1.婚約解消
「彼女を妻にする」
王宮の広場の一角。
長い遠征から帰ってきたこの国の第二王子、アルベルト・ゲインを出迎えるべく、その場に集まっていたすべての人間が固まった。
空は晴天。命が芽吹く季節に爽やかな風が通り抜ける今日この頃。
人目を憚らず、朗々と語る第二王子の隣には見知らぬ可愛らしい小柄な女性が寄り添っている。
アルベルトの婚約者マーガレット・モラリスは、彼の逞しい腕に抱えられるようにして囲われている可愛らしい小柄な女性を思わず見つめた。
「彼女は命の恩人なんだ」
アルベルトはマーガレットが今までに見たことないほど優しい顔で、彼のいう命の恩人とやらを熱く見つめている。
目は口ほどに物を言うとはよく言ったものだ。彼女を見る目が、彼が決して冗談半分でこんなことを言っているわけではないと雄弁に物語っていた。
(ー⋯冗談じゃないわ)
マーガレットは突然降って湧いたこの頭の痛い出来事に密かに眉を顰めた。
隣国とわが国の国境付近にある小さな街同士の小競り合いを鎮めるために半年ほど遠征に出掛けていた婚約者が自分以外の結婚相手を連れて帰ってきた、なんて。
冗談にしたって、面白くない。
「先の戦いで危うく殺されそうになったところを彼女に助けて貰ったんだ。井戸水に入れられていた毒で動けなくなった私を、彼女が献身的に支えてくれたおかげでこうやって後遺症もなく回復できた。私がここに帰ってこれたのも彼女のおかげだ!」
その場にいる皆の視線が一気に例の女性に集まった。
びくりと体を揺らす姿は小動物を彷彿とさせる。
くるりとした愛らしい瞳にふわふわの髪。質のよいドレス――恐らく道中アルベルトに買ってもらったのだろう――に身を包んでいるが、おそらく平民だろう。ぎこちない身のこなしに粗が目立つ所作。そのどれもが優雅とは言い難いー⋯が、大きく潤んだ瞳で相手を見あげる姿は庇護欲を掻き立てる。
こんな場面だというのにマーガレットは冷静だった。
少なくとも彼女以外には冷静に見えた。
「マーガレット・モラリス」
艶のある低い声が耳を打つ。
聞き慣れた声にフルネームを呼ばれて、マーガレットはこれが夢ではないと実感した。
この場にいるすべての人間の視線がマーガレットに突き刺さった。皆、マーガレットがどういう反応をするのか固唾を飲んで見守っている。
ー⋯婚約者に捨てられた女。
その視線に同情や憐憫といった感情が混じっている気がするのはきっと気の所為ではない。
マーガレットは努めて冷静に返事を返した。
「はい」
「君には感謝している。私達は婚約者として今まで互いに支え合って成長してきた。君のことは勿論好きだが、それは恋じゃない。⋯分かるだろう?」
「⋯お言葉ですが、アルベルト様。ご自分がいま何を仰っておいでか、理解されていますか?」
「当然だ。私は君ではなく彼女を愛してる。これ程に慈悲深く可愛らしい人間は他にいないだろう。命の恩人なんだぞ?彼女こそ私の妻に相応しい」
「それは彼女を側室に迎えるというお話ですか?」
「まさか!」
アルベルトが大きく目を見開いた。
「彼女は正妻だよ。私の愛する人だ。当然だろう?」
「⋯それでは、私を側室になさるおつもりですか?」
「君がそれを望むなら。でもマーガレットなら私との婚約を解消したとしても引く手数多だろう?私としては君との婚約は解消したいと思っている」
「⋯恐れながら」
マーガレットは目の前の美丈夫を見つめた。
色素の薄い金色の髪に、薄紫の瞳。甘い顔立ちに無駄な脂肪のない鍛えられた筋肉。
体を動かすことが好きで剣術の腕は国一番と謳われているが、そのかわり政治的な知略や交渉には向かない、典型的なこの国の第二王子。
だからこそマーガレットのような『お勉強ができて出しゃばりすぎない大人しい人間』が彼の婚約者に選ばれたのだが、それはこの際どうでもいい。
「アルベルト様。このことについて国王陛下はご存知なのでしょうか」
「無論だ。遠征から帰って一番にお伺いをたてたんだからな。既に陛下の許可は取ってある」
「⋯さようですか」
国王陛下がご存知だと分かった瞬間、広場に緊張が走った。
正直、マーガレットはアルベルトに愛する人ができたことなどどうでもよかった。
アルベルトとマーガレットの婚約は、国と公爵家が正式に交わした婚約という名の契約だ。政治的な意味合いが強いこの婚約に、お互いに恋愛感情を持つことができなかったのは当然の結果だといえた。
アルベルトだって人だ。
恋をすることだってあるだろう。
問題なのは命の恩人だという彼女に恋をしたことではなく、マーガレット以外を正妃にしようとしたことにある。
(はぁ⋯本当に面倒なことになったわ)
マーガレットは鬱陶しいほど笑顔を振りまいている婚約者(今では元婚約者だろうか)を見た。
恐らくだが、国王がアルベルトの訴えを容認したというのは嘘か、もしくはアルベルトが勘違いしているかのどちらである可能性が高い。
甘やかされて育ってきたせいか、アルベルトは自分の都合の良いように物事を捉える癖があった。特に彼自身が強く望むことに対してはその傾向が強くなるようだ。
アルベルトの言葉通り、国王がマーガレット以外を正妃にすることを容認したのならば、王家は公爵家との契約を反故したことになる。
そうなれば公爵である父が黙ってはいない。
公爵家と真っ向から対立する可能性があることを、あの国王が許すとは思えない。
こんな簡単なことなど子どもでも分かりそうなものだが、どうやら頭が筋肉でできている彼には分からなかったらしい。
しかも最悪な事に、愚かなアルベルトはこのような公の場でマーガレットに婚約の解消を願い出てしまった。
正気に戻るかもしれないと最後の望みをかけて国王陛下の名を出したのだが、逆効果だったようだ。
いつもであれば、彼がマーガレットの意図を察せるはずがないと分かったはずなのに、マーガレットも焦っていたのだろう。確実に下策だった。
あろうことかアルベルトは正気に戻るどころか、マーガレットではなく彼女を正妃にすることを国王陛下がお許しになったと公言してしまった。
王族の言葉に嘘があってはならない。
アルベルトの言葉を多くの人間が耳にした今、もう取り返しはつかないだろう。
この間、僅か数十秒。
マーガレットは自分ではどうしようもできない現実を認めると、これから多大な心労を掛けることになるであろう国王や両親に心から謝罪した。とくにお父様はきっと烈火のごとくお怒りになるだろう。
失態を犯したマーガレットのことを無言で冷たく見下ろす父の姿が思い浮かんで、ぶるりと身を震わせる。
マーガレットは一度強く目を瞑って気持ちを落ち着かせたあと、公爵家令嬢に相応しいカーテシーで敬意を示した。
「⋯畏まりました。国王陛下がお認めになられたというならば私に否は御座いません。私とアルベルト第二王子殿下の婚約解消を受け入れ、そしてアルベルト第二王子殿下の新しい婚約をお慶び申し上げます」
「っ!そうか!良かったな!マリー!」
(マリー⋯)
奇しくも自分と名前が似ていることに複雑な気持ちになった。マーガレットだってマリーなのだが、彼が自分のことをそうやって呼んでくれたことはない。
(ー⋯どうしてかしら。悲しいわけではないのに胸が痛いわ)
「マーガレット様、お気を確かに」
「お顔の色が優れませんわ。誰か、直ぐに馬車の用意を!」
よほど酷い顔をしていたのだろう。
メイドたちは慌ててマーガレットを取り囲むと、大丈夫だというマーガレットを押し留めて身体を支えてくれた。極度の緊張のせいで身体が冷えていたのか、彼女たちの体温が温かくて無意識に息が漏れる。
「⋯信じられない」とメイドが呟く声に顔をあげると、アルベルトとマリーが深く口付けを交わしている姿が目に入った。
「早く御屋敷に帰りましょう。今すぐに」
こんなところに長居は無用です、と冷たい声で吐き捨てるメイドの言葉にマーガレットは素直に頷いた。
この冷たくて悲しい気持ちを表現するとしたら「惨め」という言葉がぴったりくる。
準備された馬車に素早く身を滑り込ませると、マーガレットは逃げるように王城をあとにした。




