっと……やばい」
その最後だけ、声が揺れた。
私は少しだけ真顔になる。
「何が」
「通知」
「は?」
「変な通知が来る」
そう言って、スマホを差し出された。
画面を見た瞬間、背中がうっすら寒くなる。
そこに表示されていたのは、見覚えのないアプリ通知だった。
本日は妊娠12週目です。
父親欄が未入力です。
「…………」
私は無言で顔を上げた。
「いや最悪」
「でしょ」
「最悪の方向が早いんだよ」
画面をスクロールすると、同じような通知がずらっと並んでいた。
検診日が近づいています。
母子手帳を忘れないでください。
父親欄を確定してください。
「入れてない」
茶髪の子が言う。
「こんなアプリ、入れてないし。消しても戻る」
「いたずらとかじゃなくて?」
「最初はそう思った」
別の、肩までの明るい髪の子がスマホを出した。
「私にも来てる」
「うわ」
「時間、毎日きっちり零時。通知切ってもバイブだけ鳴る」
もう一人の子は、スマホを出す手が少し震えていた。
「……写真も」
「何の」
「アルバムの“おすすめ”に、入ってくる」
「何が」
聞き返したのは私じゃない。
るなだった。
その子は一瞬だけ詰まってから、小さく言った。
「エコー写真みたいなの」
るなが口を閉じる。
その沈黙が逆に重い。
私は画面を見せてもらった。
ぼやけた白黒の画像。
ノイズが多すぎて、本当にエコー写真かどうかも分からない。なのに、見た瞬間だけ、人間の脳が勝手に“そういうもの”として認識してしまう気味悪さがあった。
しかも、画像の右下には日付が入っている。
今日だ。
「これ、今日保存されたことになってる」
「保存してない」
「誰も送ってきてない」
「でも増える」
そこで、ぬいが私の鞄の口から、ぬるっと顔を出した。
「ぬ、空気が悪いのう」
「うわ出た」
茶髪の子が素で引いた。
「なにこれ」
「私も最初そうだったよ」
灰白色のちっこい霊獣は、鞄の縁に前足をかけたまま、金色の目を細めた。
「これはあまりよろしくない類じゃな」
「雑な専門家コメントありがとう」
「礼を言え。わしは今、かなり善意で出てきとる」
「お前に善意の概念あったんだ」
「薄いがある」
茶髪の子が半歩下がる。
「え、しゃべるの」
「失礼な。見れば分かるじゃろ、ただのかわいらしい霊獣じゃ」
「どこが」
「その反応、心外である」
でも、ぬいの毛並みは少し逆立っていた。
いつもの小物っぽい生意気さの奥に、ちゃんと警戒がある。
私はそれに気づいて、少し声を落とした。
「それで。他にもなんかある?」
「鏡」
「鏡?」
「トイレの鏡に、たまに映る」
「何が」
「……自分じゃないやつ」
今度は、肩までの髪の子が答えた。
「私ひとりしかいないのに、腹の前で誰か抱いてるみたいな影がある」
「はあ?」
「あと、個室入ると、下から手形つく」
「それ今まで誰にも言ってないの?」
「言えるわけないじゃん!」
その声はちょっとだけキレていた。
怖いからじゃない。
恥ずかしいからだ。
たぶん、その両方でもある。
「こんなの、言ったらさ」
茶髪の子が吐き捨てるみたいに言う。
「こっちが悪いって顔されるし」
幽々が、そこで一度だけ目を伏せた。
でも何も言わない。
まだ言わない。
代わりに、私が聞いた。
「……で、何をしたの」
「っ」
「そこごまかしても解決しないでしょ」
「影森さん」
幽々が小さく言う。
「聞き方」
「いやでも、そこいるじゃん」
「いるけど」
茶髪の子は、しばらく黙った。
その沈黙を破ったのは、三人のうち一番おとなしかった子だった。
「妊娠した」
「……うん」
「した、っていうか、してた」
「うん」
「ひとりじゃない」
「……うん」
私は相槌しか打てない。
「相手、彼氏とかじゃないし」
茶髪の子が言う。
「パパ活っていうか……紹介っていうか……まあ、そういうので」
「最悪だな」
「分かってるよ」
即答だった。
強がりじゃない。
本当に分かってる声だ。
「で、ひとりは、ちゃんと病院行って」
肩までの髪の子が言う。
「ひとりは、行く前に消えたと思ってて」
「思ってて?」
「でも分かんない」
「もうひとりは」
幽々が静かに促す。
おとなしかった子が、爪を握りしめた。
「お金だけ渡されて、終わりって言われた」
「……誰に」
「相手」
るなが、ぎゅっと自分のスカートを掴む。
「ひど……」
「ひどいよ」
茶髪の子が笑う。
笑い方が、ぜんぜん笑ってなかった。
「でもそれで済んだならまだよかった。済んでないから来たんだし」
そのとき、幽々が口を開いた。
「“済んだ”って、誰が決めたの」
全員、黙る。
幽々は壁にもたれたまま、いつもより少しだけ低い声で続けた。
「終わってないよ」
「……」
「終わったことに、されたんだよ」
言い切ったあと、階段踊り場の空気がすっと冷えた気がした。
誰もすぐには喋らなかった。
るなが、すごく小さい声で言う。
「ゆゆちゃん……」
幽々は何も返さない。
視線だけが、相談に来た三人じゃなく、その向こうの何かを見ているみたいだった。
私は、その横顔を見てしまって、変に軽いことが言えなくなる。
茶髪の子が、ようやく息を吐いた。
「……で、どうすんの」
「私に聞かれても」
「変なの片づけるんでしょ」
「片づけるのは主に顔だけいいクズ男の仕事」
「誰がクズだ」
低い声がして、全員びくっとした。
階段の上から、夜見朔夜が下りてくるところだった。
なんで来るんだよ。
というか、なんでいるんだよ。
「うわ」
「うわ、とは」
「学校の裏階段に似合わなすぎる顔がいる」
「それは褒めてるのか?」
「半分」
「残り半分は」
「不審者」
朔夜はだるそうに一段ずつ下りながら、こっちの空気をひと目で読んだ。
相談者三人。
幽々の沈み方。
るなの顔色。
私の持ってるスマホ。
「見せろ」
「やだ」
「じゃあ後で借金に加算する」
「脅迫!」
でも結局、私はスマホを渡した。
朔夜は通知履歴をざっと見て、エコー画像を二枚、レイン履歴を一件、送金スクショを一件、無言で確認する。確認したあとで、わずかに眉を寄せた。
「これ、端末内発生だな」
「何それ」
「外部アプリの通知じゃない。作られてない領域から直接出てる」
「言い方がもう終わってる」
「つまり怪異だ」
「説明が雑!」
朔夜は相談者たちへ視線を移した。
「お前ら、保健室」
「は?」
茶髪の子が睨む。
「何」
「最近、近づいたか」
「……行った」
「トイレ」
「行くけど」
「旧相談室」
「知らない」
「ラブホ」
「っ……」
その一瞬の詰まりだけで、だいたい察する。
朔夜は淡々と言った。
「入口が複数ある。だが主は学校側だ」
「学校ぉ……?」
るなが情けない声を出す。
「やだよぉ、なんで学校がそんなイヤな入口になるのぉ……」
「人が多くて、言えないことが多い場所だからだろ」
言い方が嫌に正しい。
幽々が小さく聞く。
「夜見さん、これ、入れますか」
「俺が先に行くと閉じる」
私は嫌な予感がして、顔をしかめた。
「その言い方、絶対私にろくでもない話振るやつじゃん」
「いい勘してるな」
「やだ」
「まだ何も言ってない」
「言う前からやだ」
朔夜は私の反応を無視して、スマホを返しながら言った。
「今回は女側の自己申告で入口が開いてる。男が先に踏むと、潜る」
「潜るって」
「奥へ隠れる。俺が入ったら、たぶん表層しか取れない」
「じゃあどうすんの」
「影森、お前が行け」
「は?」
私は即答した。
「なんでそうなるの」
「呼ばれやすい」
「最低の選定理由!」
「死んでも戻せる」
「雇用側の発想が終わってる!!」
るながすぐに割って入る。
「だめだよぉ! 今回ぜったい女の子向けの嫌なやつじゃん! ゆらちゃん単独はだめぇ!」
「単独ではない」
朔夜が言う。
「これをつける」
懐から出したのは、古いハンディカムだった。
ひと昔前の家庭用みたいな見た目。銀色の外装。小さい液晶。だけど、レンズまわりには細かい字がぐるっと刻まれているし、持ち手には黒い布が巻かれている。普通じゃない。
私は半目になる。
「それ絶対普通のカメラじゃないよね」
「普通のわけがないだろ」
「そこを普通に言うな」
「《既視遮断膜》を貼ってある。見たものに引かれにくい。音は《黙祓布》で少し削る」
「専門用語を早口で並べるな」
「録画を切るな。それだけ覚えろ」
そう言って、朔夜はカメラを私の手に押しつけた。
思ったより重い。
「え、待って、ほんとに?」
「入口の記録がいる」
「ほんとに私が?」
「お前以外に誰がいる」
「相談者本人とか」
「壊れかけてるのを先に入れるほど優しくない」
「そっちは優しくなくていいんだ!?」
ぬいが、私の肩へぴょんと乗った。
「わしも行くぞ」
「え」
「なにその“役に立たなさそうなのも一緒”みたいな顔は」
「だって役に立たなさそうだし」
「き、境界の匂いを嗅ぐくらいはできる!」
「くらい、って自分で言った」
「偉そうに言うな小娘!」
でも、ぬいが来ると聞いて、ちょっとだけマシな気がしてしまう自分が腹立つ。
朔夜はそれを見て、わずかに口元を動かした。
たぶん笑ってる。
むかつく。
「いや無理無理無理。今回たぶん死ぬ寄りだし」
「死ぬなとは言わん」
「そこ否定しろよ!」
「戻ってこいとは言う」
「一番厄介な励まし方!」
私はカメラを返そうとした。
でも、その前に、朔夜がさらっと言った。
「いい絵が取れたら、臨時報酬を出す」
「……いくら」
「食いつくなよぉ!?」
るなが泣きそうな声を上げた。
「そこ即反応するのこわいよぉ!?」
私はるなを見ずに言う。
「いやだって大事じゃん。死ぬかもしんないなら」
「思考がブラックバイトに慣れすぎておる」
ぬいが呆れた声を出す。
「おぬし、ほんまに扱いやすいのう」
「うるさい」
朔夜が言う。
「危険手当込みで、今回だけ上乗せ」
「今回だけ、って毎回言ってる気がする」
「今回は本当に出す」
「前回もそう言った」
「前回はお前が余計に壊した」
「全部私のせいにすんな!」
でも。
でもなあ。
私はカメラを見下ろした。
手の中の重みが、やけに現実的だ。
怖い。
やりたくない。
でも、相談者たちの顔は本気でまずい。幽々は静かすぎる。るなは半泣きだ。朔夜はどうせ私が断っても、別の最悪な言い方で押し込んでくる。
だったら、せめて金はもらったほうがいい。
「……臨時報酬、先払い?」
「図々しいな」
「命張るんだけど」
「半額」
「ケチ」
「帰ってきたら残り」
「死んだら?」
「戻したあとで引く」
「最悪!」
茶髪の子が、そこで初めて少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
でも、その笑いはすぐ消えた。
「……学校でやるの?」
「場所は?」
朔夜が聞く。
肩までの髪の子が、小さく答えた。
「旧相談室」
「使ってない小部屋」
おとなしい子が続ける。
「今は倉庫みたいになってるけど、前にそこ通った時だけ、通知の音が近かった」
「あと」
茶髪の子が言う。
「保健室前の鏡。あそこ、夜になるとやばい」
幽々が頷いた。
「旧相談室のほうが濃いと思う」
「なんで分かるの」
「呼ばれてる感じが、そっちだった」
その言葉、ほんとに言い方が嫌だ。
朔夜は即決した。
「じゃあ今夜だ」
「即断即決で人を地獄に連れてくな」
「深夜まで待つと深くなる」
「なにその怪異の常識」
「常識だ」
「知らないよ!」
―――――
夜の校舎は、昼間より広い。
門の外から見るだけで分かる。
窓の黒さが均一すぎる。昼間なら人の気配で埋まっている廊下が、夜になるとただの長い箱に見える。運動場の端では外灯が白く光っているのに、校舎の角だけが妙に暗い。
私は校門脇の植え込みの影で、死にそうな顔をしていた。
「帰りたい」
「まだ入ってもおらん」
肩に乗ったぬいが言う。
「弱いのう」
「弱いに決まってんだろ! 夜の学校なんてホラーの定番じゃん!」
「今回はさらに婦人科方面の嫌なやつじゃ」
「言うなよ!」
るなは、校門の外で今にも泣きそうだった。
「ゆらちゃん、やっぱやめよぉ……」
「私もそう思う」
「ならやめろ」
「でもここで帰ったら借金と報酬が」
「人生における判断基準がおかしくなってるよぉ!」
幽々は少し離れたところで、旧校舎側を見ていた。
「……入るなら、早めに」
「急かすなよ」
「急かしてない。たぶん、向こうが待ってる」
その言い方やめろ。
朔夜はスマホと受信機を調整しながら、いつもの温度で言う。
「影森。録画は回しっぱなし」
「うん」
「何が映ってもレンズを逸らすな」
「うん」
「呼ばれても返事するな」
「それ絶対呼ばれるやつじゃん」
「やばくなったら逃げろ」
「そこだけ普通っぽく言うな」
「逃げるなら、カメラを置いてから逃げろ」
「普通じゃなかった!」
ぬいがしっぽで私の頬をぺちっと叩いた。
「ええい、しゃんとせい。主役がそんな顔してどうする」
「主役は毎回死ぬから嫌なんだよ」
「今回はわしもおる」
「安心材料が薄い」
「ぬう」
朔夜が最後に一言だけ、少し低い声で言った。
「映像が切れたら、お前の位置が切れる」
「……それ、脅し?」
「事実だ」
「最悪」
私は深呼吸して、校舎の裏口へ向かった。
ガラス扉には、夜の私たちが黒く映っている。
私。肩のぬい。少し離れたところにいる朔夜。門の外で小さく手を振るるな。無言の幽々。
その全部が、ちゃんと現実側に見えた。
見えたのに。
鍵を開けて校舎へ一歩入った瞬間、空気が変わった。
温度じゃない。
匂いだ。
ワックス。
古い木。
プリントの紙。
それに混じって、病院みたいな消毒液の匂いが、奥のほうから薄く流れてくる。
「うわ」
「したであろう」
ぬいが言う。
「いやな匂いじゃ」
「言語化されると余計いや」
私はハンディカムの液晶を開いて、録画を始めた。
ぴ、と小さな電子音。
『映ってる』
通話越しに朔夜の声がする。
『そのまま進め』
「進め、じゃないのよ……」
廊下は、非常灯だけでぼんやり明るかった。
昼間より白い壁が冷たく見える。掲示板に貼られた健康だよりの端が、少しだけ浮いている。誰もいないはずなのに、奥からかすかに椅子を引くみたいな音がした。
「聞こえた?」
『何が』
「今」
『今は拾ってない』
「それ絶対よくないじゃん……」
ぬいが鼻をひくつかせる。
「右」
「え」
「旧相談室、右じゃ」
「お前、こういう時だけ頼れる風を出すな」
「風ではない。実際わしは頼れる」
角を曲がる。
その瞬間、液晶の中だけ景色が変わった。
「……っ」
私は足を止めた。
肉眼では、ただの校内廊下だ。
消灯した教室。並ぶ窓。薄暗い床。普通の学校の夜。
でも、ハンディカムの液晶の中では、その廊下の途中に“待合室”が出来ていた。
壁際に並ぶビニール椅子。
白い番号表示のモニター。
人のいない受付窓口。
そして、椅子に座っている、何人もの制服姿の女の子。
顔は見えない。
俯いている。
でもみんな、自分の腹の前で手を組んでいる。
「うわ」
「見えるか」
ぬいの声が少し硬い。
「思ったより出とるの」
私は喉を鳴らした。
「朔夜。見えてる?」
『見えてる』
「めちゃくちゃ病院みたいなんだけど」
『そのまま記録しろ』
「もっと優しい言葉とかない?」
『ない』
液晶の中だけに、ぴん、と小さな電子音が鳴る。
待合室のモニターに文字が流れた。
受付番号 12
すぐ消える。
その下に、見た覚えのない文字列が一瞬だけ出る。
父親欄未入力
「……さいあく」
「まだましじゃ」
ぬいが言う。
「まだ“主語”が出とらん」
「出たら終わりみたいに言うな」
私は一歩だけ進んだ。
靴底が床を擦る。
その音に合わせて、液晶の中の待合室の椅子が、きし、と小さく軋んだ。
誰も動いていないのに。
うしろから、かすかな声がする。
赤ん坊の泣き声じゃない。
もっと小さい。
泣く寸前で息が詰まったみたいな、湿ったしゃくり声。
「……っ」
「気づくな」
ぬいが急に低く言った。
「そっちは見るでない」
「でも聞こ」
「聞こえても、気づくでない」
私は唇を噛んだ。
正面。
旧相談室の扉。
肉眼では古いプレートが斜めになっているだけの、小さな部屋。
でも液晶の中では、その扉の前に白い受付台が置かれていた。
台の上に、番号札が一枚。
真っ白だ。
何も書いてない。
「なんで空白……」
呟いた瞬間だった。
液晶の中で、その番号札に、じわ、と文字が滲んだ。
影森ゆら
「は?」
声が裏返る。
「いやいやいや、なんで私」
『返事するな』
朔夜の声が一段低くなる。
『今から何が聞こえても、絶対に返すな』
その時、受付窓口の奥、誰もいなかったはずの暗がりから、自動音声みたいな、女の声みたいな、妙に平坦な呼び出しが聞こえた。
次の方。
私は凍る。
ぬいの爪が、肩越しに制服へ食い込んだ。
父親欄未入力の方。
「……やば」
「わかっとる」
影森ゆらさん。
廊下の空気が、すうっと細くなる。
私は後ずさった。
でも液晶の中の待合室は、その分だけ前へせり出してきた。椅子。受付。白い壁。呼吸しづらい消毒液の匂い。
『影森、カメラを下げるな』
「言われなくても下げたら終わる感じしかしないんだけど!?」
『そのまま旧相談室の扉だけ映せ』
「え、今!?」
『今だ』
私は半泣きのまま、手ブレしそうな腕を必死で押さえた。
扉のノブ。
古い木目。
プレートの剥がれ。
その全部を映す。
液晶の中だけ、扉が少しずつ開いていく。
中は教室じゃない。
白いカーテンの仕切り。
細いベッド。
診察台じゃなくて、学校の机。
その上に置かれた、小さな白い札。
「……っ」
札に書かれている文字が、はっきり見えた。
母体確認
「いや」
声が漏れる。
「いやいやいや、無理、無理、これ無理――」
その瞬間、私の足首に、冷たいものが触れた。
床を見る。
何もない。
でも液晶の中では、床の上を、小さすぎる濡れた足跡が、いくつもこちらへ寄ってきていた。
「ぬい」
「走るな!」
「でも」
「走れば受け付ける!」
受付。
その言葉の意味を理解した瞬間、背筋が凍る。
私は息を止めたまま、その場に縫い止められた。
『影森』
朔夜の声がする。
『まだ浅い。今なら戻れ――』
戻れ、の途中で、呼び出し音が重なった。
ぴん、という軽い電子音。
そして、
母体確認、開始します。
「は?」
液晶が大きく揺れた。
廊下の床が、肉眼ではそのままなのに、足裏だけ白いビニール床に変わる。旧相談室の扉が大きく開く。待合室の椅子に座っていた制服姿たちが、一斉にこちらを見る。
顔は見えない。
見えないのに、全員、私の腹だけを見ているのが分かった。
「やだ」
私は本気で言った。
「やだやだやだ、これほんとにやだ」
「影森、目を逸らすな!」
『カメラを落とすな!』
朔夜とぬいの声が重なる。
次の瞬間、旧相談室の中から、細い手が伸びてきた。
女の手じゃない。
子どもの手とも違う。
もっと曖昧で、白黒のエコー画像を無理やり立体にしたみたいな、薄い手だ。
それが、私の制服の裾を掴んだ。
「っ、いやあぁぁ!?」
引かれる。
強くはない。
なのに、抵抗できない。
液晶の中の白い部屋が、現実の廊下へにじんでくる。番号表示。ビニール椅子。白い壁。湿ったしゃくり声。
そして、受付窓口の奥から、また呼び出しが響く。
影森ゆらさん。
確認を開始します。
『影森! 返事するな!』
「してないだろ!」
叫んだ、その瞬間だった。
床に転がる白い番号札が、液晶いっぱいに跳ね上がる。
そこに、今度ははっきりと黒い字が浮かんだ。
母体確定
「……は?」
意味を理解するより先に、喉がひゅっと閉じた。
息が、吸えない。
胸が苦しいんじゃない。
もっと下。
腹の奥から、内側を空っぽにされるみたいに、急に冷えた。
「ぬ、い」
「くそ、引かれた!」
ぬいが私の肩から飛び降り、裾に噛みつく。
でも軽い。
軽すぎる。
引き止める力がぜんぜん足りない。
『影森、カメラ!』
「わ、かっ……てる!」
私は最後の意地で、ハンディカムを旧相談室の中へ向けた。
白い机。
番号札。
カーテンの奥。
そして、そのさらに奥――壁いっぱいに並んだ、父親欄の空白。
空白、空白、空白、空白。
その下に、誰かの名前が、いくつも途中まで書かれては消えていた。
男の名前だ。
「……さいあく」
そこで、視界がぶれた。
白い手がもう一本、今度は私の喉元へ伸びる。
冷たい。
本当に、ありえないくらい冷たい。
私は声にならない息を吐いた。
カメラが手から滑る。
『影森!』
通話の向こうで、初めて朔夜の声が荒れた。
『返事しろ!』
できるわけない。
呼吸が止まっている。
カメラが床に落ちる。
画面が斜めになる。
映るのは私の手。床。旧相談室の敷居。そして、そこへ寄ってくる、小さな濡れた足跡。
最後に、ぬいの声が聞こえた。
「おぬし、またほんまに死ぬやつか、これ――」
そこで、意識が途切れた。
続く。




