第七十五話:精霊の名
練武場のひんやりとした石畳の上に座り込んだまま、俺は荒い息を整えていた。
その傍らで、シズがクレアの腕の傷を確認しながら、珍しくあからさまな怒りの色を露わにしていた。
「……全く、無茶しすぎ。この傷の深さ……本当に切り落とすつもりだったの?」
シズはどこからか持ってきた大きめの救急箱から、消毒液や包帯、ガーゼをテキパキと取り出している。
だが、当のクレアは顔色ひとつ変えず、至って平然と言い放った。
「これくらい大丈夫よ。骨までは届いてないしね。包帯をグルグルに巻いておけば何の問題もないわ」
肉を割かれた激痛など一切存在しないかのように、クレアは痛がる素振りすら見せず淡々と治療を受けている。
そのタフさに引いている俺たちの前で、シズはハァ……と重い溜息を吐き出した。
「……事前に聞いてなかったら、絶対止めてた」
「シズ、知ってたのか!? なんで止めなかったんだよ!」
その言葉に驚き、俺は思わず跳ね起きてシズに詰め寄った。
シズはジト目で俺を見上げると、呆れたように肩をすくめた。
「……レインと一緒。止めたけど、全然言うこと聞かなかった」
「あぁ……うん、そうだよな……」
妙な説得力に、俺も思わず納得して項垂れてしまった。
思い返せば、俺が一人で準決勝を観戦していたあの時間、クレアはシズにしっかりと根回しをしていたのだろう。
道理で救急箱など手際が良いわけだ。
やがて治療を終えたクレアは、真っ白な包帯が巻かれた自分の左腕をまじまじと見つめると——あろうことか、その腕をグルングルンと力任せに回し始めた。
「ちょっと……っ!?」
シズが慌ててその手を掴んで止める。
「なによ! 大丈夫よこれくらい、ほら!」
そう言ってクレアは、ドヤ顔で俺たちに左腕を突き出してみせた。
包帯にはうっすらと赤い血が滲んでいるものの、それ以上染みが広がってくる気配はない。驚くべきことに、あれだけの深手だったにもかかわらず、すでに血は止まっているようだった。
あまりの回復力と頑丈さに、俺とシズは思わず顔を見合わせ、同時に言葉を漏らしていた。
「……ほんとに人間か?」
「……肉体の強いアイスライト人と言っても、これはおかしい」
俺とシズの「人外扱い」のハモりに、クレアは「失礼ね!」と眉を逆立てて怒り出したが、その滑稽なやり取りにやがて三人でどっと笑いが弾けた。極限まで張り詰めていた練武場の空気が、一気に和やかな温もりを取り戻していく。
やがて、何かを思い出したようにクレアが手を打った。
「そういえばレイン、さっきちゃんと魔法を撃てたみたいだけど……精霊だっけ? ちゃんと対話はできたの?」
「あっ……そういえば」
すっかり忘れていた。
俺は目を閉じ、あの可憐な声が響いていた深層へとそっと語りかけてみた。
『……精霊さん? 聞こえますか?』
『……』
何の返答もない。しんと静まり返っている。
諦めずにもう一度、念じるように強く呼びかけてみた。
『おーい……精霊さーん?』
すると次の瞬間——頭の中に、とびきり可愛らしく、華やかな声が響き渡った。
『——リュミエール! 私の名前は、リュミエール・セレスティアルよ! リュミって呼んでね』
っ! 答えてくれた……!
今まで危機的状況でしか聞こえなかった正体不明の「声」が、初めてはっきりと名を名乗り、まともな意志の疎通ができたのだ。
胸の奥から湧き上がる感動と嬉しさを抑えきれず、俺の口元は自然と緩み、へらへらとした笑みが漏れ出ていた。
……が。
「ねぇレイン……気持ち悪いわよ」
目の前でクレアが、冷ややかな視線を向けて蔑んできた。
「……うん、気持ち悪い」
間髪入れずにシズまで同調して頷いてくる。女性2人に気持ち悪いといわれた俺は、心なしかダメージを負うのであった。




