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3.巨漢の男と呆けた老犬


薄明の空の下。男は愛犬のヴァングを伴って朝露で濡れる草地を歩いていた。

ウィングレー国の北東に位置するネーヴィアス領。

日照時間が短く、深い山々に囲まれた立地の影響で気温は常に10度程度と肌寒い。

巨漢の男はその脂肪のついた大きな身体を揺らしながら重い足取りで老犬の後ろをついて歩いた。

男の身体は縦にも横にも大きかった。特に横幅は普通の成人男性の三倍はありそうなほど大きく、膨らんだ腹は自分のつま先が見えないほどにせり出している。

男は贅肉で消え失せている首らしき場所を手の甲で拭うようになぞった。

ゆっくりと歩いているだけなのに額にじっとりした汗が滲んで軽く呼吸が弾む。吐く息が白い。日が昇りきらないこの時間は、日中太陽が出ている時間よりも数度気温が低い。常人であれば冷たさを感じる風も、ぶ厚い贅肉ぜいにくを内包している男の皮膚は両手を上げて喜ぶように甘受していた。


あっちにふらふら、こっちにふらふら。

庭の端に沿いながら、まるで縄張りを点検でもしているかのように寄り道を繰り返す愛犬の後ろを黙ってついていく。

日も昇らぬ早朝に庭を散歩するのが男と愛犬の毎日の日課であった。

邸の裏手に作られたこの庭はまるで林を円形にくり抜いたみたいな構造をしている。訪れた人の目を楽しませるような季節の花壇や、休憩や茶会を開けるようなガゼボは一切ない。

ひたすらに短い草で覆われただだっ広い地面が広がっているだけのこの庭を男と愛犬は気に入っていた。


「? ヴァング、どうした?」


熱心に地面や木の幹を嗅いでいた愛犬が、ふと何かに気がついたように顔を上げた。

じぃ⋯と林の先を凝視する愛犬に倣って林を見るが、男の見える範囲には何も見えない。

兎か鼠か、栗鼠でもいるのだろうか。

男は不思議そうに首を捻りながら、いまだ林を凝視している愛犬に諌めるよう声をかけた。


「⋯なにかいるのか?動物なら放っておけよ。お前ももう若くないんだから」


男の言葉に愛犬はまるで「わかっている」とでも言うように尻尾を一振りしてみせた。

男は何度か「早く行こう」と愛犬を急かしてみたが、何故かその場から動こうとしない。

普段とは異なる愛犬の行動に、だんだんと男のなかで少しの違和感と警戒心が頭をもたげる。


「⋯⋯もしかして誰かいるのか?」


まさか、と半信半疑で低く呟いた男の声に、老犬が緩く尻尾を振った。

ー⋯イエス。

咄嗟とっさに腰元をいじって護身用の短剣を確認する。男は緊張を滲ませながら、じり⋯と後退りつつ注意深く林をめつけた。


「⋯そこにいるのは誰だ!はやく出てこい!」


唐突に響いた静寂を破る男の怒鳴り声に、枝で身体を休ませていたであろう鳥たちが一斉に飛び立つ。

少しの間、羽を打ち鳴らす音と木の葉が落ちる音が周囲をざわつかせた。

それが消えると再び場には静寂が落ちる。

男は額に汗を滲ませながら、どうすべきか素早く頭を回転させる。

ここまで完璧に気配を消せるとは、れの暗殺者か、それともぞくか?

男は足元で座っている愛犬を一撫ですると軽くぽんぽんと叩いた。それは男と愛犬の合図だった。


「ヴァング。ロンを呼んできてくれ。ゴネたら噛みついてでも引っ張ってこい」


老犬は目を細めながら男の手を受け止めるとゆっくりと立ち上がった。

男は、自分の愛犬が今すぐにでも踵を返して邸へ走っていくのだと信じて疑わなかった。この老犬は男の命令を一度として違えたことがなかったからだ。

ー⋯今日までは。


「!? っおい!?ヴァング、戻れ!!」


男の手が空を切る。

太りすぎて贅肉だらけの男の瞬発力では林の中に走っていく老犬を掴まえることができなかった。

男は呆然と愛犬が走っていった林の先を見つめる。


「⋯あいつ、とうとう呆けたのか!?あぁ、くそっ!」


男は舌打ちすると、慌てて巨体を揺らしながら、消えた愛犬の背中を追って――彼にしては全速力で――林の中へと入った。


男を誘導するように、時折鳴き声を上げる愛犬の声を頼りに男は走った。

静かな林の中に自分のドスドスという重い足音が響き渡る。枝からパラパラと葉が落ちてきて鬱陶しい。

男の脳内で「お前隠れる気がないだろ」という従兄弟(ロン)の呆れる声がして思わずイラッとしてしまう。


どれくらい走っただろうか。

時間にしては数分だったが、男としては永遠ともとれるほどの距離を走った気分だ。

それまで少しだけ遠くの方で聞こえていた愛犬の声がようやく近くで聞こえてきたため、男はやっと走る足をとめることができた。

震える膝に手を当てて、ぜぇぜぇと全身で息をする男のもとに藪の中から愛犬が姿を表す。

息も絶え絶えな男を見て「やっときたか」と言わんばかりにふんと鼻で息をすると、尻尾を一振して、また来た藪の中に姿を消した。

どうやらついてこい、と言っているらしい。

男は一度深く長い息を吐くと、重りのような足を引きずってゆっくりと愛犬が消えた藪の方へと向かった。


愛犬は直ぐ近くにいた。

地面に伏せ、気怠げに前脚に顎を乗せて目を瞑っている。


「お、まえ⋯!」


男は思わずその場に座り込んだ。

愛犬のそのふてぶてしい態度に呆れるが、とりあえず息が苦しい。

久しぶりに走ったせいで悲鳴を上げた心臓と肺が酸素を求めて暴れまわっている。全身から吹き出すべとべとした汗の不快感に、男は乱暴に額を手のひらで拭った。


「⋯で?薄々勘付いていたわけだが、俺が暗殺者か賊かと疑っていた相手はそいつだったわけだな?」


男はしばしのあいだ休息すると、幾ぶんか冷静になった頭で愛犬の隣に倒れている人物を見た。

愛犬は男の言葉に答えるようにふさふさとその長い毛に覆われた尻尾を揺らす。


「そうならそうと最初に教えてくれ。はぁ⋯無駄に体力を使ってしまった」


生意気な老犬は片目を開けて男をみたが、すぐにまた目を閉じた。

倒れた人物に寄り添うように身体を伏せる愛犬を一瞥して、男は注意深くその人間を観察してみる。

華奢な体格に長い髪、ドレス姿。

ー⋯どこからどうみても女だ。

男は嫌そうに肉に埋もれた瞳を眇めた。


「随分と質がいいものを身に着けているな。ドレス、指輪、耳飾りに髪飾り⋯どれも一級品だ。髪は淡いブロンド⋯こんな女、知り合いにいたか?」


ふんふんと鼻先で匂いを嗅ぐ愛犬に緊張感はない。それでなくても寄り添って伏せている時点で危険は人物ではないのだろうがー⋯。


「そもそも、どうやってここに入ってきたんだ?」


男の一番の疑問はそこだった。

ネーヴィアス領を囲む深い山々は複雑に入り組んでいるうえに数多くの獰猛どうもうな獣たちが生息している。わば自然の要塞のような場所なのだ。

仮に慣れていない者がネーヴィアス領に入ろうとすれば必ず案内人が必要になる。案内なしに迷ってたどり着けるほど安全な場所ではない。迷うということはすなわち死を意味する。

この女が案内人を申し込んでいた場合、領主である男が把握していないのはおかしい。

しかも誰にも気づかれることなく、この領主邸の庭に侵入するなどこの女が凄腕の暗殺者でもなければあり得ない話だ。


巨漢の男――ネーヴィアス領主、ネーヴィアス公爵リアム・ネーヴィアスは、ぐったりと倒れたまま微動だにしない女を不審そうに眺めた。




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