分かっていても
私は目の前の人を見据えると、唇を軽く噛む。
店の中には最近よく耳にする流行曲が流れ、私のこれから言おうとしている会話を打ち消してくれる気がして、背中を押される。
頼んだオレンジジュースに口をつけないわたしとは相反し、彼は手元に届いたコーヒーに早速口を付ける。彼の視線は多くの人が行き交う窓の外に流れていた。
「君は今日から補習じゃなかった?」
「サボりました」
補習の後半の一日目が終わったあと、木原君から一馬さんが戻ってきたことを聞いた。私はその日のうちに彼に連絡をし、翌日会う約束をしたのだ。
「あいつが聞いたら呆れるかもな」
「木原君も知っていますから」
彼は呆れるというよりは反論はしなかったという感じだった。そして、彼と途中まで一緒に来ると、近くで別れた。
「君が何を言いたいかは分かるよ。百合に告白しろってことだろう。雅哉にも言われたよ。最近、由佳ちゃんたちの間ではお節介が流行っているの?」
木原君が彼に直接はなしをしてくれるとは思わなかった。単純にその言葉に驚きを隠せない。
「百合のことはやっぱり、好きなんだと思う」
「じゃあ」
彼は首を横に振った。
「でも、やっぱり母親には幸せになって欲しいと思うから。百合を忘れるいい機会だと思った。だいたい望みがないのに十年以上片思いをしているのがおかしかったんだって思うよ」
そんなことないと否定しようとした私の言葉を彼が打ち消す。
「百合も父親が幸せになるならいいって考えていると思う。あいつも俺と似ていいて、意地っ張りで素直じゃない。いつも人のことばっかり考えてしまう。自分で言うと変な感じがするけど、そんな感じがする」
彼の言葉は当たっていると思った。だから余計に切ない。私は唇を噛んだ。
一馬さんの言葉はこれから私の言いたい言葉を奪ってしまった。
彼はコーヒーを口に含むと、それをテーブルの上におく。彼のコーヒーに小さな波が立つ。
「由佳ちゃんにこういうことを言っていいのか分からないけど、俺がいなきゃ母さんはもっと幸せな人生を送れたんじゃないかと思うときがあるんだ。あんな最低なやつの子どもなのに、本当によく育ててくれたってさ。俺、父親に似ているからさ、俺を見ているとあいつのことを思い出すこともあったんじゃないかって思ってる。だから、こうするのが俺にできる親孝行なんだ、と」
彼は辛い表情を全く見せなかった。
「こんな話聞かせて悪いね。だから百合のことはもういいんだよ」
私は首を横に振る。
彼がもっと利己的な人ならどんなに良かっただろう。彼が親だから自分の面倒を見て当然とか、親だから子供の幸せを考えるべきなんてことを言ってくれたら、私の胸の中の疼きがマシになってくれるはずなのに、彼の言葉はその疼きを余計にひどいものにしてしまう。
何で神様は幸せを平等に与えてくれないのだろう。彼も多くの苦労を味わっているはずなのに。そして、なぜ私はこんなに無力なのだろう
「俺のことはいいから、雅哉のことを考えてあげろよな。あいつの彼女になったんだろう」
彼の言葉にうなずく。明るい気持ちにはなれなかった。
「雅哉が幸せそうで安心した。だから、君もそんな顔をしないで笑ったほうがいいよ」
彼はそれ以上百合の話には触れなかった。
お店を出るとき、私の分も支払いを済ませると、笑顔でこういった。
「今からでも学校に行くように。君の両親は君が学校に行っていると思っているんだから。俺は今から用事があるから帰るよ」
私は返事をせずに、ただ頷くだけだった。それは一馬さんの言葉に反発を覚えたからじゃない。私の予想通り、私の目の前の景色が歪み、彼の後姿がかき混ぜたようにぐちゃぐちゃになる。
私の目から熱いものが毀れだす。
お節介だって分かっている。でも、なんでこうちぐはぐでうまくいかないんだろう。
一馬さんのお母さんにだって幸せになってほしいとは思う。でも、百合や一馬さんの幸せはどこにあるんだろう。十年以上、片思いをし続けられる相手なんてそうそういるものじゃない。
「どうかしたの?」
優しい声が聞こえてきた。私はその声につられるようにして、顔を上げた。
そこに立っていたのは黒髪で長身の女性。髪の毛は短くショートカットの人にしているのに、どこか上品で落ち着いた印象を与えていた。私の母親と同世代ではないかというような気がした。
「何でもないです」
しらない人にまで迷惑をかけてしまったことに気付き、首を横に振る。
彼女は白いハンカチを取り出すと、私に差し出した。
「大丈夫です」
そう言おうとしたのに、言葉がうまく出てこない。私は自分のハンカチを取り出すとあふれる涙を拭いた。
「さっきの人に泣かされたの?」
「違うんです。私が彼にひどいことを言ってしまったの。でも、このままだと嫌なんだもん」
私が一馬さんにそうしたのは嫌だったからだ。
彼女は私を見て、にっこりと笑顔を浮かべる。
「何か言いたいことがあるの? 私、彼と知り合いだから、話なら私がしてあげようか?」
「そうなんですか?」
「彼のことならたいていのことは知っていると思うわ。試しに聞いてみて。私は口が堅いから大丈夫よ。他の無関係な人には何も言わないから」
「名前は?」
「矢島一馬。誕生日は十一月の二十九日。大学は」
彼女はすらすらと彼の誕生日や、大学の学科、私の知らない小学校の名前や、中学校の名前、身長なども伝え聞かせていた。木原君や百合のことも知っていたことからもや、本当に彼の知り合いなのではないかと思ったのだ。
彼女の強引さに押し切られる形で、入ったばかりのお店に入り、そのことを伝えていた。彼女は時折、目を見開きながら、話を最後まで聞いてくれた。最後まで言うと、その黒髪をゆっくりとなぞる。
「それって、両親は知っているの?」
「知らないと思います」
「話をしてみたらいいのにね」
彼女は寂しそうな笑みを浮べていた。
「言えないのじゃないかなって思います。親に幸せになって欲しいから。彼がいっていることも分かるけど、折角自分の気持ちに気付いた友達が気の毒で。そのことを知らないさっきの彼もやっぱり気の毒で。私、お節介だから、友達に幸せになって欲しい。でも、そしたらきっと二人の両親は幸せになれなくて。そんなことを願ってしまう私はすごく嫌な子なんです」
そのとき、彼女の手が私の手に触れた。女性にしては大きな手は私の手をすっぽりと包み込んでくれた。
「そうやって友達のことを気にできる子が嫌な子なわけはないわ。それに人の幸せなんて、本人にしか分からないのだから、あなたは何も心配しなくていいし、自分を責めなくていいのよ」
彼女の言葉は不思議なぬくもりを与えてくれ、さっきの空虚感を埋めてしまった。同じ感覚をずっと前に味わったことがあった。
「それに知らないほうがショックってこともあるでしょう。自分の子供が何を考えていたか知らなかったなんて」
彼女はそう苦々しい表情を滲ませながら伝えた。
私たちはそれぞれの飲み物を飲むと、お店を出ることにした。彼女は自分が誘ったのだからと私の分まで払ってくれた。私が自分で払うと言っても、彼女はかたくなに受け入れようとしない。最後にはさっきのことを誰にも言わないで欲しかったら気にしないこととまで言われ、黙るしかなくなっていた。
彼女の姿を見送り、私は学校へ行くことにした。結局、私は一人で空回りをしていただけなのかもしれない。
学校で百合と話をしたが、笑顔で話をしてくる彼女がやけに切なかった。




