2.消えた令嬢
マーガレット・モラリスについて聞くと、誰もが『第二王子の正妃として相応しい令嬢』だと答えるだろう。
マーガレットは今日まで、人生の大半を第二王子妃としての勉強に捧げてきた。
同じ年齢の令嬢たちが友人たちとお茶会を楽しんだり婚約者とともに甘い時間を過ごしているなか、マーガレットは政治学や経済書、他国の歴史書を読み漁ってはダンスや礼儀作法の勉強に明け暮れた。
自由はなかったが、マーガレットはこの生活に不満を覚えたことはなかった。第二王子を支えることが婚約者となったマーガレットの役目だと自負していたからだ。
公爵家に生まれた以上、マーガレットには公爵家に貢献する義務があった。第二王子の婚約者になったのもその義務のためにほかならない。
公爵である父の期待に答えるべく、マーガレットは寝る間も惜しんで血の滲むような努力をした。そうしてようやく誰もが認める「第二王子妃」としての地位を確立したというのにー⋯。
「お父様はきっとお怒りになられるわね⋯」
馬車の窓の外。のどかな風景を見ながらマーガレットはポツリと呟いた。
王城をでて一刻ほど経つと、風景は城下町の活気ある喧騒からゆったりとした牧歌的な雰囲気へと変わっていく。もう少し進んだ先にある木々が生い茂る林を抜ければ目的地であるモラリス邸まで直ぐだ。
もとは王都の中心地近くに住んでいたらしいのだが、病気がちなマーガレットの母親のために父が今の場所に移住したらしい。マーガレットがまだ幼い頃「内緒ですよ」と年嵩のメイドが教えてくれた。
「公爵家の娘として役割を果たせなかったのですもの。幻滅されるに違いないわ」
厳格な父はいつだってマーガレットに完璧であることを望んだ。
父は幼いマーガレットに「貴族とはなにか」「公爵家の人間としての在り方」を厳しく躾けた。母がのんびりとした性格だったせいもあるのだろう。父は周囲の人間が心配するほどにマーガレットに厳しかった。
ー⋯マーガレットは父の感情の見えない氷のような瞳が苦手だった。
マーガレットがなにか失態を犯すたびに、叱責するでもなく無言でこちらを見下ろす、あの怒りを内包したような透き通った冬の氷面のような瞳が怖い。
今日のことを報告すれば流石に叱責されるだろうか。それともまたあの目で見られるのだろうか。ずん⋯と冷たくなった胃に鬱々とため息をついたその時、がたりと馬車が激しく揺れた。
「きゃぁっ!」
唐突な動きに対応できず、馬車が揺れた衝撃で強かに体をドアにぶつける。その衝撃でドアが開いて、マーガレットは馬車の外に放り出された。
幸いにもマーガレットがぼんやりと考え事をしている間に馬車はすでにモラリス邸近くの林に入っていたらしく、マーガレットはぼうぼうと生い茂る草の上に勢いよく倒れ込んだ。体を打ち付けられて一瞬息が止まる。
うっ⋯と呻くマーガレットの耳を激しい怒号と悲鳴が劈いた。
「お嬢様!!お逃げください!野党が⋯うわぁあぁ!!」
おそらく御者だろう。壮年の男性の悲壮な声が林に響き渡る。次いで硬いなにかがぶつかる音がして、マーガレットは無意識に喉を引き攣らせた。
(野党ですって?こんな邸の近くにどうして⋯!?)
複数人の乱暴な足音と馬が嘶く声に反射的にビクリと体が震える。恐怖で興奮しているせいか強く打ち付けたはずの体は不思議と痛みを感じない。
マーガレットは震える膝でなんとか立ち上がると、咄嗟に履いていた靴を脱いだ。そして音のする方とは反対の方向に向かって全速力で走り出す。
御者やメイドたちのことが頭を過って、一瞬戻るべきか逡巡したが、結局死ぬ恐怖に抗えなくてそのまま走り続けた。
「おい、馬車の中にはいねぇぞ!?」
「ドアが開いてる!外に逃げたんだ、探せ!」
「あっ!いたぞ!!追えー!!」
後ろから聞こえてきた怒鳴り声にマーガレットは再び喉を引き攣らせた。
普段鍛えていない貧相な足ではそう速く走ることができず、段々と迫ってくる大きな足音に一気に恐怖が全身を駆け巡る。
スカートが足に纏わりついてうまく走れない。コルセットで締め上げた肺が酸素を求めて暴れ回る。
捕まってしまうかもしれないという恐怖と酸欠でだんだんと視界が白く染まるのを、何度も瞬きをして必死に耐えた。
「っ、捕まえたぞ!!」
必死に走った甲斐も虚しく、マーガレットは呆気なく捕まった。ゴツゴツとした皮膚の感触に、ぷんと鼻をかすめる酸っぱい臭い。
掴まれた腕から伝わる人肌と尋常じゃない力の強さにマーガレットの理性は簡単に崩れ落ちた。
窮鼠猫を噛む。追い詰められた人間ほど普通では考えられないほどの力を発揮するものだ。
まさか箱入りの貴族の娘(しかも公爵家の娘である)が、これほどまでに暴れまわるとは思ってもみなかったのだろう。マーガレットの腕を掴んでいた男は、思った以上に強い抵抗を受けて咄嗟に掴んでいたマーガレットの腕を離してしまった。暴れていた反動で勢いよく投げ飛ばされたマーガレットの体が近くの茂みに倒れ込む。
「ちっ!面倒かけやがって」
「おい!!捕まえたか?!」
「あぁ、あそこの茂みに沈んでやがる。⋯くそっ。血が出てやがる」
遅れて追いついてきた仲間に、男はマーガレットが倒れ込んだ茂みのほうを顎でしゃくる。そのまま腕から血が出てるのを見て忌々しげに悪態を吐いた。
がさごそとマーガレットを探す二人を尻目に、男は爪で引っ掻いて抉れてしまった皮膚をべろりと舐めると乱暴に服で拭き取る。
「⋯おい、本当にここか?」
「あ゙ぁ!?この距離で見間違うわけねぇだろうが。馬鹿か!?もっとよく探せ!」
「探してもどこにもいねぇんだよ」
「はぁ?」
男は苛立たしげに舌打ちすると、茂みの前に立ち尽くす二人に近づいた。
「いねぇわけねぇだろ!茂みにぶん投げてお前らが来るまで数秒だぞ!?その間、女が動いた気配すらねぇってのに」
男は、マーガレットが倒れたであろう場所まで行くと思いっきり足を振り下ろした。
周囲の草が押し倒されているところを見てもこの場所で間違いないはずだった。
「⋯あ?」
振り下ろした足は本来であればマーガレットの体を踏みつけるはずであった。しかし予想に反して男の足の裏は硬い地面を踏みしめている。
男は険しい表情で周囲の草を足で掻き分けた。しかし、探せどマーガレットは見つからない。
「⋯どういうことだ?」
「⋯⋯逃げたんじゃないのか?」
「⋯いや、どうみてもあの女は限界だった」
「限界だったとしても這って動くことくらいできるだろ」
「あんなに荒い呼吸で、この距離にいる俺達に気づかれずに動いたって?そんな芸当、ただの令嬢にできるわけがねぇだろ。逃げたとして、ここ以外、周囲の草に倒れてねぇのもおかしい」
「考えるのはあとだ。とりあえず近くを探してみようぜ。お前の言う通り、相手はただの貴族のお嬢様だ。体力的にもそう遠くへは行ってないだろう」
一人の男の言葉に他の二人も素直に頷いた。
たかが貴族の娘。捕まえるのもそう難しくないはずだ。男三人は周囲の草をかき分けるようにして消えた女の姿を探した。




