ささやかな願い
病室を出ると、木原君のお母さんに尋ねた。
「あの、病室にあったマグカップとマスコットって」
「あれは百合ちゃんが贈ってくれたの。雅哉と一緒に買いに行ったから、って。ちょうど夏くらいだったかな」
私は以前、二人が一緒にいたことを思い出していた。あのときに買ったとは限らないが、その前後には購入していたんだろう。
「そのとき北田さんから雅哉が一番大事に思っている人が選んだ品だからって言っていたの。随分可愛いプレゼントだったけど、姉さんも喜んでいたわ。あれはあなたの選んだプレゼントなのかしら?」
長い間会っていない母親へのお見舞いに何を買えばよいのか分からずに私に聞いたのだろう。
自分の好きなものを選んでしまって後悔していた。
「私が変なことを言ってしまったからあれになったのだと思います。ごめんなさい」
私は木原君のお母さんに謝った。
「そんなことないわよ。あの子が選んでくれたプレゼントだから嬉しかったのだと思うわ。二度と会ってくれないかもしれないと言っていたから。それにね、姉さんが言っていたのよ。私はあの子にこういったものを何も買ってあげたことがなかったって。本当はこういったものを子どもにあげるときに、あの子を捨てたんだって。自分はこういったものを与えられない親だったけど、誰かへのプレゼントにこういった可愛いものを選んでくれるような、自分とは違う優しい人があの子の隣にいてくれてよかった、って言ってたわ」
「でも、私がいなくても木原君はおかあさんに会いにきたと思いますよ」
「かもしれないわね。でも、あなたがいてくれるのと、そうでないのではあの子の心は違っていたんじゃないかと思う」
私がそんなに木原君に大きな影響を与えられるとは思わない。でも、影響を与えられたら、これ以上嬉しい事はない。
「籍は入れてなかったんですか?」
私の問いかけに彼女はうなずく。
「そうみたいね。姉の財産も保険金も全部雅哉にあげてほしいと言われたわ。それは一馬君のお父さんも承知していて。あの子には時期を見て話すつもり」
彼女の中に母親の部分が残ってはいたんだろう。だが、もっと上手な方法はなかったんだろうかと思わずにはいられなかった。
私は木原君の家まで送ってもらい、そこから歩いて帰ることになった。彼女は百合の家まで送ってくれると言ったが、細い道を通ることもあり、ここで大丈夫だと伝えたのだ。
強い太陽の日差しが再び私に降り注ぐ。だが、不思議と暑さは感じなかった。木原君の母親に出会った複雑な気持ちが何よりも先行してしまっていたんだろう。
そのときはどういう経過を経てそんな結論に達したか分からなかった。ただ、あのときの彼に会いたかったからかもしれない。
私は記憶の中の道を思い出しながら歩き続けた。森を分け入っていくと、足場で小枝の折れる音が響く。一気に視界が一気に開ける。
そこはは背後で木が佇み、草原が広がっていた。
ここで彼に会い、全てが始まったのだ。だが、あのとき彼女が木原君の家を出て行かなければ私はここで彼に会うことはなかった。
私はかがむと、地面から目を出している草に触れる。
「田崎さん」
私はその声に立ち上がって振り返る。思わず声を上げそうになる。
「一馬さんに会うって」
「会って帰ってきたところ。近くを通りかかって、懐かしくなってここに来たんだ。でも、誰かに聞いた?」
私は彼の言葉にうなずく。そして、木原君のお母さんと一緒に、本当の母親にあいにいったことを伝えた。私は彼の頬に手を差し出した。彼の頬は温かくて、それが何だか切なかった。
「大丈夫?」
「大丈夫だよ」
彼の過去はどうすることもできない。でも、これから二度と彼を悲しませずにすむことはできるんだろうか。その答えを求めるために、ゆっくりと二歩だけ歩いた。彼との距離が狭まる。目の前に穏やかな笑顔を浮かべている彼の姿があった。私をそっと抱き寄せてくれた。
「これから、名前で呼んでいい?」
私は彼の胸の中で頷いた。
私たちは過去におばあちゃんのあった家の前に行った。彼の案内つきで、だ。
その場所に行くと、記憶の景色に別の画像が埋め込まれたようななんともいえない違和感があった。同時に祖母の家はもうないのだと改めて思い知らされる。
「本当にがらっとかわっちゃったんだね」
祖母の家のあった場所の前にじっと佇む。
「あれから十年以上経つからね」
私は屈むと、あのときと変わったであろう地面の土をじっと見ていた。
「あのときはどうしてあのことであんなに怒っていたのか自分でも驚くくらい不思議だったな」
私が最後におばあちゃんに言ったのは彼女に対する文句だ。お父さんに買ってもらったガラスでできた置物を彼女が割ってしまったのだ。
その後、仲直りをせずに家に戻り、再び会った祖母は帰らぬ人となっていた。そして、私は同時に自分を責め続けた。私が怒ったから、彼女は具合が悪いことを知らせなかったのではないか、と。
「そんなものだと思うよ。人の気持ちなんて時間が経てば変わるから」
彼は泣いている私を慰めるためにこう言ってくれた。
自分が大人になったらおばあちゃんに私のことを怒っているか聞いてあげる、と。
「君の祖母が何を考えていたか知らないけど、今になってみて思うのは、自分がそれだけ好きな相手だったなら、相手が自分のことを嫌っているってことはあまりない気がするんだよね。もちろん、例外もあるんだけどさ」
「そうかもしれないね」
きっと私の願望を木原君が言葉にしてくれているだけだろう。それは分かっていても、その言葉を信じたかったのだ。
残りの日程で、私は晴実の受験するかもしれない大学を見に行った。百合も一緒だ。
一馬さんに百合の気持ちを伝えたらどうなるのだろう。それでも一馬さんが親の再婚を望んだら、二人の関係は家族としてもうまく取り繕えるか分からない。私には何も言うことができなかった。
百合に大丈夫か聞くと、彼女は笑って大丈夫だと言っていた。
一馬さんはもう少し向こうに残るらしく、一緒には帰ってこなかった。彼も百合に合わせる顔がなかったのだろう。百合は一馬さんが別に帰ることに、肩の荷を降ろしているように見えた。百合のお父さんはその少し前に家に戻っていた。
私たちが駅を出ると、辺りはもう闇が落ちていた。晴実と百合を家の近くまで送ってから、帰宅の途につく。
帰りがけに木原君はぽつりと言葉を漏らす。
「一馬のお母さん、百合のお父さんと再婚するらしいね」
「他に何か言ってなかった? 結婚して欲しくないとか、反対しているとか?」
「やっと再婚してくれてよかったって」
「百合に未練ないのかな」
「あいつの性格を考えたら、吹っ切ったと思うよ。北田が妙な意地を張らなきゃよかったのにな」
「そういえば気づいていたんだよね? 百合が彼のことを好きって。どうして?」
「なんとなく。見ていたらそんな気がした。北田はなんだかんだ言っても、いつも一馬のこと気にしていたから」
百合が彼の文句を言っていたのもその一種だったのかもしれない。
「自覚なかったらしいよ。一馬さんに結婚のこと言われるまで」
彼は天を仰ぐと、首を横にふった。
「そっか」
「どうにかできないかな」
私の言葉に木原君は首を横に振るだけだ。
私も分かってはいた。二人はお互いの気持ちを過去にしようとしていることを。私には幸せの二文字が重く、それでいて理解できなかった。
家に帰ると向こうの様子を両親と姉に聞かれた。
私は彼女たちの質問に卒なく答えながらも、百合のことばかり考えていた。




