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約束  作者: 沢村茜
第八章
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一瞬だけ

 まばゆい光で目を覚ますと、隣で寝ていたはずの二人の姿はなかった。洋服に着替えると、隣の部屋に行く。そこには笑顔で会話をする百合と晴実の姿があった。


 百合は私と目が合うと、朝食の準備をしてくれた。その彼女に昨日の面影は見当たらない。昨日の出来事が夢であったのではないかと思うほどだ。


 結婚、か。


 私がパンをかじったとき、携帯電話が鳴る。発信者を見て、思わず食べていたパンをコーヒーで喉の奥に流し込む。そして、深呼吸をして電話を取った。


「朝早くからごめんなさいね。今日、時間を取れないかしら」


 電話をかけてきたのは木原君のお母さんだった。


 突然の電話に緊張し、時間だけを決めると電話を切った。


 そんな私の様子を見て、百合も晴実も驚いている。


「木原君のお母さんから家に呼ばれたんだけど、午前中、でかけてきていいかな」

「いいよ。私達はこの辺りを適当に散歩するね」


 私は残っていた朝食を食べ終えると、彼の家に行く準備をすることにした。



 つい先日見たばかりの家の前に立ち、チャイムを鳴らす。清閑な場所にチャイムの音だけがこだまする。


 インターフォンのライトがともり、名前を名乗る。すぐに玄関の扉が開き、スカイブルーのサマーニットを着た女性が出てきた。彼女は私と目があうと、軽く頭を下げる。


 そして、家の中に通された。この前は門のところで失礼したので、家の中に入るのは初めてだった。家の中に入ると、木原君のお母さんが青の水玉模様のスリッパを差し出してくれた。私はそのスリッパを履く。


「今日はごめんなさいね」


 彼女は私がスリッパを履き終わったタイミングでそう言葉をつむいだ。


「いいえ。気になさらないでください」


 私はリビングに通され、ソファに腰を下ろした。家の外観と違わずとても広い。右手は一面のガラス戸になっており、色鮮やかに咲き乱れる草木を確認できる。


 すぐに香ばしい香りと共に、木原君のお母さんがやってきた。彼女は紅茶の入った白のティーカップを私に差し出す。


「雅哉は一馬君と会うらしくて出かけてしまったの」


 一馬という名前を聞き、胸が痛んだ。その痛みに気付かない振りをして、彼女の入れてくれた紅茶を飲むことにした。


「あなたに無理を承知でお願いがあるの」


 彼女はしばらく間を置く。


「私の姉に会ってくれないかしら?」


 私は彼女の言葉に戸惑っていた。


 彼女の姉と言うことはすなわち、木原君の本当のお母さん。彼を捨てた母親。


 確認の意味を込めて、彼女に尋ねる。


「木原君の本当のお母さんですよね?」


 彼女は頷く。

 なぜ私なのだろう。それが分からなかった。


「あなたと雅哉はつきあうようになったんですってね」

「はい。ここに来た日にそういうことになりました」


 木原君のお母さんに嫌な顔をされるのではないかという不安はあった。だが、彼女はにっこりと笑う。


「そのことを姉さんに話したら、一目でいいから会いたいという話になったの」


 自分の息子の彼女だからなのだろうか。木原君を置いていったのに、そんな気持ちがあるということが正直意外だった。


 私は木原君のお母さんをじっと見据えていた。


「すごく、失礼なことを聞いていいですか?」


 彼女は首をかしげて私を見る。


「彼女の、お姉さんのことをどうして面倒を見ようと思ったんですか? 彼女があんなことしなければ、自分の好きな人と結婚して、自分の子どもを持てたかもしれないのに」


 正直彼女が怒るかもしれないと思っていた。部外者の私がそこまで言う問題でもなかったのは分かっていたが、言わずに居られなかった。


「一馬君のお父さん一人ではもう抱えきれないと思ったからよ。あの人に対して複雑な気持ちは確かにある。でも、私の姉だったから。変な話だけど、彼と結婚したことは後悔していないのよ。でも、姉が同じことをしても均さん以外の人なら、結婚まではしなかったと思う。これがどういう意味を持つのか今でも分からないけど、ただ一ついえるのはあの人たちの家族になれて幸せだったということ、かな」


 幸せという言葉を木原君に聞かせてあげたいと思った。彼は自分のせいでお母さんを不幸にしたと考えているようだったから。


 彼女は優しく微笑んでいた。


「でも、私の存在があの子をいい子にしてしまっているのかもしれないと思うこともあるわ。私がいないほうが、あの家族は幸せになれたんじゃないか、と」


 彼とお母さんは根本はずっと同じ気持ちを抱き続けていたのだろう。無責任なことが嫌いで、実直で、嘘を吐くのが苦手で、何事にも精一杯だった。


 血のつながりは実の親子よりは遠いが、その関係は普通の家族よりは深いような気がしていた。いつか二人の間でその誤解が解ける日は来るのかは分からないが、きて欲しいと思う。互いがいたからこそ幸せがあったのだ、と。


「分かりました。お会いします」


 私は木原君のお母さんを知らない。でも、そこまで木原君を大事に思ってくれた女性の頼みだからこそ、私は木原君の本当の母親に会おうと思ったのだ。



 病院はこの辺りにある大きめの総合病院だった。病院の前にある駐車場には多くの車が並んでいる。その一角に彼女は車を止めた。車の中で大まかな症状などを聞いた。木原君から聞いた話は大まかに当たっていて、来年を迎えることができないというのが医師から伝えられた診断だ。


 木原君は昨日、彼女に会ったらしい。言葉は少し交わしただけで、親密に話をすることはなかったらしい。しばらく見舞い、一馬さんのお父さんと会わないように早めに帰宅したとのことだった。この夏が母親をゆっくり見舞える最後のタイミングであったのだろう。


 私は彼女を好きにはなれないと思う。でも、そんな気持ちをできるだけ表面に出さないようにと言い聞かせる。


 木原君のお母さんに案内され、たどり着いたのは個室の部屋。プレートには入院患者の名前が記されているが、それを見て、首を傾げる。


 木原君の話によれば父親の弟と恋愛関係になっていたが、彼女の苗字は木原ではなかった。原口文と書かれていたのだ。


「その苗字は私の旧姓なの」


 彼女は私の戸惑いに気付いたのか、そう囁いた。彼女に導かれ、病室に入る。入ってすぐにはカーテンがかけられている。そのカーテンをくぐると、人の姿を確認した。


 彼女の年齢は私の母親とさほど変わらないはずだった。むしろ若い可能性もある。だが、その姿を確認したとき、私は何もいえなくなっていた。


 短く切られたショートカットの髪の毛。少し青白い印象を受けるかさつきのある肌。化粧っ気は全くないのに、綺麗な楕円を描いた眉のラインに、付け睫毛をしているのでないかと思うほど、長い睫毛をしていた。唇は青ざめ、肌と同様にかさつき、手首は驚くほど白く、細い。


 彼女は目を細めると、軽く頭を下げた。


 実年齢よりも年を重ねた印象はある。それでも綺麗な人だった。

 多くの人が彼女を見ると、目を奪われてしまうのではないかと思うほど。


 どこか可愛い印象の彼の今のお母さんとは違い、彼女は落ち着いた女性という雰囲気を醸し出す。


 彼女が瞬きをして、その長いまつ毛が揺れる。


 彼女はお母さんではなく、女の人という表現がしっくりと来る。


 木原君のお母さんが私の肩に触れる。


「この子が雅哉の彼女の田崎由佳さんよ」


 彼女はその言葉に笑顔で応えるだけだった。もっと悪人らしい印象を受ければ、どんなに楽だっただろう。そこにいた人は彼を捨てた悪人には到底見えなかった。


「何か食べたいものはある?」

「大丈夫よ」


 その声は低く、かすれていた。


 私は彼女を直視できずにその脇にあるテーブルを見た。そこにあるものを見たとき、私は思わず声をあげそうになる。私が以前、木原君と一緒に見たマグカップと私にかってくれたものよりワンサイズ大きいマスコットだった。


 時折、二人が会話を交わす。普通の姉妹が交わすような味気ない、一時間後には忘れてしまうような会話だった。木原君のお母さんから私に質問が投げられれば返す程度で、積極的に口を開くことはしなかった。開けなかったといったほうが正しいのだろう。


 文さんのほうは私に何かを問いかけてくることはなく、じっと私のことを見つめるだけだ。


「そろそろ帰るね」


 木原君のお母さんが私の背中を軽く叩く。病室にいたのは二十分程だ。


 どこかホッとして病室の外に出ようとしたとき、文さん名前を呼ばれた。振り返ると文さんが私の迷いを見透かしているような笑みを浮かべていた。一瞬だけ、彼女が彼の母親に見えた。


「私がこんなことを言うのもおかしいと思うけど、あの子のことをお願いね」


 子供に語り聞かせるようにゆっくりと言葉をつむぐ。


 その彼女の様子にただ「はい」としか言えず、気の利いた言葉はでてこなかった。


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