第七十四話:狂気の刃
「……クレア、何冗談言ってるんだよ」
俺は半ば呆れ顔で相手にしないよう受け流そうとした。だが、クレアの瞳にはふざけた色など微塵も存在しなかった。至って大真面目な顔で言葉を重ねてくる。
「冗談じゃないわよ。……覚えてないの? 一度エミリーと魔物相手に向かって、すごい魔法を打ったことがあったじゃない。あの時みたいに極限まで追い込まれれば、魔力も制御できるようになるんじゃないかしら」
……マンティコアとのあの死闘のことを言っているのだろう。
だが、あの時はそうしなければ俺たちが全滅していたかもしれない。それに何より、あの局面を乗り越えられたのは、俺の意思ではなく頭の中に響いた『あの声』に偶然助けられたからに過ぎない。
それを再現するためにクレアに向かって直接魔法をぶつけるなんて、そんな狂った真似ができるわけがない。
「無理に決まってるだろ! 第一、上手くいかなかったらクレアが大怪我……いや、もしかしたら……」
クレアが死んでしまうかもしれない……。
最悪なイメージが頭をよぎり、俺は恐怖で言葉を途中で濁らせた。
するとクレアはムッとしたように眉をひそめ、不機嫌そうに吐き捨てた。
「ハァ……グダグダうるさいわね。いいからついて来なさい!」
言うやいなや、クレアは控室の扉を勢いよく開けて足早に歩き出した。
一度言い出したら絶対に後へ引かない。それがクレア・フォントネルという女の性格だと、これまでの付き合いで痛いほど理解している。
だが、今回ばかりは許容できる一線を越えている。なんとしても説得して思い留まらせなければと、俺は焦ってその後を追った。シズもまた、どこか心配そうな固い表情を浮かべながら静かに俺たちの後ろをついてくる。
クレアが俺たちを連れてきたのは、闘技場内部に位置する練武場だった。
出場選手が直前の調整やウォームアップを行うための施設であり、魔法の暴発事故を防ぐために壁や天井には頑丈な防御結界が何重にも張り巡らされている。
「ここなら、周りに迷惑もかからなくて大丈夫でしょ」
そう言うと、クレアは俺から十メートルほど距離を取って立ち止まった。
そして手にしていた模造刀を無造作に床へ投げ捨てると、腰の鞘から愛剣【アストライア】を引き抜き、すっと美しく構えた。
「さぁ、いつでもいいわよ。レインも腕輪を外しなさい。……そうね、打つ魔法は【ファイアボール】でいいわ」
全く人の話を聞こうとしないクレアの態度に、俺の胸の中にもふつふつと苛立ちが込み上げてくる。
「だから無理だっていってんだろっ! 上手くいく可能性なんて万に一つもないんだ! ……俺は、お前を傷つけたくないんだよ……」
最初は激しく荒らげた声も、最後の言葉では情けなく絞り出すように小さくなっていった。
クレアは「はぁ……」と深々と大きな溜息をつくと、あっさりと剣の構えを解いた。
……俺の声が届き、分かってくれたのだろうか。安堵しかけた俺の目の前で、クレアは予期せぬ奇行に及んだ。
スッと左手を真っ直ぐ前に突き出すと、右手で握りしめたアストライアの白銀の刃を、あろうことか自分の左腕の皮膚へそっと押し当てたのだ。
「なっ……!? あ、危ない! 何やってんだクレアっ!?」
青ざめて慌てふためく俺に対し、クレアは据わった冷ややかな瞳で、淡々と——恐怖すら覚えるほど穏やかな声で告げた。
「あんたが魔法を打たないっていうなら、私は今この場で自分の腕を切り落とすわ。……私を傷つけたくないんでしょ? だったら、私に向かって魔法を打ち撃ちなさい」
全身の血が一気に引いていくような、背筋が凍りつくゾッとした感覚が駆け抜けた。
今までも言動が常軌を脱していることは多々あった。だが、今回はあまりにも狂っている。
俺が魔法を撃たなければ自分で腕を切り落とす……!? 正気じゃない!
「だ、だから無理だっていってるだろ!? 少しは俺の言うことを聞いてくれよ!!」
必死の叫びも、今のクレアの耳には一切届かない。
クレアは「そう……」と一言だけ小さく呟くと、右手にぐっと力を込めた。
「つッ……!」
鋭利な刃が皮膚を切り裂き、クレアの左腕から鮮血が溢れ出した。ポタポタと、床の石畳を真っ赤に染めていく。
「やめろっ!! 分かった! 分かったから……!! だから頼むからやめてくれっ!!」
俺の悲痛な叫びを聞き、クレアは満足そうにアストライアの刃を左腕から離した。
そして何事もなかったかのように血を垂れ流したまま、再び両手で剣を構え直す。
「ふふ、さぁ……いつでもいいわよ」
クレアの左腕からは絶え間なく血が滴り落ち、足元に小さな血の池を作り出している。
あの出血量……刃をかなり深く肉まで食い込ませなければああはならない。クレアは『本気』なのだ。
後ろにいるシズを見るが、シズもただ静かにその光景を見つめているだけで、止める素振りすら見せてくれない。
俺には……もう何の選択肢も残されていなかった。
俺は絶望に震える手で腕輪を外した。
激しくガクガクと震える右手を左手で必死に押さえつけ、クレアに向けて前へと突き出す。
俺は今から……クレアに魔法を叩き込むんだ……
脳裏に、これまで俺が魔法を放ってきた魔物たちの最後が凄惨に浮かぶ。
炎に包まれ、悲痛な断末魔を上げながら、真っ黒な消し炭へと変わっていく魔物たちの姿。それが、今目の前に立つクレアの姿と重なり合う。
手の震えは止まらず、目頭から溢れ出た涙が視界を歪ませていく。
「早く打ち撃ちなさいよ! 次は本当に腕を切り落とすわよ!!」
容赦のないクレアの追い打ちが、俺の精神を極限まで追い詰める。
俺は覚悟を決めた。ぼやけた視界のまま、魔力を右手に集中させ、クレアを殺してしまうかもしれないという絶望の中で魔法を唱えようとした——その瞬間。
脳裏の真っ白な闇の中に、透き通った『あの声』が鈴を転がすように響き渡った。
『——もう、いい加減に私の声を聞いてよ!』
どこか甘えるような可憐で可愛らしい女の子の声。
俺は藁にも縋る思いで、心の中で必死に叫んだ。
頼む……助けてくれっ!!
『あ、やっと届いた! 全く、いつもギリギリなんだから。……いいよ、打っちゃいなさい♪』
その言葉と温かな魔力の感覚に全てを委ね、俺は魔法を解き放った。
「——【ファイアボール】!!」
俺の右手から放たれたのは、腕輪で完璧に威力を制御している時と全く同じ、ボールほどの小さく綺麗な火球だった。
それを見たクレアは、ニヤリと満足げに唇を歪めると、迫り来る火球に向けてアストライアを一閃させた。
白銀の刃が一瞬で火球を切り裂き、爆風とともに相殺してみせる。
「ふふっ、やっぱりね。やればできるじゃない。……って、また泣いてる。相変わらず泣き虫なんだから」
左腕からだらだらと血を流したまま、クレアはケラケラと楽しそうに笑っていた。
そこへシズが急いで駆け寄り、手慣れた手つきでクレアの腕の応急処置と包帯巻きを始める。
「あっ……」
安堵と精神的な疲弊が一気に押し寄せ、俺は膝から崩れ落ちるようにその場へへたり込んだ。
『ありがとう』
そう心で呟くと、
『どういたしまして』
と嬉しそうにする女の子の返事が頭に響いた。




